慎吾、青春真っ只中

久遠

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慎吾、絶体絶命

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 週明けの月曜日、津森慎吾は神に祈るような気持ちで11Rへと向かっていた。二年生の理数科クラスである。
 二年生棟は一年生棟の向かいにあった。東西両側に渡り廊下があり、慎吾は東側、つまり11R側の廊下を渡った。しばらくの間、慎吾は廊下の端に立ち止って11Rの様子を窺った。その場所であれば、まだ言い訳ができたからだ。
 廊下をさらに進んで三年生棟に行けば、一階に職員室があった。その職員室に出向く途中だと言えば抗弁できるという計算があったのである。
 実は、慎吾は26Rの学級委員長をしていた。一年次に委員長を務めるということは特別な意味があった。二年次や三年次のように、生徒の投票によって選出するのとは違い、一年次は担任が成績順に各役員を決めていたのである。つまり、慎吾の入試成績は26Rでは一番のはずだった。
 はずだった……というのは、おそらく他のクラスはそのように選出された思われたが、26Rはくじか何かで適当に決められたのかもしれないと、慎吾は疑念を抱くようになっていたからだ。
 理由は26Rの担任が、風変わりというか、そういうことに全く無頓着の教師だったからである。
 名を藤原堂雲(ふじわらどううん)という出雲大社の流れを汲み、日本最古の風土記である出雲風土記にも長文記載のある、由緒正しい『八雲(やくも)神社』の神官でもあった。神官だから変人というわけではない。それどころか、漢学においては、我が国で三本の指に入る大家である。
 たしかに、藤原の漢文授業は圧巻だった。その朗読は、まるで詩吟のように朗々としていて、通説とは別に彼の私見が付言された。その独自の世界観に引き込まれた慎吾は、むしろ彼の私見の方が正当であるように思えるほどだった。 

 では、なぜ風変わりというのか?
 答えは、とんでもない「のんべえ」だからである。とにかく、やたらと酒が好きなのだ。
 さすがに、終業までの間に飲酒することは無かったが、終業と同時に机の引き出しからウイスキーの瓶を取り出す始末だった。なので、朝礼は二日酔い、終礼は飲酒のためと、クラスに姿を現すことはほとんど無く、委員長の慎吾に任せきりだった。
 当然、慎吾は連絡事項を聞くために、しょっちゅう職員室に通うことになった。他の教師たちは、慎吾の姿を見る度に気の毒そうな苦笑いを浮かべたし、上級生の中にも、事情を知っている者が少なからずいた。したがって、慎吾がその場にいる言い訳になるのだった。
 だが、とうとう恐れていたことが起こってしまった。
 16Rの様子を窺おうとして、二年生棟に足を踏み入れたときだった。
「下級生が何の用だ?」
 と後方から声が掛かったのである。
 恐る恐る振り向いた慎吾は、愕然として身を竦めた。
 そこには百九十センチを超える巨体が聳え立っていた。湘北高校一番の不良、と恐れられている井原武行(いはらたけゆき)である。
 いや、顔は見たことはなかったが、この高身長と威圧感は井原に間違いないと慎吾は確信した。
 名門進学校の湘北高校のこと、不良といっても高が知れていようと思われ勝ちだが、井原は少々毛色が違っていた。
 古い言い方だが、中学時代、彼は松江市の総番を張っていた男だったのだ。警察の補導も日常茶飯事だったと聞いている。
 なぜ不良の権化のような井原が湘北高校に入学できたのか、七不思議の一つに数えられているほどなのだが、天は二物を与えたということなのだろう。ともかく、相当の強面には違いなかった。
 当然のことながら、三年生になれば大学受験を控え、そうそう悪さもできなくなる。そういう意味からすれば、彼が実質的な湘北高校の悪の首領だったのである。
 彼の噂は湘北高校進学を目指していた中学三年のときに、すでに慎吾の耳にも届いており、入学早々に彼と同じ出身中学の後輩の同級生から姿だけは教えられていた。
――しまった……よりによってとんでもない男に見つかってしまった。
 慎吾は唇を噛んだが、後の祭りである。
「ちょっと、人探しを……」
「人探しだと? いったい誰を探しているんだ」
 低くて野太い声だった。慎吾はその声を聞いただけで、しどろもどろになった。
「それが、その、あの……」
「誰か、と聞いているんだ。はっきり答えろ!」
「……」
 荒くなった語気に、慎吾の急所はすっかり縮み上がってしまった。
 彼は一歩踏み込んで腰を曲げると、節目勝ちの慎吾の顔を下から覗き込んできた。
――ああ、まずい。どうしようか。
 慎吾は、泣き出したい気分だった。
 そのときだった。
『キンコン~カンコン~』
 まるで天の助けのように、四限目の授業開始一分前を知らせる鐘の音がスピーカから流れた。
――助かった……。
 と、慎吾は一瞬胸を撫で下ろしたが、次の瞬間、彼の一言が再び奈落の底に突き落とした。
「お前、昼休みの十二時半に、体育館の裏に面出せ」
 ああ、何ということだ。慎吾は、むしろ最悪の状況に追い込まれてしまったのだ。

