ひと匙分の恋模様

85式

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鉄紺と碧

おにぎりひとつ、大きめに

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 ネットスローと呼ばれる投球の練習がある。文字通りに5メートルほど離れたネットに向かって球を投げ込む、というものだ。
 2年になったばかりの自分は、自主練習の時間になってからひとり延々とその練習を続けている。もうとっくに日も落ちて、辺りは暗く、星が顔を見せている時間帯だ。
 それでも練習は全然足りない。レギュラーを取るには、新しい1年達に追い抜かれない為には、もっともっと練習をしなければならない。
 アップをして全体練習、走り込み、皆の倍以上の自主練習。止め処なく流れる汗は、その練習量のせいだ。クラスメイトも先輩も、新1年も他の部活の人間さえも既に帰宅して、グラウンドに残っているのは自分ひとりになってしまった。
 女子マネージャーがひとり、練習に付き合ってくれるとは言ったが、自分はそれを断った。こんな暗い中、何かあったらと思うと気が気ではない。

 こんな気分になってしまう理由なんて決まりきっている。自分が彼女のことを好きだからだ。

 がしゃん、と音がして、はっと我に返った。投げた球が滑ったんだと、ネットのフレームに当たり、跳ねて戻ってくる白球を見て気がついた。それは多分、汗のせいだ。『俺』の動揺のせいじゃない。
 変なことを考えすぎた、これじゃ集中が持たない。漸く休憩をとろうという気持ちになって、タオルを替えに行く。
 部室の外にある余ったベンチの上に、持ってきた替えのタオルが置いてある。首にかけていたタオルなんて、もう既に汗でぐしゃぐしゃだった。こんなもので拭いたところで、意味が無い。

 ところがそのベンチに置いた、替えのタオル上に見慣れない物が置いてある。俺は思わず目を疑った。綺麗な青緑色の、巾着袋だ。
 ……いや嘘だ、見覚え自体はある。女子マネージャーである「彼女」が使っていた、弁当の袋だ。
 自分が来た時には絶対になかったし、つい1時間ほど前にここで麦茶を飲んだ時にはこんなもの見ていない。ということは、その間に誰かがここに来て、これを置いて行ったのだろう。それは確実な話だ。
 俺は思わず辺りを確認した。彼女なら、危ないからこんな夜中にひとりで外出させるわけにはいけない。送り届けなければならない。もし誰かの悪戯だったなら、それはそれで叱りつけなければいけない。
 けれど、俺には誰の姿も見つけることは出来なかった。仕方が無い、と勇気を出して包みに近付く。

 そっと開いて見ると、中にはひとつだけ、おにぎりが入っていた。
 そう、ひとつだけ。ひとつだけなんだ。でもそれは、確実に俺の手でも少し余るような、特大サイズ。コンビニのおにぎり2個、いや、2個半はあるのではないかと思うくらいの、大きなおにぎり。それが、巾着の中にどんと座り込んで存在を主張していた。
 ふわりと香ってくるのは梅の匂い。細く裂いた鶏肉と一緒に、梅の淡い赤がラップ越しに透けて散っていて、俺はそこでやっと「彼女だ」と確信を持った。
 彼女は料理が好きで、実際に料理が上手だ。家が近所で、何度もお裾分けを頂いたことがある。こうして補食と呼ばれる間食を用意することだって少なくはない。そして実際、それに何度も助けられている。
 つまりこれは彼女からの差入れだということだ。よくよく見れば、麦茶も冷えたペットボトルが1本増えている。俺はベンチに腰掛け、ありがたくそれらをいただく事にした。

 梅の香りに混ざって、香ばしい胡麻の匂いもする。囓った時にぷちりと音がするから、煎った胡麻も混ぜてあるのだろう。蒸したらしい鶏ささ身も柔らかく、食べやすい大きさにちぎってある。
 正直他に何が入っているか分からないが、とにかく美味い。ただでさえ美味しいのに、今の俺には空腹という最高の調味料すら揃っている。何度も大きな口でかぶりつくと、その大きかった筈のおにぎりはあっという間に消えてなくなってしまった。
 あまりに急いで食べたので、胸につかえそうになる。急いで麦茶の蓋を開け、よく冷えたそれを流し込んだ。そうして流し込んで、俺は漸く一息つけたような心地になった。

 彼女の手は、俺ほど大きくない。だから、このおにぎりだって握るのは大変だった筈なんだ。やることだって少なくない。夜だって危ないのに、こうして自分に時間を割いて、ここまで届けに来てくれて。
 そう思うと、俺に沈んでる暇なんて、これっぽっちも無かった。彼女に報いるために、もっと頑張らなければならない。いや、頑張るんだ。

 そうして奮い立った俺は、夜中だというのに頬にばしりと一発気合いを入れ直し、また練習に戻った。彼女を全国に連れて行くために。
 彼女にふさわしい男になるために、こんなところで立ち止まってはいられない。
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