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第一章 崩れ去る日常
第十五話 兄弟
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六月のある日の夕方。静藍は自宅にたどり着いた。今日は八月並に蒸し暑く、全身じっとりと汗まみれだ。寒がりの彼でもクーラー抜きは耐えられない。
「ただいま……」
静藍は若干ふらつきながら自宅マンションのドアを開けたが、特に何の返答もなかった。彼は十歳上の兄と二人暮らしである。今日は平日だ。外で仕事をしている兄が家にいるはずがない。
静藍は帰宅と同時に空調のスイッチを押すと機械音が響き、直ぐに涼しい風が入ってきた。
自室として使っている部屋の机に鞄を置き、水分補給はそこそこに脱衣場へと移動した。制服のシャツを脱いで洗濯ネットに入れ、洗濯機に放り込む。明日は土曜日で休日だ。洗濯しても良いだろう。
浴室に入り、シャワーの蛇口をひねる。
シャワーヘッドから勢いよく温めの雨が静藍の青白い裸の身体に降り注いできた。それは丁度程よい温度で肌についた汗を一気に流してくれる。足からこみ上げてくる爽快感に身震いし、おもわず目を瞑った。
一旦蛇口を締めて水を止め、いつも使うボディーソープを泡立てて身体を洗い、髪も洗い始めた。まだ明るい内から風呂だなんて、妙に贅沢な気分だ。
「ふぅ……」
薄い唇から溜息が一つ溢れた。
蛇口をひねると再び水滴が玉のように色白の肌の上を弾き始める。肌の色が少し上気している。何だか生き返った心地だ。タイルの上で弾かれた水玉が脛にあたり、ちょっとくすぐったい。
身体に付いた泡を洗い流しつつ、左の首元にある薔薇の形をした痣を手で触った。凹凸がない為、触っただけでは特に何も感じない。だが、これが熱を帯びるともう一人の自分が覚醒するのだ。鏡に映してみても、自分の華奢な裸体が映っているだけで、特に変わりはない。
濡れた髪の毛先から雫が一粒、静かに音もなく零れ落ちた。
「……」
もう一人の自分が身体を支配している間、自分は殆ど眠っている為、自分の身体が何をしているのかは殆ど分からない。と言っても全部眠っている訳ではなく感覚だけは覚えている状態だ。夢遊病状態と似た感じと言えば良いのだろうか。変な気分である。
身体のどこかに存在する彼の残滓を辿り、自分の身体の調子を探ると、平らな腹のあたりに何かを感じた。しこりがある訳ではないが、何かがあるのだ。しかし、それが一体何なのかは良く分からない。先月病院で検査を受けたが、何もないと言われた。医学的にも原因不明のものだ。だがこれがきっと自分に宿る彼と何か関係があるとにらんでいる。
ルフスは自分の身体を使って一体何がしたいのだろうか? 本当は直接本人に聞きたいがそれも叶わない。
もう一人の自分は望んでこの身体に宿った訳ではない。他者の能力によって無理矢理宿らされたのだ。自分の意志とは無関係に蘇らされたようなものだ。それは一体どんな気持ちなのだろうか。
もう六月。特に進展はなくても、刻々と時間は過ぎてゆく。ふと自分の身体を見てみた。身長が伸びやや痩せ気味だが、筋肉は思っているより普通についている。食べる量は増えると言うよりぎりぎり現状維持というのがやっとで、同い年の女子よりやや少ない位だ。そんな食生活で外見的にさほど変化はない為、却って不気味である。
十二歳の時に吸血鬼化させられて以来、意識がとぶことが度々あった。その時の自分が一体何をしていたのかは良く分からない。何も言われてないということは本当に意識がなかったというだけなのかもしれない。想像すると背中にぞくりと悪寒が走った。
茉莉が言うには、ルフスに支配されている時自分は人間離れした超能力を使って戦っているらしい。傷一つ残っていないすべすべした自分の肌を眺めると、本当にそうなのか信じられない。だが、ルフスから意識を交代してこの身に戻ると重く疲労感がのしかかってくるから、事実なのだろうと思わざるを得ない。
今はまだ分からないが、この状況を繰り返し続けると自分は本当に死んでしまうのだろうか?
誕生日を迎えたその日に。
「芍薬姫の血」があれば自分は本当にただの「神宮寺静藍」に戻れるのだろうか?
みんなの力を借りているが、本当のところ自信があまりない。
人間を吸血したら本当に「ルフス」となって永遠に生き続けなければならなくなるのだろうか?
