16 / 19
15 走るニナ
しおりを挟む
それからというもの、エリスはリーゲルと遭遇すると逃げるようになった。
これまで友人として接していた人物に突然恋愛感情を持たれていたと知ったのなら戸惑うのも仕方がないと無理矢理納得させていたが、一週間も挨拶すらしてくれないとなるとリーゲルがジメジメになるのも仕方がない事である。
「……エリス様……そんなに僕が嫌いだったなんて」
王族の所有する辺境の屋敷、つまりはリーゲルの住処の一室でニナはジメジメで項垂れている彼に申し訳なさそうにして言葉をかける。
「エリスはちょっと動揺してるだけだって言ってたぞー。もうちょっとで元に戻るからってー」
「……元の関係に戻って聞かなかったことにするんですね」
「そ、そうはならんと思うがーたぶんーきっとーおそらくー……」
言い切ることはできないニナにリーゲルは更に消沈する。
ニナもエリスにリーゲルをどう思っているのか聞こうとしたが、頑ななエリスは話そうとしない。
「僕は失恋したんだな……」
「いや、そうと決まったわけではー……ないとおもうけどー……」
リーゲルは顔を上げどこを見ているかもわからない瞳で前を向いた。
「もう少し距離を縮めてから告白すれば、まともに話して気持ちに決着をつけられただろうか……」
「うっ」
リーゲルの好意を突然エリスにバラしてしまったニナにその一言は効いた。そう、しかるべき順序を踏んでいればエリスが逃げの一手を取ることも無かっただろう。恋愛関係に発展するかしないかは置いて、良い雰囲気で締めくくることはできたに違いない。
恋愛感情の関係ないリオスの提案はすんなり判断できるが、恋愛初心者であるエリスは好意を受け入れるにせよ、断るにせよ、心の準備が必要だったというのに。ニナのせいでなんかグダグダになってしまった。
虚ろな表情のリーゲルを見てニナは懊悩する。ニナとてリーゲルは嫌いでない。学生時代は友達じゃないと言い張ったが、実際は友達だと思っている。
「うぅ~~~~、わかった! ニナちゃんがどうにかする! 待ってろりーげる!」
□
城に返ってきたニナは幼児姿に変身してから滞在する部屋に向かった。今日は休日の為、エリスは部屋で本を読んでいた。
「エリス! 何でリーゲル避ける!」
「何でって、前にも言った通り、すこし動揺しているの。だから少し落ち着いたら……」
「そんなん言ってもう何日!? さすがに逃げられまくるりーげるかわいそかわいそ!」
リーゲルが可哀想と言われてエリスは言葉に詰まる。
「いますぐ理由だけでも言って!」
「……ええと、理由もよくわからなくて……少し冷静になってから考えたいの」
「今考えて―早くー早く―!」
ニナは地面に寝転がり手足をバタバタさせて駄々っ子ムーブを始める。だが、エリスは本当にもう少し冷静になってからリーゲルと向き合いたいのだ。
「今考えてくれたら1日ばぶニナちゃんプレゼント!」
「え!? 本当? わかったわ、今すぐ何故か考えてみるわね」
嬉しそうにしてから、すぐに考え込むように口に手を当てるエリス。自分から言ったもののエリスはどんだけ赤子ニナが好きなんだよ……とニナは腑に落ちない気持ちになった。
エリスは思考の海に沈みこむ。今まで貴族令嬢としての役割を果たす以外のことを考え無いようにしていた為、苦手ではあるが自分の気持ちを手探りで確かめる。
心はかつてない程動揺していた。まさか、リーゲルが自分に好意を持っているなどにわかには信じがたかった。しかし、ニナが嘘を吐くとも思えない。だから事実なのだろう。
そういえば辺境に来たばかりのリーゲルに街を案内した休日、妙に距離が近かった。エリスの中では「親切な殿下が平民となった私が異性との距離に慣れる為、親切で平民としての距離で接してくれた」とぼんやり結論付けていたが、もしやそうではなかったのか。純粋な好意からであったのか。
そもそも顔見知り程度だったのに、学園在学中急に接してきたのはニナと過ごすようになってから、という事はその時点で少しだとしても興味を持たれていたのは間違いない。ニナに興味があっての事かもしれないと一瞬思い付くものの、恋愛感情があることを前提として思い返せば、リーゲルは分かりやすい程ニナよりもエリスのことを気にしてくれていた。
何故、リーゲルの想いに気付けなかったのか。辺境伯の好意には気が付くのに。
