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本編第一章
王都を後にできません1
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貸し馬車とは違う、豪華な馬車に揺られながら、私はうつろな目で通りを眺めていた。滞在中あちこち出かけたおかげで今や見慣れた王都の街並み。だが今日進む道は初めましての道だ。
帰りたい。今すぐおうちに帰りたい。明日にはおうちに帰れるんだけど……それでも今すぐ帰りたい。馬車の心地よい揺れにふと呼び覚まされたのは、前世で子どもの頃に習った曲。あれだ、子牛が売られていくやつだ。
「さっきから何かメロディを口ずさんでいるみたいだけど、綺麗で物悲しい曲だね。初めて聴く曲だけど……題名は尋ねないでおくよ」
いつのまにやら溢れていた鼻歌を指摘され、私は胡乱な目をそちらに向けた。お向かいで背筋を伸ばしているのは見知った少年。亜麻色の長い髪を肩のあたりで一括りにしている。そう、この人が今回の元凶だ。いや、彼が悪いわけじゃないのだけど、でも話を持ってきたのは彼だ。
「どうした、アンジェリカ、元気ないな。あ、腹減ってんのか? これ食うか?」
「いいえ結構。っていうかギルフォード、あなたなんで馬車の中にまでクッキー持ち込んでるのよ。そもそもそれ、私があげたやつだし」
そう、今回の道行はミシェルと私だけではない。ギルフォードと一緒だ。
なぜ王都滞在の最終日にこんなことをしているかというと、昨日の話に戻る。
「カイルハート殿下がキレた」
「はい?」
聞き慣れぬ動詞に私は首を傾げる。
「殿下は今年の社交シーズンは王妃陛下の付き添いごとが多くて、あちこちひっぱりだこだったんだ。主にお茶会への出席がメインだったけど。今年は名門のハイネル公爵の本家が久々に姿を見せたこともあって、社交界もいつも以上に賑わいを見せたからね。王妃陛下も久々の大物貴族の登場で、いろいろと気を遣われたんだろう。今年は高位貴族のご婦人方だけでなく、子どもたちも交えたお茶会が王宮で盛んに開かれていたんだ」
そうしたイベントがあるたびに、通常授業が休止され、社交に駆り出される日々。当然ミシェルもつきあったそうなのだが、側仕えしていればいい彼とは違い、カイルハート殿下は主催側。子ども同士とはいえ気を遣うことも多い中、純粋にお茶を楽しんで遊び回るだけですまないのが王宮のお茶会だ。
ミシェルいわく、彼はあらゆる子女から狙い撃ちされたらしい。
「子どもたちもただ楽しむためにお茶会にきているわけじゃない。大人たちからカイルハート殿下に取り入って気に入られるよう、申しつけられている子がほとんどだ。男子なら私の次の側近候補として、女子なら……婚約者候補として」
そうやって下心をもって群がってくる子どもたちを足蹴にすることは許されない。全員の顔と名前を憶えるのは当然のこと、相手の家の事情も頭に叩き込んだ上、お行儀よく接する必要がある。国王陛下ご夫妻のただひとりの息子として、彼はその責務を全うしていた。それも極めて優秀に。そして相手の子どもたちはお行儀よく穏やかに対応してくれる殿下の態度をいいことに、かなりやりたい放題だったらしい。哀れな殿下は、それでも王妃陛下の名誉を傷つけるわけにはいかないと我慢に我慢を重ねてやり過ごした結果……。
「キレておしまいになった、と」
「そうなんだ。キレておしまいになった」
キレたといっても、癇癪を起こして暴れ回ったとか、そういうことではさすがにない。王妃陛下の最後のお茶会の前に「出席したくない」と駄々をこね、真面目に取り組んでいた授業すらボイコットして、ベッドに潜り込んでしまったそうだ。お子ちゃまか。……いや7歳児だからお子ちゃまなんだけど。
さすがにかわいそうに思った王妃陛下が息子を宥めようとしたところ、本人が言い出したことが「アンジェリカとギルフォードと一緒に遊びたい」ということらしかった。
ちなみにギルフォードは母親であるパトリシア様とともにくだんのお茶会に何度か招かれている。そのときカイルハート殿下とも面会していたはずだが、あまりのとりまきの多さに挨拶がやっとでほとんど近づけなかったそうだ。絶対自分は出された茶菓子の方にむらがりたかったんだろと思わなくもないが、まぁ仕方ない。対する私はしがない男爵家の子どもなのでそんな高貴なお茶会にはそもそも招かれない。
だから殿下が「ギルフォードと遊びたい」というのはわかる。位も釣り合っているし、彼なら王宮に招いても不思議ではない。なのに。
「なぜ私まで……」
「どうやら夏にうちに来て一緒に泊まったことが相当楽しかったそうなんだ」
去年の夏、アッシュバーン辺境伯で開催されたギルフォードの誕生会。私は近隣貴族として招待されていたけれど、殿下は帰省するミシェルの馬車に潜り込んでいたんだっけ、と遠い目になりながら思い出す。あの場でも殿下をめぐる小競り合いが主に女子の間で繰り広げられた。そのせいで私はドレスを汚され、結果的に辺境伯家でもう一泊することになったのだ。そしてその夜、なぜかパジャマパーティに駆り出され、未来の国王になるかもしれない人に盛大に枕を投げつけるという……くっ、消したかった黒歴史なのに!!