今のところ思った程吸血欲が出ないため、自分が吸血鬼であるという自覚がないのだ。しかし一度でも吸血したら、二度と人間には戻れない。
「……」
このままで良いのか自信がない。
例へ聞いたとしても誰にも分からない。
答えのない問いが渦を巻き、離れようとしない。
少年の心に渦巻く闇は、留まることを知らなかった。
(僕は一体どうなるのだろう? )
目を瞑り、蛇口をひねって雑念を払うかのように、顔全面にシャワーを浴びる。
その時、榛色の瞳をした少女が彼の瞼の裏に浮かんだ。吸血鬼相手でも物怖じしない、常に堂々としている少女。強い彼女に比べて自分は何てひ弱なのだろうと虚しくなってくる。
(悩んでばかりだと前に進めないな。彼女を見習わねばならないな……)
シャワーの蛇口をひねり水を止めると、シャワーヘッドの縁に滴っていた水滴がタイルの上に落ち、音が浴室中に響き渡った。
※ ※ ※
静藍が風呂場から出て真っ白いタオルで髪と身体を拭き上げ、タオルでを頭の上に乗せつつ、Tシャツとジーパンと言った普段着に着替えると耳慣れた声が聞こえた。
「もう上がったのか? 静藍」
「……帰っていたのですね。兄さん」
静藍と風貌の良く似た、彼よりも身長の高い青年が立っていた。兄である悟だ。静藍より十歳上で今会社に勤めている。今日は早上がりの日だったようだ。帰ってきて直ぐ夕食の準備に取り掛かったのだろう。スーツの上着を脱いだ上からエプロンをつけて腕まくりをし、台所で忙しくしている。
「身体の調子はどうだ?」
「毎日一緒じゃないですか」
「体調は日々変動する。主治医の先生からも聞いているが、いつ急変するか分からないのだろう? もしお前になにかあったら父さんと母さんに面目ないからな」
悟と静藍の両親は、静藍が高校二年に上がる直前に交通事故で他界した。親戚も他県と物理的にも遠い為、身近な肉親と言えば兄弟二人きりだ。転入先で皆の前では両親の仕事の関係で越してきたと言ったが、それは表向きの理由である。学校には保護者は兄であることを伝えてある。
悟は就職と同時に家を出てマンションで一人暮らしをしていた。両親が亡くなって以来静藍の保護者として一緒に同居する生活を送ることになった。静藍は居住区が変わり、前の高校には同じ県内でも遠過ぎて通学困難となった為、今の綾南高校に急遽転入することになったのだ。二人暮らしを始めてまだ二・三ヶ月と言ったところだが、漸く慣れてきている。
悟は社会人としての生活も安定してきたところで弟の面倒を見る破目になった。学費は両親の遺産で何とかなったものの、葬式やら遺産相続と言った後始末とやらを片付けつつ弟の通学環境の世話と、落ち着くのに大層時間がかかっている。本籍の住所も今の住居に変更済みだ。
悟は静藍が吸血鬼化していることを知らない。知っているのは、弟がある時から謎の病気で三ヶ月か四ヶ月おきに総合病院で定期的に診てもらっていることと、彼が貧血で良く倒れるということだけだ。
気楽な独身生活が急に失われたが、彼は元々病弱な弟のことを常に心配していた為、特に苦にならず今までやってこられた。寧ろ、家に一緒にいる間は気遣ってやれる為安心である。現在特に付き合っている女性もいないので、気を遣う必要もない。
「もう直ぐ出来るぞ。早く頭乾かして来い」
「ありがとうございます。直ぐに行きます」
静藍はタオルドライした後の髪を急いでドライヤーで乾かす。洗面所から出てくると、台所から漂う香ばしい香りが彼を出迎えた。
テーブルの上で黄色いオムレツが美味そうに湯気を立てている。その上から真っ赤なトマトケチャップが掛かっており、湯がいたブロッコリーが彩りを添えていた。チーズと茹で卵とツナとフルーツトマトをたっぷりとあしらったグリーンリーフとベビーリーフのサラダ、コンソメスープが傍に並んでいる。
「お前の好物だ。冷めない内に食べなさい」
「……ありがとうございます。兄さん」
玉葱とピーマンと人参をみじん切りにして、合い挽き肉と一緒にバターで炒めたものを炊きたての飯と更に炒め合わせ、ふんわりと卵でくるんだオムライスは静藍の大好物で、亡き母が生前良く彼に作っていた。
「流石に好物ならしっかり食べられるか?」
「大丈夫ですよ、兄さんの手料理なら食べられますから」
元々食の細い弟だったが、それでも女性が食べる量は普通に食べていた。なので、異常な位食べる量が減ってきていることに気付いた時は大いに驚いたものだった。好き嫌いは殆どなかった筈。やはり病気のせいだろうか。弟を自分の元に連れてきて正解だったようだ。
悟は普段から自炊をしている為、食事の支度をすることは特に苦痛ではない。弟も早帰りの時は何かを作ってくれる。ただ弟に作らせると味見だけで満腹感を得てしまい、食べなくなってしまうのが大いに困ったことである。そういう理由もあり、悟はなるべく自分で料理することにしているのだ。ただでさえ保健室に度々厄介になっている弟に体力をつけさせねばならない。
ホカホカのオムライスを一匙一匙掬っては楚々と口に運ぶ弟の顔を見ながら、悟も自分の食事を始めることにする。口に含み、卵のふわとろ加減を含めた自作オムライスの出来栄えに満足した。
サラダを突きながら静藍はふと兄を盗み見た。同じ兄弟だが、悟は高校大学の頃ラグビー部に入っていただけあって、筋肉の付きが良く体格が非常に良い。スーツを着ていると着痩せして見える為、シャツ一枚になると筋肉による陰影が映るのだ。それに比べると、貧弱な自分はどうしても見劣りしてしまう。
(もし僕が吸血鬼化していなければ今どうだったのだろう?