考えてみれば簡単なことだった。気付かなかったのではない、早々気付いていて無意識に目を逸らしていたのだ。なにせ当時は対立していた派閥の人間、しかも婚約者の弟である。いや、派閥や家については言い訳だ。単に婚約者の弟ということで、最初から除外していたのだ。あのまま結婚して、王子妃になったとして、リーゲルから想いを寄せられたままだとしたら、険悪な夫との仲やニナが傍にいない辛さから確実にリーゲルを頼ってしまっただろう。その結果、よからぬ噂などされればリーゲルの名誉に傷が付く。それだけは避けたかったのだ。
避けたい。どうして。
───だって、リーゲル殿下は元婚約者と兄弟のはずなのに正反対で。王太子候補と思えないほど浅慮で短気な元婚約者、常に笑みを崩さず冷静で穏やかなリーゲル殿下。
エリスを罵倒して得意げだった婚約者はリーゲルには何も言い返せていなかった。兄弟の中で一番武術は優秀だったらしいが、弟に言葉で勝てないからと逃げていた。力では勝てない筈の相手にリーゲルはその知性で戦う前から勝っていたのだ。
──素敵と思わない方が難しいわ。だから私は殿下に迷惑を掛けたくなかった。
迷惑を掛けて嫌われたくなかった。彼にエリスさえいなければ、なんて少しでも思われたくなかった。彼はそんな他責思考ではないと信じているが、彼だって人間だ。不貞を疑われ疲れてしまった時にエリスさえ好きにならなければ、何て少しも思わないのは難しいかもしれない。でも、それは嫌だ。
「ねえ、ニナ。嫌われたくないというのは、どういうこと?」
「ふぁっ? 嫌われたくないなら好かれたいなんでは? 知らんけど」
──そうか、私は殿下に好かれたかった。つまり私は殿下が好きだった……のかしら。だからこそ、好意から目を逸ら……あら?
好きなままでいて欲しいから、好意から目を逸らした。結果だけみれば悪女に近い。
「私、殿下になんて酷いことをっ……」
もう平民であるエリスはリーゲルの好意を素直に受け取っても良かったのだ。平民と貴族の身分問題はあるが、以前の立場にくらべれば容易い壁だ。だというのに今が幸せだからと引き続き無意識に無視し続けた。
「私……殿下に顔向けできない……」
真っ赤になった顔を両手で覆って小刻みに震えるエリス。
「あれー?」
リーゲルから逃げるエリスをどうにかしたかったのに悪化させてしまったニナは焦る。エリスを揺さぶっても何の反応が無い為、困ったニナはリーゲルの元へと走っていった。
□
「りーげる! どうにかしようと思ったらエリスがりーげるに顔向けできないとか言い出しちゃった!」
飛び出していったニナがすぐ戻ってきたと思ったら、この一言。リーゲルはもう何も発言できなかった。その何も感じさせない無の表情にニナは流石にやばいと感じ、いままでかいたことの無い種類の汗を感じた。
「りーげるりーげるしっかりしろ! あー、えーっと、エリスはリーゲルのこと好きっぽいから顔向けできないって! 嫌いとかじゃないから! な! な!?」
その言葉にリーゲルの瞳に僅かに光が戻り、ホッとするニナ。
「その好きは……友人としてだと?」
「うーん、ニナさんにはよくわからんが違う気がする?」
まさか本当に? とは思ったが、鈍いエリスが気が付かなかったリーゲルの好意を、それがわかりやすいものだったとはいえ感じ取っていたニナだ。その彼女の意見が全く外れているとは思いにくいとリーゲルは判断した。顔をあげニナを見詰める。
「少なくとも恋愛対象として論外ではないということでしょうか」
「うん! それは多分まちがいないぞ!」
リーゲルからジメジメが晴れてゆく。
「しかし、そうとなると何故顔向けができないのか……」
「それは知らん」
「……エリス様に理由を伺いたいですが、それは難しいでしょうか」
顔を真っ赤にしていたエリスを思い出しニナは頷く。
「ちょっとあの様子だと無理かも?」
「そうですか……続けて避けられるのであればどうしてよいのやら。無理矢理こちらから押し掛けるのは失礼ですし」
「焦らんでいーんでは?」
「僕もそうしたいのですが……」
少しづつ恋愛対象として仲を深めていきたいと思うリーゲルだが、エリスが現在辺境伯の元で暮らしているのを忘れてはいけない。接する機会はあちらの方が多いのだから、ふとした何かの切っ掛けでエリスの心が辺境伯に傾いてしまうかもしれないのだ。
