とある侯爵令息の婚約と結婚

ふじよし

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とある侯爵夫人の嘆き

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 どうしてこんなことになったのでしょう。もう半年近く、そんなことばかりを考えています。

 息子が結婚して三日が経ちました。けれど屋敷に立ち込めているのは重たい空気。息子本人だけは幸せそうに花嫁を呼ぶけれど、庭から響いてくるのは悲鳴のような甲高い声。

「違う!! わたしはアイリスじゃない!! カレンなの!!」

 息子ダニエルが結婚したのはリグリー伯爵の令嬢カレン。けれど、彼女と婚約した半年より前は彼女の義姉アイリスが婚約者でした。
 ダニエルがアイリスと婚約したのは一年前のこと。歴史ある我がノーリッシュ侯爵の領地では三年ほど穀物の不作が続き、経済的に窮地に陥っていました。そこで商売をさらに高位の貴族に広げたい裕福なリグリー伯爵と利害が一致しました。そして縁を結ぶに至ったのです。完全なる政略結婚でした。

 それでもダニエルとアイリスは親である私から見ても仲睦まじく、とくにダニエルはアイリスにひとめぼれで溺愛といっても良いほど。そして、それをアイリスは柔らかく受け入れ、応えてくれていました。

 ああ、あの頃がダニエルにとって一番幸せな時期だった。

 ダニエルは遠くを見るような、近くを見るような、どこか虚ろな目をしてカレンをアイリスと呼びます。目は茫洋としながらも表情は幸せそうで、カレンをアイリスと呼ぶ声は嬉しそうで、私は胸が張り裂けそうに痛みます。

「なんで? なんで!? なんでよ!!?」

 耳に痛いほどのカレンの金切り声。
 彼女はこれまでの人生で思い通りにならなかったことなどないようでした。だから自分が欲しいと言えばダニエルが手に入ると思ったのでしょう。でも、人の心は簡単に手に入るものではありません。彼女が手に入れたのはダニエルの妻という立場だけでした。そしてダニエルは心を病んで、カレンをアイリスと呼ぶのです。

 社交界ではカレンやリグリー伯爵は蔑みの対象となりました。けれどもダニエルやその親である私たちは同情的に見られています。夜会への招待状は今まで以上に届くようになりました。ダニエルへの招待はなるべく断っていますが、断れないものもあります。断れなければ夫婦で出席しなければなりません。
 ダニエルは夜会でもカレンをアイリスとしてエスコートします。そして衆目を集めている中でカレンは癇癪をおこし嘲笑されるのです。

 ダニエルとカレンの婚約が結ばれダニエルがおかしくなってしまった当初、カレンと親交のあった男性陣が彼女はアイリスではなくカレンだと、ダニエルを責めることがありました。

 ダニエルとアイリスは政略結婚で冷えた仲であり、ダニエルとカレンが恋に落ちた。そこで婚約者が姉妹で入れ替わったのだと思われていたのです。あまつさえ、アイリスは二人の仲に嫉妬し義妹であるカレンに危害を加えていたのだと、まことしやかに語られていたようでした。アイリスがリグリー伯爵により修道院へ入れられたことがその噂に真実味を持たせていたのでしょう。
 だからダニエルはなぜカレンをアイリスと呼ぶのかと責められたのです。

 けれど真実は違います。
 カレンがダニエルと結婚したいと言い出し、リグリー伯爵がそれに応えました。カレンと結婚するならば持参金を三倍にして、さらに他の事業にも融資すると我が家に申し出たのです。アイリスは自ら身を引きました。リグリー伯爵は経歴に傷のついたアイリスが結婚するのは難しいだろうと判断したのか、彼女を修道院に入れたそうです。

 ダニエルはカレンがアイリスではないと言われるたびに錯乱して興奮状態になりました。そのときばかりはカレンをカレンと認識するようで周囲の状況にかかわらず大きな声でカレンを責めます。そして泣きながらアイリスを探すのです。
 それで周囲にも真実が伝わっていきました。

 それからは夜会に出ればダニエルは腫れ物に触れるかのように扱われ、カレンはアイリスと呼ばれるたびに癇癪を起こし、それを嘲笑されます。

 先日の結婚式では神前で名を偽るわけにもいかず、異例ではありますが夫婦宣誓の儀では二人はただ『花婿』『花嫁』と呼ばれました。なにせカレンをカレンとして扱えばダニエルは錯乱し、カレンをアイリスとして扱えばカレンが癇癪を起こします。
 今さら仕方のないことですが、遣る瀬なさがつのります。さすがのリグリー伯爵もダニエルの状態に諦めているようでした。

 カレンがダニエルを望まなければダニエルはアイリスと結ばれて、おかしくなることもなく、今ごろは幸せになっていたのに。
 正直に言えば、そんな風にカレンを恨めしくも思います。けれども一番悔しいのは我が家にカレンとリグリー伯爵のやりようを跳ねのける力がなかったこと。

「お義母様もなんとか言ってください!」

 貴女のせいでしょう、と言いたくなる言葉を飲み込んで私はただ首を振ったのでした。
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