無事に人間に戻ったら普通に身体を鍛えることは出来るのだろうか? )
あれこれ考え悩んでも、現状のままではどうにもならない。口に含んだコンソメスープが喉を滑り落ちてゆく。
無口のままの弟に兄が声をかけた。
「最近はどうだ? 新しい高校にはもう慣れたか?」
「はい。毎日楽しいです」
「……そうか。お前確か新聞部に入ったんだよな。部活動は無理せず出来るなら俺は何も言わない。お前にあってそうな部が見つかって、良かったな」
「はい」
(兄さんには本当のことを言うと心配させる……知られないままで何とか解決したい)
顔には出さないが、彼の頭の中では様々な言葉が何重にもなって飛び交っていた。
兄は夕刊を読み始めている。
静藍は特に連絡は来ていないか、スマホを覗き込んだ。LINEには特に何も来ていないようだ。それから色々調べ始める。夕暮れ時の空を映し出したような青紫色の瞳に真剣な光が宿った。
神宮寺家では食事中テレビをつけない習慣だ。
両親がいなくてもその習慣は変わらない。
一段落したら一緒に後片付けをする予定だ。
平和な時間が流れてゆく。
夜はそのまま静かに過ぎ去って行った。
「ただいま……」
静藍は若干ふらつきながら自宅マンションのドアを開けたが、特に何の返答もなかった。彼は十歳上の兄と二人暮らしである。今日は平日だ。外で仕事をしている兄が家にいるはずがない。
静藍は帰宅と同時に空調のスイッチを押すと機械音が響き、直ぐに涼しい風が入ってきた。
自室として使っている部屋の机に鞄を置き、水分補給はそこそこに脱衣場へと移動した。制服のシャツを脱いで洗濯ネットに入れ、洗濯機に放り込む。明日は土曜日で休日だ。洗濯しても良いだろう。
浴室に入り、シャワーの蛇口をひねる。
シャワーヘッドから勢いよく温めの雨が静藍の青白い裸の身体に降り注いできた。それは丁度程よい温度で肌についた汗を一気に流してくれる。足からこみ上げてくる爽快感に身震いし、おもわず目を瞑った。
一旦蛇口を締めて水を止め、いつも使うボディーソープを泡立てて身体を洗い、髪も洗い始めた。まだ明るい内から風呂だなんて、妙に贅沢な気分だ。
「ふぅ……」
薄い唇から溜息が一つ溢れた。
蛇口をひねると再び水滴が玉のように色白の肌の上を弾き始める。肌の色が少し上気している。何だか生き返った心地だ。タイルの上で弾かれた水玉が脛にあたり、ちょっとくすぐったい。
身体に付いた泡を洗い流しつつ、左の首元にある薔薇の形をした痣を手で触った。凹凸がない為、触っただけでは特に何も感じない。だが、これが熱を帯びるともう一人の自分が覚醒するのだ。鏡に映してみても、自分の華奢な裸体が映っているだけで、特に変わりはない。
濡れた髪の毛先から雫が一粒、静かに音もなく零れ落ちた。
「……」
もう一人の自分が身体を支配している間、自分は殆ど眠っている為、自分の身体が何をしているのかは殆ど分からない。と言っても全部眠っている訳ではなく感覚だけは覚えている状態だ。夢遊病状態と似た感じと言えば良いのだろうか。変な気分である。
身体のどこかに存在する彼の残滓を辿り、自分の身体の調子を探ると、平らな腹のあたりに何かを感じた。しこりがある訳ではないが、何かがあるのだ。しかし、それが一体何なのかは良く分からない。先月病院で検査を受けたが、何もないと言われた。医学的にも原因不明のものだ。だがこれがきっと自分に宿る彼と何か関係があるとにらんでいる。
ルフスは自分の身体を使って一体何がしたいのだろうか? 本当は直接本人に聞きたいがそれも叶わない。
もう一人の自分は望んでこの身体に宿った訳ではない。他者の能力によって無理矢理宿らされたのだ。自分の意志とは無関係に蘇らされたようなものだ。それは一体どんな気持ちなのだろうか。
もう六月。特に進展はなくても、刻々と時間は過ぎてゆく。ふと自分の身体を見てみた。身長が伸びやや痩せ気味だが、筋肉は思っているより普通についている。食べる量は増えると言うよりぎりぎり現状維持というのがやっとで、同い年の女子よりやや少ない位だ。そんな食生活で外見的にさほど変化はない為、却って不気味である。