それを説明されてニナは気が付く。エリスが辺境伯の元で暮らすようになったのは聖女騒動のせい。聖女騒動は何故起こったか、エリスの薬が神殿に知られたせい。エリスの薬が知られたのは何故か、ニナがエリスの薬は凄いと広めようとしたせい。
「あっ……」
エリスに好きなように結婚相手を探して欲しい、そして幸せになって欲しいのだと気が付いたニナは特に誰も推してはいない。しかし、辺境伯に有利でリーゲルに不利な状況を作ったのはニナだ。
辺境伯がエリスに接しようとする度ばぶニナで邪魔することもできるが、エリスに選んで欲しいなら邪魔するべきではない。再び困ったニナはリーゲルに直接言う事も出来ず、エリスの元へ急いで帰ることにした。
□
「ニナ、どこへ言っていたの? 心配したのよ」
少し落ち着きを取り戻すとニナが居ないことに気が付いたエリスは門番からニナが出たことを聞いて少し嫌な予感がした。しかし外に出る事もできず部屋でニナを待っていた。
「りーげるのとこいってた」
「えっ」
「りーげるにエリスはりーげる好きっぽいって伝えて安心させてきたんだけどー、そこで問題に気づいちゃってー……」
「えっ」
嫌な予感が的中してしまった。
──そんな、今まで好意を無視していたことでさえ失礼なのに、避けていたことも謝らずに、先に好意があることだけ殿下に知られた……? どうすればいいの、どんな顔して会えばいいの。恥ずかしい。こんな小さな事で動揺する自分が情けない……。ニナの為に子孫を残すなんて言ったのに、恋愛感情を意識しただけでこの体たらく……心優しい殿下と言えど私に呆れるかもしれないわ。
エリスの顔からじわじわ血の気が引くのを目にし、ニナが固まる。そうだ、リーゲルの好意をバラすのはよくないことだった、なのにエリスの好意をリーゲルに伝えてしまった。しかも、その事をエリスに伝えてしまった。せめて黙って置けば良かった。
「ごめん、エリス、ごめん……」
今迄散々迷惑を掛けているのに、エリスの初めての恋愛事も台無しにしている。ニナの目に涙が滲み始める。
ここで、いつものエリスならばニナの涙に気が付き「ニナは悪く無いわ」と声を掛けただろう。だが、現在エリスは俯いたままふらふらと寝室へ向かった。様子がおかしいニナは追いかける。たどり着いた寝室、エリスは自分のベッドに上がり、毛布をばさりと被り蹲る。そう、それは白いパン。ニナの寝方である。何かもう精神が限界になったエリスはパンになってしまったのである。
「えりすー……? えりすー?」
名を呼び何度揺さぶっても微動だにしない白いパン。真っ青になったニナは寝室を飛び出した。
□
帰ったはずのニナがリーゲルの元へまたもや現れた。何故か号泣しながら。
「うぇっうぇっ」
「どうしたんですか、ニナ嬢!」
とりあえず止まらない涙と鼻水を拭ってやりながらソファに座るよう促し、落ち着くまで待ってやってから理由を尋ねる。
「エリスが白いパンになっちゃって、全然動かなくてェ……」
「はい?」
「エリスがりーげる好きっぽいのりーげるに言ったのエリスに言うのダメだった……」
「あぁ、成程……」
先ほどはジメジメしていて気が回らなかったが、ニナがエリスの好意をリーゲルに伝えたことを黙っていられるはずが無いのだ。理由はわからないが顔向けできないと言っているエリスがそれを知ったら更に動揺するだろう。その結果、これ以上の外からの情報を拒むように布団に引きこもったのだと推測した。それにしてもニナの呼びかけにも反応しないとなると余程のことである。
──そこまで動揺が悪化というのは……自惚れかもしれないが、もしかすると辺境伯よりも僕はエリス様に好感を持たれている? それならば焦る必要はそれほどないかもしれない。だが……。
リーゲルはそこで、鼻水をかんでいるニナへ視線を向ける。
恋愛初心者であるリーゲル、同じく恋愛初心者であるエリス、そこにニナを投入すると──何か、グダグダになる。それは現在の状況を見ても明らか。女性の好む恋愛劇や恋愛小説のようなロマンチックな恋愛はまず不可能であると考えた方がいい。それに、今後エリスと恋人になれたとして、ニナが無意識に良い雰囲気をクラッシュしてゆくのは間違いない。それどころか、些細なすれ違いがニナを介して悪化していく様さえ目に浮かぶ。予測できたとしても奔放なお子様ニナを対処しつつ、上手く恋愛関係を発展させてゆく自身がない。
