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 のろのろと歩いていたが、ガージの家はすぐそばに迫っていた。庭で剣を振るっていた彼が、エフラに気づいて動きを止めた。
「珍しいね、兄さんがこんなところまで来るなんて」
「……少し、話をしたくて」
「あぁ、フロト族に侵攻するために仲間を募るのをやめろって言いたいんでしょう」
 エフラが言葉を発する前に、ガージがそう言って笑う。口角は上がっているが、目は全く笑っていない。
「分かってるなら、やめろ。ザフィル様の許可なしに、勝手な行動をするな」
「兄さんは、あの人に心酔してるからね。確かにあの人は強く、今まで民を導いてきた。人を惹きつける魅力だって、あるしね」
 そこまで言って、ガージは笑顔を消して真顔になる。
「だけど、所詮あの人も恋に溺れた愚かな男だった。民よりも、女を選んだんだ」
「……」
「ザフィル様がウトリド族の巫女姫を密かに囲っていること、兄さんだって知っているはずだ」
 反応してはならないと思うのに、微かに肩を震わせてしまう。以前にザフィルと、ファテナの話をしている際に誰かの気配を感じたのは、ガージだったのだろう。
「……彼女は、もう精霊を呼べない。家族にも虐げられていたのを、保護しているにすぎない」
「それがあの人が巫女姫を縛りつけるための嘘でないと、証明できる? あの人は、ただ気に入った女を独占したいだけなのでは?」
 ガージは問い詰めるように身を乗り出した。エフラは反論する言葉を探して口をつぐむ。
 ザフィルに抱かれて、彼女は純潔を失っている。だが、水の精霊が彼女の周辺を未だうろついていることもエフラは知っている。そんな彼女が精霊に願えば、井戸や川の水を再び豊かにすることもできるかもしれない。ただしそれは、ファテナの命と引き換えになるに違いないが。
 自らの命を削って民のために尽くしてきた彼女に、更に命を差し出せというのはあまりに酷だ。母親を精霊の生贄として奪われたザフィルは、同じことを二度と繰り返さないと決めている。
 だがザフィルにも話したように、ファテナ一人の命で大勢の命が助かるのなら、誰もが犠牲の少ない方を選ぶ。ガージも、それを考えているのだろう。
「純潔を失った巫女姫の願いに、精霊がどこまで応えるかは分からない。逆に精霊の怒りをかう可能性だってある」
 絞り出した言葉を、ガージは小さく鼻で笑った。
「兄さんも、ザフィル様に影響されて随分と甘い考えをするようになったね。精霊が怒ったところで、その矛先は巫女姫に向かうだけだ。彼女を捧げて水不足の解消を試みることの何がいけないんだ。ザフィル様は、民がどうなってもいいと考えているとしか思えない」
「そんなことは」
「だって、そうでしょう。巫女姫は手放したくない、フロト族に侵攻もしたくない。そんな我儘が通ると思う? 女に溺れて民を見捨てる愚かな男など、族長に相応しくない。だから、彼には辞めてもらうことにした」
「ガージ、おまえ……」
 目を見開くエフラを見て、ガージはにこりと笑った。その顔は迷いを吹っ切って晴れやかにも見える。
「一応ね、尊敬する人を倒すことはしたくなかったんだ。だけど、今のあいつになら迷うことなく剣を向けられる」
「違う、ガージ。ザフィル様は、誰もが傷つくことなく生きていく道を探しているだけだ。今日掘った井戸からは水が出たし、無駄な争いをする必要は……」
 必死に言葉を重ねようとしたエフラは、腹部に火を押しつけられたような熱さを感じた。思わず見下ろすと、ガージの剣が身体に刺さっている。
「……っあ」
「うるさいなぁ、兄さんは本当に昔から生真面目で融通がきかなくて嫌になる。別に族長に相応しいかどうかなんて、どうでもいいんだよ。精霊を呼べるかどうかも、水資源を得ることも、どうだっていい。あいつを倒すために、弱みを見つけたから利用する、それだけだ」
 勢いよく剣を引き抜かれて、燃えるような痛みにエフラはその場に崩れ落ちた。傷口を手で押さえるが、真っ赤な血がどんどんあふれてくる。
「急所は外しておいたから、運が良ければ死なないかもね。こんな集落のはずれに、誰かが来るとも思えないけど」
 倒れて動けないエフラの顔をのぞき込んで、ガージはにっこりと笑う。
「もし生きてたら、その時は引き続き族長の補佐として働いてもらうね、兄さん」
「待て……ガージ」
「そうだ、助かりたいなら、巫女姫の居場所を教えてよ。あいつが自分の部屋の近くに囲ってることは分かってるんだけど、詳しい場所がまだ分かってないんだ。教えてくれたら、手当をしてあげるよ」
「誰が、おまえなんかに」
 痛みを堪えて吐き捨てると、ガージはすうっと目を細めた。
「あぁ、そう。教えたくないなら別に構わないよ。館に火を放てば、炙り出されてくるだろうから」
「そんな……」
 唇を震わせたエフラを見下ろして、ガージは呆れたように笑った。 
「もう全てが遅いんだよ。あいつが女に溺れてる間、ぼくらはずっと準備をしてきた。今夜、全てが終わる。テミム族の新しい族長は、このぼくだ。近いうちにフロト族の土地も、ぼくのものになるだろうね」
 族長になったら、今度はフロト族に奇襲をかけるのだとガージは楽しげに語る。欲しいのは水の豊かな川だけで、そこに住まう人々は不要だから皆殺しにすると言う。その行いはかつて故郷のジャイナ族を滅ぼした、名も知らない部族と同じであることにガージは気づいているのだろうか。
「あいつをおびき寄せる餌になるウトリドの巫女姫。美人だって噂を聞いたこともあるし、顔を見るのが楽しみだ」
「やめろ。僕らがこうして生きてるのは、ザフィル様のおかげだと、おまえも分かってるだろう」
「その恩は、もう充分返したと思うよ。あいつの下で、ぼくらはたくさん働いてきた。戦う気のない族長なんて、ぼくは求めてない。あいつから奪う時が来ただけだ」
「ガージ……っ」
「あまり喋らない方がいいよ、出血が酷くなる。ぼくだって、兄さんに死んでほしいわけじゃないんだから」
 剣で貫いておきながらそんなことを言って、ガージは立ち上がった。
「じゃあね、兄さん。また会えるかどうかは分からないけど」
 ひらひらと手を振って、ガージは立ち去った。ザフィルが簡単にやられるとは思えないが、弟はファテナを人質に取るつもりだ。ザフィルは必ず、彼女を守ろうとするだろう。
 ずっと民のために尽くしてきたザフィルがようやく手に入れた最愛の人を、失わせるわけにはいかない。
 エフラは、痛みを堪えて立ち上がった。出血が酷く頭がぼんやりとするが、腰につけた剣を杖の代わりにして、少しずつ前に進む。
 何度もよろめき、時には膝をつきながらも、エフラは必死にザフィルのもとを目指した。
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