十二歳の時に吸血鬼化させられて以来、意識がとぶことが度々あった。その時の自分が一体何をしていたのかは良く分からない。何も言われてないということは本当に意識がなかったというだけなのかもしれない。想像すると背中にぞくりと悪寒が走った。
茉莉が言うには、ルフスに支配されている時自分は人間離れした超能力を使って戦っているらしい。傷一つ残っていないすべすべした自分の肌を眺めると、本当にそうなのか信じられない。だが、ルフスから意識を交代してこの身に戻ると重く疲労感がのしかかってくるから、事実なのだろうと思わざるを得ない。
今はまだ分からないが、この状況を繰り返し続けると自分は本当に死んでしまうのだろうか?
誕生日を迎えたその日に。
「芍薬姫の血」があれば自分は本当にただの「神宮寺静藍」に戻れるのだろうか?
みんなの力を借りているが、本当のところ自信があまりない。
人間を吸血したら本当に「ルフス」となって永遠に生き続けなければならなくなるのだろうか?
今のところ思った程吸血欲が出ないため、自分が吸血鬼であるという自覚がないのだ。しかし一度でも吸血したら、二度と人間には戻れない。
「……」
このままで良いのか自信がない。
例へ聞いたとしても誰にも分からない。
答えのない問いが渦を巻き、離れようとしない。
少年の心に渦巻く闇は、留まることを知らなかった。
(僕は一体どうなるのだろう? )
目を瞑り、蛇口をひねって雑念を払うかのように、顔全面にシャワーを浴びる。
その時、榛色の瞳をした少女が彼の瞼の裏に浮かんだ。吸血鬼相手でも物怖じしない、常に堂々としている少女。強い彼女に比べて自分は何てひ弱なのだろうと虚しくなってくる。
(悩んでばかりだと前に進めないな。彼女を見習わねばならないな……)
シャワーの蛇口をひねり水を止めると、シャワーヘッドの縁に滴っていた水滴がタイルの上に落ち、音が浴室中に響き渡った。
※ ※ ※
静藍が風呂場から出て真っ白いタオルで髪と身体を拭き上げ、タオルでを頭の上に乗せつつ、Tシャツとジーパンと言った普段着に着替えると耳慣れた声が聞こえた。
「もう上がったのか? 静藍」
「……帰っていたのですね。兄さん」
静藍と風貌の良く似た、彼よりも身長の高い青年が立っていた。兄である悟だ。静藍より十歳上で今会社に勤めている。今日は早上がりの日だったようだ。帰ってきて直ぐ夕食の準備に取り掛かったのだろう。スーツの上着を脱いだ上からエプロンをつけて腕まくりをし、台所で忙しくしている。
「身体の調子はどうだ?」
「毎日一緒じゃないですか」
「体調は日々変動する。主治医の先生からも聞いているが、いつ急変するか分からないのだろう? もしお前になにかあったら父さんと母さんに面目ないからな」
悟と静藍の両親は、静藍が高校二年に上がる直前に交通事故で他界した。親戚も他県と物理的にも遠い為、身近な肉親と言えば兄弟二人きりだ。転入先で皆の前では両親の仕事の関係で越してきたと言ったが、それは表向きの理由である。学校には保護者は兄であることを伝えてある。
悟は就職と同時に家を出てマンションで一人暮らしをしていた。両親が亡くなって以来静藍の保護者として一緒に同居する生活を送ることになった。静藍は居住区が変わり、前の高校には同じ県内でも遠過ぎて通学困難となった為、今の綾南高校に急遽転入することになったのだ。二人暮らしを始めてまだ二・三ヶ月と言ったところだが、漸く慣れてきている。
悟は社会人としての生活も安定してきたところで弟の面倒を見る破目になった。学費は両親の遺産で何とかなったものの、葬式やら遺産相続と言った後始末とやらを片付けつつ弟の通学環境の世話と、落ち着くのに大層時間がかかっている。本籍の住所も今の住居に変更済みだ。