──ニナ嬢の存在が悪いのではない。ニナ嬢の言動に対処できない僕が悪い。僕が恋愛経験豊富であれば……。
リーゲルは少しの間瞼を伏せて黙考し、決意を確かに目を開けた。
「ニナ嬢、僕はエリス様の元へ向かいます」
「えっ?」
「貴女は落ち着くまでここに居てかまいませんよ」
「……んーん、付いてく……」
リーゲルは元気なくぽてぽて歩くニナと手を繋いでゆっくりと歩いて向かった。
これまで友人として接していた人物に突然恋愛感情を持たれていたと知ったのなら戸惑うのも仕方がないと無理矢理納得させていたが、一週間も挨拶すらしてくれないとなるとリーゲルがジメジメになるのも仕方がない事である。
「……エリス様……そんなに僕が嫌いだったなんて」
王族の所有する辺境の屋敷、つまりはリーゲルの住処の一室でニナはジメジメで項垂れている彼に申し訳なさそうにして言葉をかける。
「エリスはちょっと動揺してるだけだって言ってたぞー。もうちょっとで元に戻るからってー」
「……元の関係に戻って聞かなかったことにするんですね」
「そ、そうはならんと思うがーたぶんーきっとーおそらくー……」
言い切ることはできないニナにリーゲルは更に消沈する。
ニナもエリスにリーゲルをどう思っているのか聞こうとしたが、頑ななエリスは話そうとしない。
「僕は失恋したんだな……」
「いや、そうと決まったわけではー……ないとおもうけどー……」
リーゲルは顔を上げどこを見ているかもわからない瞳で前を向いた。
「もう少し距離を縮めてから告白すれば、まともに話して気持ちに決着をつけられただろうか……」
「うっ」
リーゲルの好意を突然エリスにバラしてしまったニナにその一言は効いた。そう、しかるべき順序を踏んでいればエリスが逃げの一手を取ることも無かっただろう。恋愛関係に発展するかしないかは置いて、良い雰囲気で締めくくることはできたに違いない。
恋愛感情の関係ないリオスの提案はすんなり判断できるが、恋愛初心者であるエリスは好意を受け入れるにせよ、断るにせよ、心の準備が必要だったというのに。ニナのせいでなんかグダグダになってしまった。
虚ろな表情のリーゲルを見てニナは懊悩する。ニナとてリーゲルは嫌いでない。学生時代は友達じゃないと言い張ったが、実際は友達だと思っている。
「うぅ~~~~、わかった! ニナちゃんがどうにかする! 待ってろりーげる!」
□
城に返ってきたニナは幼児姿に変身してから滞在する部屋に向かった。今日は休日の為、エリスは部屋で本を読んでいた。
「エリス! 何でリーゲル避ける!」
「何でって、前にも言った通り、すこし動揺しているの。だから少し落ち着いたら……」
「そんなん言ってもう何日!? さすがに逃げられまくるりーげるかわいそかわいそ!」
リーゲルが可哀想と言われてエリスは言葉に詰まる。
「いますぐ理由だけでも言って!」
「……ええと、理由もよくわからなくて……少し冷静になってから考えたいの」
「今考えて―早くー早く―!」
ニナは地面に寝転がり手足をバタバタさせて駄々っ子ムーブを始める。だが、エリスは本当にもう少し冷静になってからリーゲルと向き合いたいのだ。
「今考えてくれたら1日ばぶニナちゃんプレゼント!」
「え!? 本当? わかったわ、今すぐ何故か考えてみるわね」
嬉しそうにしてから、すぐに考え込むように口に手を当てるエリス。自分から言ったもののエリスはどんだけ赤子ニナが好きなんだよ……とニナは腑に落ちない気持ちになった。
エリスは思考の海に沈みこむ。今まで貴族令嬢としての役割を果たす以外のことを考え無いようにしていた為、苦手ではあるが自分の気持ちを手探りで確かめる。
心はかつてない程動揺していた。まさか、リーゲルが自分に好意を持っているなどにわかには信じがたかった。しかし、ニナが嘘を吐くとも思えない。だから事実なのだろう。
そういえば辺境に来たばかりのリーゲルに街を案内した休日、妙に距離が近かった。エリスの中では「親切な殿下が平民となった私が異性との距離に慣れる為、親切で平民としての距離で接してくれた」とぼんやり結論付けていたが、もしやそうではなかったのか。純粋な好意からであったのか。