「いえ、黒歴史はとりあえずまぁいいわ。それより、なんで男爵令嬢である私に王宮に入場する許可が降りたのかが不思議なんだけど」
王宮は誰もが入れる場所ではない。そこに住んでいる人に招かれたからといって、ほいほい訪ねていけるわけでもない。私のような下位貴族は、王子殿下に謁見することすら不可能なはずだ。仮に許可が出たとしても、謁見までに正式な手順を踏まなければならないのが普通だから、こんな短時間で話が進むのが、そもそもありえない話だ。
「そこは、殿下を見かねたさるお方が、許可を出されたんだよ。殿下も社交シーズンを頑張られたからね、ご褒美ということで」
「……さるお方って」
「それ、聞く?」
ぶんぶんぶんと首を真横に数度振りつつ、その先は考えないことにした。敢えて伏せ字にしてくれたミシェルの温情に今は縋ろう、うん。殿下にご褒美が与えられる身分の人とか、そんなことはもう考えない。なぜなら私は男爵令嬢。雲の上が何色なのかを知るよりも大事なことが山ほどある。そう、庭の2羽のニワトリが明日何個の卵を産んでくれるかなー、とか。
そうして頭では鶏のことを考えつつ、口からはあの物悲しいメロディを吐きながら、哀れアンジェリカはドナドナされていったのです。もう! 全然王都を後にできないじゃん!!
帰りたい。今すぐおうちに帰りたい。明日にはおうちに帰れるんだけど……それでも今すぐ帰りたい。馬車の心地よい揺れにふと呼び覚まされたのは、前世で子どもの頃に習った曲。あれだ、子牛が売られていくやつだ。
「さっきから何かメロディを口ずさんでいるみたいだけど、綺麗で物悲しい曲だね。初めて聴く曲だけど……題名は尋ねないでおくよ」
いつのまにやら溢れていた鼻歌を指摘され、私は胡乱な目をそちらに向けた。お向かいで背筋を伸ばしているのは見知った少年。亜麻色の長い髪を肩のあたりで一括りにしている。そう、この人が今回の元凶だ。いや、彼が悪いわけじゃないのだけど、でも話を持ってきたのは彼だ。
「どうした、アンジェリカ、元気ないな。あ、腹減ってんのか? これ食うか?」
「いいえ結構。っていうかギルフォード、あなたなんで馬車の中にまでクッキー持ち込んでるのよ。そもそもそれ、私があげたやつだし」
そう、今回の道行はミシェルと私だけではない。ギルフォードと一緒だ。
なぜ王都滞在の最終日にこんなことをしているかというと、昨日の話に戻る。
「カイルハート殿下がキレた」
「はい?」
聞き慣れぬ動詞に私は首を傾げる。
「殿下は今年の社交シーズンは王妃陛下の付き添いごとが多くて、あちこちひっぱりだこだったんだ。主にお茶会への出席がメインだったけど。今年は名門のハイネル公爵の本家が久々に姿を見せたこともあって、社交界もいつも以上に賑わいを見せたからね。王妃陛下も久々の大物貴族の登場で、いろいろと気を遣われたんだろう。今年は高位貴族のご婦人方だけでなく、子どもたちも交えたお茶会が王宮で盛んに開かれていたんだ」
そうしたイベントがあるたびに、通常授業が休止され、社交に駆り出される日々。当然ミシェルもつきあったそうなのだが、側仕えしていればいい彼とは違い、カイルハート殿下は主催側。子ども同士とはいえ気を遣うことも多い中、純粋にお茶を楽しんで遊び回るだけですまないのが王宮のお茶会だ。
ミシェルいわく、彼はあらゆる子女から狙い撃ちされたらしい。
「子どもたちもただ楽しむためにお茶会にきているわけじゃない。大人たちからカイルハート殿下に取り入って気に入られるよう、申しつけられている子がほとんどだ。男子なら私の次の側近候補として、女子なら……婚約者候補として」