悟は静藍が吸血鬼化していることを知らない。知っているのは、弟がある時から謎の病気で三ヶ月か四ヶ月おきに総合病院で定期的に診てもらっていることと、彼が貧血で良く倒れるということだけだ。
気楽な独身生活が急に失われたが、彼は元々病弱な弟のことを常に心配していた為、特に苦にならず今までやってこられた。寧ろ、家に一緒にいる間は気遣ってやれる為安心である。現在特に付き合っている女性もいないので、気を遣う必要もない。
「もう直ぐ出来るぞ。早く頭乾かして来い」
「ありがとうございます。直ぐに行きます」
静藍はタオルドライした後の髪を急いでドライヤーで乾かす。洗面所から出てくると、台所から漂う香ばしい香りが彼を出迎えた。
テーブルの上で黄色いオムレツが美味そうに湯気を立てている。その上から真っ赤なトマトケチャップが掛かっており、湯がいたブロッコリーが彩りを添えていた。チーズと茹で卵とツナとフルーツトマトをたっぷりとあしらったグリーンリーフとベビーリーフのサラダ、コンソメスープが傍に並んでいる。
「お前の好物だ。冷めない内に食べなさい」
「……ありがとうございます。兄さん」
玉葱とピーマンと人参をみじん切りにして、合い挽き肉と一緒にバターで炒めたものを炊きたての飯と更に炒め合わせ、ふんわりと卵でくるんだオムライスは静藍の大好物で、亡き母が生前良く彼に作っていた。
「流石に好物ならしっかり食べられるか?」
「大丈夫ですよ、兄さんの手料理なら食べられますから」
元々食の細い弟だったが、それでも女性が食べる量は普通に食べていた。なので、異常な位食べる量が減ってきていることに気付いた時は大いに驚いたものだった。好き嫌いは殆どなかった筈。やはり病気のせいだろうか。弟を自分の元に連れてきて正解だったようだ。
悟は普段から自炊をしている為、食事の支度をすることは特に苦痛ではない。弟も早帰りの時は何かを作ってくれる。ただ弟に作らせると味見だけで満腹感を得てしまい、食べなくなってしまうのが大いに困ったことである。そういう理由もあり、悟はなるべく自分で料理することにしているのだ。ただでさえ保健室に度々厄介になっている弟に体力をつけさせねばならない。
ホカホカのオムライスを一匙一匙掬っては楚々と口に運ぶ弟の顔を見ながら、悟も自分の食事を始めることにする。口に含み、卵のふわとろ加減を含めた自作オムライスの出来栄えに満足した。
サラダを突きながら静藍はふと兄を盗み見た。同じ兄弟だが、悟は高校大学の頃ラグビー部に入っていただけあって、筋肉の付きが良く体格が非常に良い。スーツを着ていると着痩せして見える為、シャツ一枚になると筋肉による陰影が映るのだ。それに比べると、貧弱な自分はどうしても見劣りしてしまう。
(もし僕が吸血鬼化していなければ今どうだったのだろう?
無事に人間に戻ったら普通に身体を鍛えることは出来るのだろうか? )
あれこれ考え悩んでも、現状のままではどうにもならない。口に含んだコンソメスープが喉を滑り落ちてゆく。
無口のままの弟に兄が声をかけた。
「最近はどうだ? 新しい高校にはもう慣れたか?」
「はい。毎日楽しいです」
「……そうか。お前確か新聞部に入ったんだよな。部活動は無理せず出来るなら俺は何も言わない。お前にあってそうな部が見つかって、良かったな」
「はい」
(兄さんには本当のことを言うと心配させる……知られないままで何とか解決したい)
顔には出さないが、彼の頭の中では様々な言葉が何重にもなって飛び交っていた。
兄は夕刊を読み始めている。
静藍は特に連絡は来ていないか、スマホを覗き込んだ。LINEには特に何も来ていないようだ。それから色々調べ始める。夕暮れ時の空を映し出したような青紫色の瞳に真剣な光が宿った。
神宮寺家では食事中テレビをつけない習慣だ。
両親がいなくてもその習慣は変わらない。
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