そもそも顔見知り程度だったのに、学園在学中急に接してきたのはニナと過ごすようになってから、という事はその時点で少しだとしても興味を持たれていたのは間違いない。ニナに興味があっての事かもしれないと一瞬思い付くものの、恋愛感情があることを前提として思い返せば、リーゲルは分かりやすい程ニナよりもエリスのことを気にしてくれていた。
何故、リーゲルの想いに気付けなかったのか。辺境伯の好意には気が付くのに。
考えてみれば簡単なことだった。気付かなかったのではない、早々気付いていて無意識に目を逸らしていたのだ。なにせ当時は対立していた派閥の人間、しかも婚約者の弟である。いや、派閥や家については言い訳だ。単に婚約者の弟ということで、最初から除外していたのだ。あのまま結婚して、王子妃になったとして、リーゲルから想いを寄せられたままだとしたら、険悪な夫との仲やニナが傍にいない辛さから確実にリーゲルを頼ってしまっただろう。その結果、よからぬ噂などされればリーゲルの名誉に傷が付く。それだけは避けたかったのだ。
避けたい。どうして。
───だって、リーゲル殿下は元婚約者と兄弟のはずなのに正反対で。王太子候補と思えないほど浅慮で短気な元婚約者、常に笑みを崩さず冷静で穏やかなリーゲル殿下。
エリスを罵倒して得意げだった婚約者はリーゲルには何も言い返せていなかった。兄弟の中で一番武術は優秀だったらしいが、弟に言葉で勝てないからと逃げていた。力では勝てない筈の相手にリーゲルはその知性で戦う前から勝っていたのだ。
──素敵と思わない方が難しいわ。だから私は殿下に迷惑を掛けたくなかった。
迷惑を掛けて嫌われたくなかった。彼にエリスさえいなければ、なんて少しでも思われたくなかった。彼はそんな他責思考ではないと信じているが、彼だって人間だ。不貞を疑われ疲れてしまった時にエリスさえ好きにならなければ、何て少しも思わないのは難しいかもしれない。でも、それは嫌だ。
「ねえ、ニナ。嫌われたくないというのは、どういうこと?」
「ふぁっ? 嫌われたくないなら好かれたいなんでは? 知らんけど」
──そうか、私は殿下に好かれたかった。つまり私は殿下が好きだった……のかしら。だからこそ、好意から目を逸ら……あら?
好きなままでいて欲しいから、好意から目を逸らした。結果だけみれば悪女に近い。
「私、殿下になんて酷いことをっ……」
もう平民であるエリスはリーゲルの好意を素直に受け取っても良かったのだ。平民と貴族の身分問題はあるが、以前の立場にくらべれば容易い壁だ。だというのに今が幸せだからと引き続き無意識に無視し続けた。
「私……殿下に顔向けできない……」
真っ赤になった顔を両手で覆って小刻みに震えるエリス。
「あれー?」
リーゲルから逃げるエリスをどうにかしたかったのに悪化させてしまったニナは焦る。エリスを揺さぶっても何の反応が無い為、困ったニナはリーゲルの元へと走っていった。
□
「りーげる! どうにかしようと思ったらエリスがりーげるに顔向けできないとか言い出しちゃった!」
飛び出していったニナがすぐ戻ってきたと思ったら、この一言。リーゲルはもう何も発言できなかった。その何も感じさせない無の表情にニナは流石にやばいと感じ、いままでかいたことの無い種類の汗を感じた。
「りーげるりーげるしっかりしろ! あー、えーっと、エリスはリーゲルのこと好きっぽいから顔向けできないって! 嫌いとかじゃないから! な! な!?」
その言葉にリーゲルの瞳に僅かに光が戻り、ホッとするニナ。
「その好きは……友人としてだと?」
「うーん、ニナさんにはよくわからんが違う気がする?」
まさか本当に? とは思ったが、鈍いエリスが気が付かなかったリーゲルの好意を、それがわかりやすいものだったとはいえ感じ取っていたニナだ。その彼女の意見が全く外れているとは思いにくいとリーゲルは判断した。顔をあげニナを見詰める。
「少なくとも恋愛対象として論外ではないということでしょうか」
「うん! それは多分まちがいないぞ!」
リーゲルからジメジメが晴れてゆく。
「しかし、そうとなると何故顔向けができないのか……」
「それは知らん」
「……エリス様に理由を伺いたいですが、それは難しいでしょうか」
顔を真っ赤にしていたエリスを思い出しニナは頷く。
「ちょっとあの様子だと無理かも?」
「そうですか……続けて避けられるのであればどうしてよいのやら。無理矢理こちらから押し掛けるのは失礼ですし」
「焦らんでいーんでは?」