 慎吾は四限目の授業の四十五分間、脳をフル回転して考え抜いた。生まれて初めてと思うくらい必死に頭を使った。
 昼休みに体育館裏へ顔を出せば、酷い目に遭うことが容易に想像できた。
――逃げ出そうか……。
 仮病を使って早退すれば、一時危難は避けられる。しかし、それはあまりに幼稚な考えだと思い直した。ますます井原の怒りを買うだけだ。
――ならば、脅しの武器を持って行くか……たとえば、ナイフとか……昼休みは十二時からだ。校門前の文具店に行けばナイフは手に入る。いや、それも駄目だ。
 慎吾は頭を振った。
 もし、井原にナイフを取り上げられたら、逆にどんな目に合うか。第一、誤って殺傷事件にでもなれば、退学処分になりかねない。
――そうだ、剣山を腹に仕込んでおこうか。華道部の部室へ入り込めば剣山がある。
 と思ってもみる。
 何と言っても湘北高校は名門校である。暴力を振るうとしても、一目瞭然の顔面を殴ったりはしない。たいていは腹を狙う。そうであれば、腹に剣山を仕込んでおけば、相手の拳は潰れる。何かの映画で観た真似だったが、そんな短絡的な考えが通るはずも無かった。一度は井原の拳を潰したとしても、その後の二年間は、悲惨な高校生活が待ち受けているのだ。
「ちょっと、津森君」
 隣の席の女生徒に腕を突かれた。
「え?」
 驚いて振り向くと、白い歯が印象的な女子生徒の顔があった。中学時代に陸上の短距離で全国大会に出場したほどの実力者である。湘北高校でも陸上部に所属しているので、真っ黒に日焼けしている。
「先生が指名しているわよ」
「な、なに?」
 慎吾は動揺した。どうやら問題の解答を指名されたらしい。
「すみません、もう一度お願いします」
「津森、何か良からぬ妄想でもしていたのか」
 教師の強烈な皮肉に、どっと笑いの渦が巻き起こった。
 もういい、と教師は呆れ顔で他の生徒を指名した。
 苦い顔で女子生徒を見ると、彼女は心配げに見つめていた。
――この女性があの脹脛の持ち主だったら、思い切って告白するのになあ……。
 などと思いながら、
「大丈夫」
 と、慎吾は無理やり笑みを作った。 

 慎吾は、体育館裏に出向くことを決心した。
 元来慎吾は、多少なりとも漢気(おとこぎ)のある人間ではあった。
 清廉実直、不義不正、筋の通らないことが大嫌いだった祖父慎太郎の扶育のお陰で、慎吾も弱きを助け強きを挫く正義感の強い男に育っていた。
 坂崎遼平と親しくなったきっかけも、慎吾のそういう一面からだった。
 中学校に入学してまもなく、遼平が上級生から、いわゆる『ヤキ』を入れられそうになったことがあった。彼に落ち度はなかったが、何事にも目立つ遼平が気に食わないという、ただそれだけの理由からだ。
 遼平が屋上で正座をさせられていると知った慎吾は、抗議をしに屋上へ駆け上がった。
 上級生は、もちろん不良である。だが、慎吾は怯まなかった。何の落ち度もない遼平が、殴られるのを黙って見過ごすことができなかった。
 自身も暴力を受けるだろうと覚悟していた慎吾だったが、意に反して彼の姿を見るや否や、上級生たちは無言で立ち去って行った。
 訳が分からない慎吾だったが、ともかくそれを機に二人は親しくなっていったのである。
 今回も理不尽には違いないが、といって慎吾にも大義はなかった。休憩時間といえどもむやみに教室の外をうろつかない、という暗黙の不文律を乱しているのは慎吾の方なのである。しかも、二年生棟をうろついていたことは、どう足掻いても抗弁できない。
――だが、井原に対して悪いことは何もしていないのだから、一発も殴られれば済むだろう。少しの間、痛みを我慢すれば嵐は通り過ぎる。
 考え抜いた果てに出した結論だった。
 腹を括ったことで、いくぶん平静さを取り戻した慎吾だったが、それは同時に、ある重大事に気づかされることにもなった。
 脹脛の彼女探しを断念しなければならないという現実である。
 慎吾の胸中を無念の風が吹き抜けた。結局のところ、恐怖が和らいだ分を落胆が埋めただけだった。
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