蝙蝠怪キ譚

なす

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第2章 《蜘蛛の意図決戦》

第2章15『少女を穢すもの』

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「……ひぐっ、うっ……うぅう」

 暗がりの中にぽつんと、真っ赤で真ん丸の宝石が二つ、妖しく輝いていた。ボクの膝の高さくらいのところに浮かんだそれは、こちらの動きに着いてくるようで。
 動けば、あちらも追うように動いていた。襲い来る悪寒に後ずさるボクを、逃がさないように。

「し、シオン、さん……?」

 すぐそこにある泣き声に、ボクは手探りながら声を投げる。マッチとか、蝋燭とかを持っていれば話は早かったのだけれど、生憎ポケットにはティッシュのカスくらいしか入っていない。つまり、自ら光源を探すまで、ということだ。音を立てないように、壁に手を這わせる。

「あ、あった!」

 発見したのは、この部屋のスイッチだった。
 ボクは人差し指でそれを小気味良く、ぱちんっと弾いた。同時、こぼれんばかりの明かりが溢れ、

「シオンさ」


 蜘蛛。

 蜘蛛。
 蜘蛛が。
 そんな、可愛らしいものじゃなかった。
 タランチュラ、でも足りないくらい。もっと大きな、蜘蛛が居た。こっちを、見ていた。無感情な瞳で。無言で。ボクだけを、ボクを見ているのだ。

 そして、ボクが名前を呼んだ少女も、居た。シオンさんは、両手で顔を覆いながら、地べたに構わず崩れていた。こちらに背を向けるような形で。

 、泣いていた。

 そうするしか、ないもんな。
 そうする他に、良い方法なんて見つからないもんな。

 だって、彼女の背中には。
 少女の、雪のような肌には、毒色をした大きなクモが這っていたのだから。つくしが言っていた痣は、これを指していたのだろうか。蚊取り線香のようにぐるぐると渦を巻いた、蜘蛛の形の痣はこれのことを言っているんだろうか。

 でも眼前のこれは、どう見たって生きた大蜘蛛だ。左右三本ずつ生え出た足は、彼女の細い腰周りにまでがっちりと絡み付いて、まるでシオンさんの体を侵食していまいそうな風にも見られた。赤い真珠のようなものは、奴の瞳だったのだ。認識しただけでも、気が遠くなるほどの嫌悪に襲われる。素手で思わず潰してしまった虫の死骸を見たときと、同じくらいか、それ以上に。尊さは無い。あるのはただ、生理的な嫌悪の感情のみだった。居てはいけないものだ。居るべきでないものだ。それは、紛れもなく、醜いものだ。背を丸め、泣き続ける少女に、かける言葉すら見つからなかった。
 ボクが、声を掛けたくなかったんだ。怖気が、止まらなくって。ひょっとしたら、彼女に巻きついた蜘蛛の糸が、何かの拍子でボクに向いてしまうんじゃないかって。自分の体を異物に侵食される恐怖に、立っているのが嫌になった。そうして力なく、呆気も無く、ボクはへたりと座り込んだのだ。

「痛ぁっ!」

「ぁ……」

 右手に鋭い痛みが走り、思わず飛び上がってしまった。

「ご、ごめんなさい、散らかっていて」

 カッターの破片だった。無数にカッターの刃が、彼女を囲むように散らばっていた。赤黒く煌めいているその刃に、ボクは何故だか安堵していた。ひどい恐怖に苛まれると、人はかえって冷静になるものなのか。
 何一つ分からないまま、興味から口を開いていた。

「もし、かして、刺したの? この蜘蛛を」

 同じように赤黒い痕の付いた、少女の背に。

「何回も───」

 しゃくりあげるようにして、少女は応えた。

「何回も、何回も何回も刺したんです……! なのに、刺したところで、剥がしたところでぶくぶく膨れ上がって。く、蜘蛛の足が、その糸が私の体の中に入っていくみたいで」

「シオンさん、それって」

「刺したとき、痛かったんです。真っ赤な血が、流れたんです。私と同じ色の血が。こんなの……こんなのまるで」

 蜘蛛が、私の一部になっちゃったみたいじゃないですか。
 
 口の中がざらついて、もう息を飲むのも億劫になるくらいだった。めきり、と蜘蛛の体が脈打つたびに、彼女は弱々しく震えている。ちっぽけな人間だ、ボクは。蝙蝠少年と謳われて、自分がこの世で一番の不幸に遭ってきたつもりで居たけれど。この世の不幸は全て知り尽くした気でいたけれど。

 不幸の味は、比べられないものなのだ。

「ねえ、臼居くんは、何て言いますか……? 依頼したこと、後悔して、そ、それで、私を、気持ち悪いって言って、置いていっちゃう……嫌。き、嫌われたくない、やだ。嫌わないで……!」

「ちょ、シオンさん」

 うわ言のように呟き始めた彼女の指は、何故か床を這い、

「き、嫌われない、ように、……しなきゃ」

 彼女の白に、赤が滲んだ。長い指がさらった銀色の刃は、力強く振り下ろされ、

 ぐさりっ。

 瞬間、肉に深く、鋭利な刃物が突き刺さる音がした。

「──い」

「やめとけ。……そんな馬鹿は、ボクだけで十分だ。それに、蜘蛛は今アンタの一部として生きているみたいだし、傷つけたらシオンさんが危ない。あと、その格好じゃあボクの理性が危ない。早く服を着てきてくれ」

 不思議部部長を舐めるなよ、と半裸の彼女に言って見せれば、少し軽蔑したようにシオンさんは奥に消えていった。ボクは、手の甲に刺さった刃を引き抜いた。ずぷずぷと溢れる赤を闇に隠して。遠い衣擦れの音に胸を撫で下ろした。
 さて、彼女を諭せたのはいいが、問題はあの蜘蛛をどうするか、だ。こればっかりは時が解決してくれるものじゃあないし、下手にアクションを起こせば彼女の命に危険が及ぶ。少し考えてからボクは、首に巻かれた夜色のスカーフを握り締めた。

「おいで、ボクの蝙蝠ちゃんたち──」

 さあ、一興。
 蝙蝠少年の本領をお見せしようか。ボクに応えるように、スカーフはみるみる膨らんでいき、そして。

「「キィィィィーッ!」」

 ポップコーンよろしく、大きく弾けたのだった。

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