「僕もそうしたいのですが……」
少しづつ恋愛対象として仲を深めていきたいと思うリーゲルだが、エリスが現在辺境伯の元で暮らしているのを忘れてはいけない。接する機会はあちらの方が多いのだから、ふとした何かの切っ掛けでエリスの心が辺境伯に傾いてしまうかもしれないのだ。
それを説明されてニナは気が付く。エリスが辺境伯の元で暮らすようになったのは聖女騒動のせい。聖女騒動は何故起こったか、エリスの薬が神殿に知られたせい。エリスの薬が知られたのは何故か、ニナがエリスの薬は凄いと広めようとしたせい。
「あっ……」
エリスに好きなように結婚相手を探して欲しい、そして幸せになって欲しいのだと気が付いたニナは特に誰も推してはいない。しかし、辺境伯に有利でリーゲルに不利な状況を作ったのはニナだ。
辺境伯がエリスに接しようとする度ばぶニナで邪魔することもできるが、エリスに選んで欲しいなら邪魔するべきではない。再び困ったニナはリーゲルに直接言う事も出来ず、エリスの元へ急いで帰ることにした。
□
「ニナ、どこへ言っていたの? 心配したのよ」
少し落ち着きを取り戻すとニナが居ないことに気が付いたエリスは門番からニナが出たことを聞いて少し嫌な予感がした。しかし外に出る事もできず部屋でニナを待っていた。
「りーげるのとこいってた」
「えっ」
「りーげるにエリスはりーげる好きっぽいって伝えて安心させてきたんだけどー、そこで問題に気づいちゃってー……」
「えっ」
嫌な予感が的中してしまった。
──そんな、今まで好意を無視していたことでさえ失礼なのに、避けていたことも謝らずに、先に好意があることだけ殿下に知られた……? どうすればいいの、どんな顔して会えばいいの。恥ずかしい。こんな小さな事で動揺する自分が情けない……。ニナの為に子孫を残すなんて言ったのに、恋愛感情を意識しただけでこの体たらく……心優しい殿下と言えど私に呆れるかもしれないわ。
エリスの顔からじわじわ血の気が引くのを目にし、ニナが固まる。そうだ、リーゲルの好意をバラすのはよくないことだった、なのにエリスの好意をリーゲルに伝えてしまった。しかも、その事をエリスに伝えてしまった。せめて黙って置けば良かった。
「ごめん、エリス、ごめん……」
今迄散々迷惑を掛けているのに、エリスの初めての恋愛事も台無しにしている。ニナの目に涙が滲み始める。
ここで、いつものエリスならばニナの涙に気が付き「ニナは悪く無いわ」と声を掛けただろう。だが、現在エリスは俯いたままふらふらと寝室へ向かった。様子がおかしいニナは追いかける。たどり着いた寝室、エリスは自分のベッドに上がり、毛布をばさりと被り蹲る。そう、それは白いパン。ニナの寝方である。何かもう精神が限界になったエリスはパンになってしまったのである。
「えりすー……? えりすー?」
名を呼び何度揺さぶっても微動だにしない白いパン。真っ青になったニナは寝室を飛び出した。
□
帰ったはずのニナがリーゲルの元へまたもや現れた。何故か号泣しながら。
「うぇっうぇっ」
「どうしたんですか、ニナ嬢!」
とりあえず止まらない涙と鼻水を拭ってやりながらソファに座るよう促し、落ち着くまで待ってやってから理由を尋ねる。
「エリスが白いパンになっちゃって、全然動かなくてェ……」
「はい?」
「エリスがりーげる好きっぽいのりーげるに言ったのエリスに言うのダメだった……」
「あぁ、成程……」
先ほどはジメジメしていて気が回らなかったが、ニナがエリスの好意をリーゲルに伝えたことを黙っていられるはずが無いのだ。理由はわからないが顔向けできないと言っているエリスがそれを知ったら更に動揺するだろう。その結果、これ以上の外からの情報を拒むように布団に引きこもったのだと推測した。それにしてもニナの呼びかけにも反応しないとなると余程のことである。
──そこまで動揺が悪化というのは……自惚れかもしれないが、もしかすると辺境伯よりも僕はエリス様に好感を持たれている? それならば焦る必要はそれほどないかもしれない。だが……。
リーゲルはそこで、鼻水をかんでいるニナへ視線を向ける。