そうやって下心をもって群がってくる子どもたちを足蹴にすることは許されない。全員の顔と名前を憶えるのは当然のこと、相手の家の事情も頭に叩き込んだ上、お行儀よく接する必要がある。国王陛下ご夫妻のただひとりの息子として、彼はその責務を全うしていた。それも極めて優秀に。そして相手の子どもたちはお行儀よく穏やかに対応してくれる殿下の態度をいいことに、かなりやりたい放題だったらしい。哀れな殿下は、それでも王妃陛下の名誉を傷つけるわけにはいかないと我慢に我慢を重ねてやり過ごした結果……。
「キレておしまいになった、と」
「そうなんだ。キレておしまいになった」
キレたといっても、癇癪を起こして暴れ回ったとか、そういうことではさすがにない。王妃陛下の最後のお茶会の前に「出席したくない」と駄々をこね、真面目に取り組んでいた授業すらボイコットして、ベッドに潜り込んでしまったそうだ。お子ちゃまか。……いや7歳児だからお子ちゃまなんだけど。
さすがにかわいそうに思った王妃陛下が息子を宥めようとしたところ、本人が言い出したことが「アンジェリカとギルフォードと一緒に遊びたい」ということらしかった。
ちなみにギルフォードは母親であるパトリシア様とともにくだんのお茶会に何度か招かれている。そのときカイルハート殿下とも面会していたはずだが、あまりのとりまきの多さに挨拶がやっとでほとんど近づけなかったそうだ。絶対自分は出された茶菓子の方にむらがりたかったんだろと思わなくもないが、まぁ仕方ない。対する私はしがない男爵家の子どもなのでそんな高貴なお茶会にはそもそも招かれない。
だから殿下が「ギルフォードと遊びたい」というのはわかる。位も釣り合っているし、彼なら王宮に招いても不思議ではない。なのに。
「なぜ私まで……」
「どうやら夏にうちに来て一緒に泊まったことが相当楽しかったそうなんだ」
去年の夏、アッシュバーン辺境伯で開催されたギルフォードの誕生会。私は近隣貴族として招待されていたけれど、殿下は帰省するミシェルの馬車に潜り込んでいたんだっけ、と遠い目になりながら思い出す。あの場でも殿下をめぐる小競り合いが主に女子の間で繰り広げられた。そのせいで私はドレスを汚され、結果的に辺境伯家でもう一泊することになったのだ。そしてその夜、なぜかパジャマパーティに駆り出され、未来の国王になるかもしれない人に盛大に枕を投げつけるという……くっ、消したかった黒歴史なのに!!
「いえ、黒歴史はとりあえずまぁいいわ。それより、なんで男爵令嬢である私に王宮に入場する許可が降りたのかが不思議なんだけど」
王宮は誰もが入れる場所ではない。そこに住んでいる人に招かれたからといって、ほいほい訪ねていけるわけでもない。私のような下位貴族は、王子殿下に謁見することすら不可能なはずだ。仮に許可が出たとしても、謁見までに正式な手順を踏まなければならないのが普通だから、こんな短時間で話が進むのが、そもそもありえない話だ。
「そこは、殿下を見かねたさるお方が、許可を出されたんだよ。殿下も社交シーズンを頑張られたからね、ご褒美ということで」
「……さるお方って」
「それ、聞く?」
ぶんぶんぶんと首を真横に数度振りつつ、その先は考えないことにした。敢えて伏せ字にしてくれたミシェルの温情に今は縋ろう、うん。殿下にご褒美が与えられる身分の人とか、そんなことはもう考えない。なぜなら私は男爵令嬢。雲の上が何色なのかを知るよりも大事なことが山ほどある。そう、庭の2羽のニワトリが明日何個の卵を産んでくれるかなー、とか。
そうして頭では鶏のことを考えつつ、口からはあの物悲しいメロディを吐きながら、哀れアンジェリカはドナドナされていったのです。もう! 全然王都を後にできないじゃん!!
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