恋愛初心者であるリーゲル、同じく恋愛初心者であるエリス、そこにニナを投入すると──何か、グダグダになる。それは現在の状況を見ても明らか。女性の好む恋愛劇や恋愛小説のようなロマンチックな恋愛はまず不可能であると考えた方がいい。それに、今後エリスと恋人になれたとして、ニナが無意識に良い雰囲気をクラッシュしてゆくのは間違いない。それどころか、些細なすれ違いがニナを介して悪化していく様さえ目に浮かぶ。予測できたとしても奔放なお子様ニナを対処しつつ、上手く恋愛関係を発展させてゆく自身がない。
──ニナ嬢の存在が悪いのではない。ニナ嬢の言動に対処できない僕が悪い。僕が恋愛経験豊富であれば……。
リーゲルは少しの間瞼を伏せて黙考し、決意を確かに目を開けた。
「ニナ嬢、僕はエリス様の元へ向かいます」
「えっ?」
「貴女は落ち着くまでここに居てかまいませんよ」
「……んーん、付いてく……」
リーゲルは元気なくぽてぽて歩くニナと手を繋いでゆっくりと歩いて向かった。
30
あなたにおすすめの小説
ざまぁに失敗したけど辺境伯に溺愛されています
木漏れ日
恋愛
天才魔術師セディが自分の番である『異界渡りの姫』を召喚したとき、16歳の少女奈緒はそれに巻き込まれて、壁外という身分を持たない人々が住む場所に落ちました。
少女は自分を異世界トリップに巻き込んだ『異界渡り姫』に復讐しようとして失敗。なぜかロビン辺境伯は少女も『異界渡りの姫』だと言って溺愛するのですが……
陰陽の姫シリーズ『図書館の幽霊って私のことですか?』と連動しています。
どちらからお読み頂いても話は通じます。
婚約破棄されたので田舎で猫と暮らします
たくわん
恋愛
社交界の華と謳われた伯爵令嬢セレスティアは、王太子から「完璧すぎて息が詰まる」と婚約破棄を告げられる。傷心のまま逃げるように向かったのは、亡き祖母が遺した田舎の小さな屋敷だった。
荒れ果てた屋敷、慣れない一人暮らし、そして庭に住みついた五匹の野良猫たち。途方に暮れるセレスティアの隣には、無愛想で人嫌いな青年医師・ノアが暮らしていた。
「この猫に構うな。人間嫌いだから」
冷たく突き放すノアだが、捨て猫を保護し、傷ついた動物を治療する彼の本当の姿を知るうちに、セレスティアの心は少しずつ惹かれていく。
猫の世話を通じて近づく二人。やがて明かされるノアの過去と、王都から届く縁談の催促。「完璧な令嬢」を脱ぎ捨てた先に待つ、本当の自分と本当の恋——。
婚約破棄?結構ですわ。公爵令嬢は今日も優雅に生きております
鍛高譚
恋愛
婚約破棄された直後、階段から転げ落ちて前世の記憶が蘇った公爵令嬢レイラ・フォン・アーデルハイド。
彼女の前世は、ブラック企業で心身をすり減らして働いていたOLだった。――けれど、今は違う!
「復讐? 見返す? そんな面倒くさいこと、やってられませんわ」
「婚約破棄? そんなの大したことじゃありません。むしろ、自由になって最高ですわ!」
貴族の婚姻は家同士の結びつき――つまりビジネス。恋愛感情など二の次なのだから、破談になったところで何のダメージもなし。
それよりも、レイラにはやりたいことがたくさんある。ぶどう園の品種改良、ワインの販路拡大、新商品の開発、そして優雅なティータイム!
そう、彼女はただ「貴族令嬢としての特権をフル活用して、人生を楽しむ」ことを決めたのだ。
ところが、彼女の自由気ままな行動が、なぜか周囲をざわつかせていく。
婚約破棄した王太子はなぜか複雑な顔をし、貴族たちは彼女の事業に注目し始める。
そして、彼女が手がけた最高級ワインはプレミア化し、ついには王室から直々に取引の申し出が……!?
「はぁ……復讐しないのに、勝手に“ざまぁ”になってしまいましたわ」
復讐も愛憎劇も不要!
ただひたすらに自分の幸せを追求するだけの公爵令嬢が、気づけば最強の貴族になっていた!?
優雅で自由気ままな貴族ライフ、ここに開幕!
冷酷侯爵と政略結婚したら、実家がざまぁされました
鍛高譚
恋愛
「この結婚は、家のため。ただの政略結婚よ」
そう言い聞かせ、愛のない結婚を受け入れた公爵令嬢リゼット。
しかし、挙式後すぐに父が「婚約破棄しろ」と命じてきた!?
だが、夫であるアレクシス・フォン・シュヴァルツ侯爵は冷たく言い放つ。
「彼女を渡すつもりはない」
冷酷無慈悲と噂される侯爵が、なぜかリゼットを溺愛し始める!?
毎日甘やかされ、守られ、気づけば逃げ場なし!
さらに、父の不正が明るみに出て、公爵家は失墜――
リゼットを道具として利用しようとした者たちに、ざまぁの鉄槌が下される!
政略結婚から始まる、甘々溺愛ラブストーリー!
「愛なんてないはずなのに……どうしてこんなに大切にされるの?」
本物聖女の力は無力でした ――見世物レベルの聖女のおかげで婚約破棄されました――**
鷹 綾
恋愛
魔法が存在しないと信じられていた世界に、
突如として現れた「本物の聖女」。
空中浮遊、瞬間移動、念動力――
奇跡を披露した平民の少女は、たちまち市民の熱狂を集め、
王太子はその力に目を奪われる。
その結果、
王太子の婚約者だった公爵令嬢アストリアは、
一方的に婚約を破棄されてしまった。
だが、聖女の力は――
・空中浮遊は、地上三十センチ
・瞬間移動は、秒速一メートル
・念動力は、手で持てる重さまで
派手ではあるが、実用性は乏しい。
聖女の力は、見世物レベル。
少なくとも、誰もがそう判断していた。
それでも人々は喝采し、
権威は少女を縛り、
「聖女」という立場だけが一人歩きしていく。
そんな中、婚約破棄された公爵令嬢アストリアは、
ある違和感に気づき始める。
――奇跡よりも、奪われているものがあることに。
派手な復讐はない。
怒鳴り返しもしない。
けれど静かに、確実に、
“正しさ”は明らかになっていく。
見世物にされた奇跡と、
尊厳を取り戻す少女たちの物語。
---
『婚約破棄された公爵令嬢は、王と交わらない道を選ぶ』
ふわふわ
恋愛
婚約者である王太子アルベルトから、一方的に婚約破棄を告げられた公爵令嬢エレノア。
だが彼女は、涙も復讐も選ばなかった。
「婚約は、役目でしたもの。終わったのなら、それで結構ですわ」
王宮を去ったエレノアは、領地に戻り、
干渉しない・依存しない・無理をしない
ただそれだけを軸に、静かに領地運営を始める。
一方、王となったアルベルトもまた、
彼女に頼らないことを選び、
「一人の判断に依存しない国」を作るための統治に身を投じていた。
復縁もしない。
恋にすがらない。
それでも、二人の選択は確かに国を安定へと導いていく。
これは、
交わらないことを選んだ二人が、
それぞれの場所で“続けられる世界”を完成させる物語。
派手なざまぁも、甘い溺愛もない。
けれど、静かに積み重なる判断と選択が、
やがて「誰にも壊せない秩序」へと変わっていく――。
婚約破棄から始まる、
大人のための静かなざまぁ恋愛ファンタジー
お金がありすぎて困っておりますの(悪役令嬢ver.) ~悪役令嬢は噂も相場も支配しますわ~
ふわふわ
恋愛
「お金がありすぎて、困っておりますの」
ヴァレンティス侯爵家当主・シグネアは、若くして膨大な資産と権限を手にした“悪役令嬢”。 しかし彼女は、金にも噂にも振り回されない。
──ならば、支配すればよろしいのですわ。
社交界を飛び交う根拠のない噂。 無能な貴族の見栄と保身。 相場を理解しない者が引き起こす経済混乱。 そして「善意」や「情」に見せかけた、都合のいい救済要求。
シグネアは怒鳴らない。 泣き落としにも応じない。 復讐も、慈善も、選ばない。
彼女がするのはただ一つ。 事実と数字と構造で、価値を測ること。
噂を操り、相場を読まず、裁かず、助けず、 それでもすべてを終わらせる“悪役令嬢”の統治劇。
「助けなかったのではありませんわ」 「助ける必要がなかっただけです」
一撃で終わる教育的指導。 噂も相場も、そして人の価値さえも―― 悪役令嬢は、今日も静かに支配する。
薬師の能力を買われた嫁ぎ先は闇の仕事を請け負う一族でした
あねもね
恋愛
薬師として働くエリーゼ・バリエンホルムは貴族の娘。
しかし両親が亡くなって以降、叔父に家を追い出されていた。エリーゼは自分の生活と弟の学費を稼ぐために頑張っていたが、店の立ち退きを迫られる事態となる。同時期に、好意を寄せていたシメオン・ラウル・アランブール伯爵からプロポーズを申し込まれていたものの、その申し出を受けず、娼館に足を踏み入れることにした。
エリーゼが娼館にいることを知ったシメオンは、エリーゼを大金で身請けして屋敷に連れ帰る。けれどそこは闇の仕事を請け負う一族で、シメオンはエリーゼに毒薬作りを命じた。
薬師としての矜持を踏みにじられ、一度は泣き崩れたエリーゼだったが……。
――私は私の信念で戦う。決して誰にも屈しない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる