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2巻
2-3
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その二 芸は身を助けるようです。
幸いにも飯屋がジョルジュの行きつけだったおかげで、彼を知り合いだというお店の人に預ける事ができた。
そして宿で一眠りした私達は、夜も明けきらないうちに人気のない海岸へ来ていた。
漁港から離れていて、海際ぎりぎりまで下りられる岩場だ。地面に広がるのは石ころ混じりの砂利だから、わりと歩きやすい。
「こんなものでいいか、祈里」
「ありがと助かる」
砂利の一部をならしていたライゼンがこちらを振り返ったが、私を見るなり珍妙な顔になる。
だがそれにかまっていられないほど、私はド真剣だった。
「その、なにをしているんだ」
「なにって、柔軟体操。久々にやるからさ」
私は入念に足を伸ばし、腕を伸ばし、せっせと体を温める。
いきなり動いて体を痛めるのはつまらないからね。この推定十歳児の体でも、痛めるのかわからないけど。
あ、そうだ発声練習もやっとかなきゃ。声を出すのも久々だしな。
「あーめーんーぼーあーかーいーなー あーいーうーえーおー!」
ライゼンがびくってしたけど全力で無視する。
よーし羞恥心は捨てろー。海の彼方に放り出せ。
これをやらんとなにも始まらないからな。
「……なあ祈里。本当にこれは、人魚族から話を聞くためなんだよな?」
「もちろんよ」
あいつが約束を守ってくれるんなら、これで大丈夫なはずだもの。
準備運動を終えてふうっと息を吐いた私は、ライゼンが作ってくれた舞台へ上がる。
波しぶきの音が聞こえる中、脇に置いてあった聖剣を取って引き抜いた。
「ミエッカ、マイクモード起動!」
声と同時に聖剣ミエッカが光に包まれ、見る間にマイクへ姿を変える。
聞いて驚け! 長くて手に持つものなら、ミエッカは変化できるのだ!
そして私は、鞘をライゼンへ向けて放り投げ、右手にマイクを構えて海に向かって叫んだ。
「ミュージック! スタートッ‼」
宣言すると同時に、気が利くミエッカがアップテンポでキャッチーなイントロを流し始める。
ほんっと心憎いくらいうまい演奏だよな! どっかの遊び人が日本の音楽が面白いってフルコーラス再現したのを、ミエッカが覚えちゃったっていう悪乗りの産物なんだけどな⁉
そして羞恥心を空の彼方へ投げ捨てた私は、全力で踊り出した。
曲は一昔前に一世を風靡したドラマの主題歌だ。
見よ、友達の結婚式のために鍛え上げた二次会芸! 忘年会の時も大盛り上がりだったんだぜ! テンポが速いから振り付けの難易度は高めだけれど、その分華やかでかわいいと、こぞって練習したものだ。
だからライゼン、全力で引くんじゃねえっ。これが約束なんだよ!
細い手足をめいっぱい振り回して前奏をクリアした私は、すうと息を吸った。
「たーとぉ~えーはーああぁなれ~ばぁ~なーれえぇにーぃーなあってぇえぇもおーっ‼」
歌い出した途端、ライゼンが硬直するのを目の端に捉えた。
くっそー! 知ってるよ、音痴な事ぐらい!
私の歌唱能力はこっちに来てから披露した時、仲間達にすらやめてくれと言われたレベルだ。
地球時代の忘年会の時だって口パクでどうにかしたんだぞ。
なんであいつらはこんなもんを聴きたがるんだかわからない。と思いつつ私は全力で腕を振り回し、跳ね飛び、思う存分かわいいを発散していく。
だってそうだろ? なにせ今は推定十歳児の銀髪碧眼美少女だ。
そんな子供が、かわいいを全力で追求したアイドルナンバーを歌って踊ってるんだぞ。どう考えたってかわいかろう?
まあそれに、私だって歌っている分には楽しいしね!
ライゼン以外誰もいないのを良い事に、久々に思いっきり声を張り上げる。
それこそ海の彼方へ届くように、壮大な愛の歌を。
「きみぃーーだけぇがー ぼくぅの~ひ~かーりー‼」
じゃぁんっ! とミエッカが伴奏を終えて、ポーズを決めた私は、完全に息が上がっていた。
歌って踊るって戦闘並みに激しいよな。本職のアイドルって戦えるんじゃない? と思う。
さあ、レパートリー的には三曲だから、やり終えたら耐久ループになる。できれば早めに来てほしいかなあ。と言うかほんとに声届くのかよ。
若干疑いつつも、私がミエッカに次の曲を指示しようとした時、波が不自然に乱れた。
ライゼンが剣を抜きかけるが、待ち人が来たとわかった私は冷静だ。
海面からかすかな水しぶきを上げて顔を出したのは、美しい人魚達だった。
この世界の人間でも珍しい、薄紅、レモンイエロー、群青色など、色とりどりの髪を緩やかに波に遊ばせている。
性別がわからないほど整った面立ちの彼らの耳に当たる所には、魚のヒレみたいなものがあり、優雅に朝日を反射していた。
人魚達は私達を見つけた途端にっこり笑うと、いったん海中へ戻っていく。
だが、すぐに海面から次々と顔を出してきた。
やっぱりこんなに来るのかと遠い目になりつつ、私は彼らに話しかけようとする。だがその前に興味津々の人魚達がすうと、道を譲った。
好奇心旺盛で、自分の興味を最優先にする人魚達が譲る存在はただ一人だ。
水しぶきを上げて岩場に上がってきたのは、ひときわ美しい人魚だった。
朝日に透けて薄紅にも紫にも見える夜明け色の髪に、透明なヒレの耳が上機嫌を表すように揺らいでいる。
二十代前半くらいの若々しい顔立ちは男性とも女性ともつかない。子供の無邪気さと、踊り手に似た妖艶さを併せ持つ不思議な美貌だ。中国の天女にも似た薄布を重ねた衣から伸びる両足には、髪と同じ色の鱗とヒレがクリスタルビーズのように輝いていた。
この世界の人魚の足は二本でヒレがついているんだよな。こいつに会った時にはほんと、ここが異世界なんだと改めて実感したものだ。
王者の風格を持ったその人魚は、私を認めると細い指を自身の唇に当てて微笑する。
「くふふ、相も変わらず面妖でまろい歌声をしておるのう」
夜に響く波音に紺碧を溶かし込んだような、しっとりとした声だった。そのたたずまいはまるで無垢な淑女のように清らかだ。
でも私は知っている。こいつが五百歳超えのじいさまだって。
「あんたぐらいよ、そんな形容詞使うの」
「おや気を悪くするでないぞ、我ら人魚の褒め言葉だからの。唯一無二の歌声じゃ」
「相変わらず悪趣味ね、スラン」
「再びまみえて嬉しいぞ、祈里」
相も変わらず、名前の発音は完璧だ。
私がため息をついて言えば、彼はあでやかに微笑んだが、ふいと私の背後を見た。
「くふふ、面妖な者を連れているようだの」
「あ、そうだ紹介するよ」
人魚、スランの言葉に、私はライゼンを振り返った。
案の定、硬い顔をしている彼に、ちょっと申し訳なく思いつつ紹介する。
「私のお忍び旅の隠れ蓑兼相棒のライゼン。ライゼン、彼は人魚族の長であるアンソルスラン」
「くるしゅうない。祈里の連れならば言葉を交わす事を歓迎しよう」
ひらひらと手を振るアンソルスランにライゼンは少しぎこちないながらも、軽く拳を胸に当てて頭を下げた。
「お初にお目にかかる、人魚族の長よ」
「……ほう」
ライゼンの声を聴いたアンソルスランが、愉快そうに笑む。
人魚って声だけでその人の人となりを判断できるらしいからなあ。勇者時代の私の時も一発で勇者って見抜かれたし。その微笑みの下でいったいなにを考えているのやら。
が、ライゼンはそれどころじゃないらしく、私に耳打ちしてきた。
「人魚族の長が出張ってくるなんて聞いてないぞ」
「いや私も、まさか近海にいるとは思っていなかったし許してよ」
アンソルスランとは、勇者時代にシーサーペント狩りをした仲だ。
その時、何を気に入ったのか、この人魚の長は私が海岸に向かって歌えば必ず人魚が応じるよう取りはからう事を約束してくれた。
そう、音痴の私に。
人を惑わせるほど最高に歌がうまい人魚達に向けて聴かせるなんてどんないじめだと思ったし、絶対にそんな約束使わないだろうと思っていたのだが。
どんな風に役に立つかってわからないものだなあ。
それでも真顔のライゼンの言いたい事はわかり、私は乾いた笑みを漏らしながらこそこそ話す。
するとアンソルスランのくすくすと美しい笑い声が響いた。
「くふふ、人魚の長は陸の者と意味合いが異なる。ただ最も声の尊き者に贈られる称号よ」
ライゼンがぎょっとするのもかまわず、アンソルスランは茶目っ気たっぷりに続ける。
「我らに聴こえぬ声はないゆえな。内緒話は水際から離れたほうが良いぞ」
「失礼した」
謝罪したライゼンに、アンソルスランは鷹揚に頷いた。
「さ、話をしよう祈里。我らに聞きたい事があるのじゃろう」
「ああそうだね」
自分では、「長」をただの称号と言うけれど。こうしているアンソルスランは、ちゃんと上に立つ者だと思うのだ。
瑠璃の瞳をやわりと細めるアンソルスランに、私は身を引きしめて頷いた。
☆ ☆ ☆
私とライゼンは海岸に広げた敷布に座って、岩に腰かけるアンソルスランと向かい合っていた。
好奇心でついてきてしまったらしい人魚達は、長の号令で散っている。
アンソルスランは足を海に浸したまま、私が持ってきた朝ご飯である焼いたソーセージを優雅につまんでいた。
「かように塩気の強いものを食すとは、人はまこと不思議なものよのう」
ほぼ十年のタイムラグがあるにもかかわらず、昔と変わらない彼に、私はパンをかじりながら話しかけた。
「ところでよく私だってわかったね。今推定十歳児よ? 前に会った時には男だったのに」
「なにを言っておるのじゃ。そなたの声は今も昔も変わらず苛烈であでやかであろうに。たかだか外見が変わった程度で見失うものか」
たかだかって言いますけどね、こちとら外見成人男性から十歳美少女になってるんだぞ。
だけど、ああそうだった、この人魚はこうして声ばっかり褒めてくる変なやつだった。
心外そうな声を上げたアンソルスランは岩場に腰かけなおすと、私の銀の髪に手を伸ばし、一房するりとつまむ。
「だが、その姿のほうが、そなたの魂にふさわしい色彩をしておるの」
「私が子供っぽいって言うのかよ」
さすがに聞き捨てならなくて抗議すれば、アンソルスランは瑠璃の瞳を細めて微笑んだ。
「我ら人魚は、声を最も重んじるがゆえに偽らぬと知っておろうに。そなたの声が表す魂は、まれに見る美しさであるよ」
声だけで魔法を使う人魚族は、音を……ひいては声を重んじる。
人魚族の長であるアンソルスランは、その声だけで魂すら見通すと言われているほどだ。
だから、約十年前に出会って早々に勇者と見抜かれた時はビビッたものだが、話が早くて助かる。
そう思って本題に入ろうとしたら、アンソルスランが目を細めた。
「くふふ、気安く触れられて気に食わぬ、という顔だの」
え、と隣を見ると、ライゼンが何とも言いがたい顔をしていた。
こう、子供が隠そうとしていたものを言い当てられて、決まり悪さと悔しさをどうしたらいいかわからない、みたいな。
「別に。古い知り合いなのだろう。口を挟む気はない」
「ならば良い。その殺気も寛大な心で許そう」
え、殺気? 全然感じなかったけど。
見上げてもライゼンは視線をそらすだけで答えてくれなさそうだった。私は釈然としなかったけど本題に入る。
「で、スラン。私達の事情はさっき話した通りだけど。海でなにが起きてるの」
「そなたが旅に出ておるとは驚いたものだが。なにから話したものだのう」
人魚の前で言葉を偽る事はできないから、朝ご飯の間にここまでの経緯を包み隠さず話したのだ。
薄く鱗の生える指先を顎にかけて沈思したアンソルスランは続ける。
「何ヶ月前かの、街の領主だと申す男が船でやって来て、同胞にこう言うたのだ。『この海は我らの領地。暮らすのであれば税をよこせ』と」
「は? 馬鹿なの」
領主のあんまりな言い分に私は反射的に返していた。
海には海神マーレンの加護があるため、ずっと昔から海と陸は互いに不可侵という暗黙の了解がある。
人間の船だって海の上を通るのを見逃されて、知らんぷりされているだけなのに。
「うむ、馬鹿であろう。しかも国の総意でもなく、領主の独断であったらしい。陸の者は様々な者がおるのう」
「できれば同じ陸の人間として扱ってほしくないわ」
「わかっておる、悪しき者ばかりではないからの」
やれやれ、とばかりにため息をつくアンソルスランの言葉には、長い年月を経た重みがある。
「むろん、海におる我らが簡単に捕まるわけがないがの。そうしたらあやつらなにをしたと思う」
「……なに」
私が先を促すと、アンソルスランはいっそ妖艶なまでに微笑んだ。
「海に瘴泥の塊を投げ入れたのだ。おかげで連日浄化に追われておる」
「ここの領主まじめになにしてるの⁉ 滅亡でもしたいわけ⁉」
あんまりにもあんまりな事態に、私は思わず頭を抱えた。こんなに頭の悪い経緯だったとは。
するとアンソルスランは不思議そうに、ゆらと耳のヒレを揺らめかせた。
「おや、陸の子には我の言葉の真偽はわからぬのであろう? 鵜呑みにして良いのか」
「そんな風に瘴泥を投げ込まれて、瘴魔になった精霊に会ったばっかりなもんで」
「……ほう」
瑠璃色の瞳が細められたけど、アンソルスランは話を続けた。
「瘴泥を投げ入れた後も、領主めは我らを捕らえようとうろうろしておってな。ゆえに海にたゆたう船はすべて追い返しておったのじゃ」
「漁師達が漁に出られないと困っていたが」
「領主も知恵をつけて、漁師の船で襲い掛かってくるものでな。我らに区別はつかないゆえ、すべて追い返していたのじゃよ」
ライゼンの問いかけに、あっさりと答えたアンソルスランはそう締めくくった。
言葉を重んじる人魚である彼の言う事は、おおむね信じて良い。
心底不愉快だが、これで全容が見えてきた。
ライゼンもある程度思い至った様子で、確認するように私に言う。
「漁師達は、領主が数年前に新しく赴任してきたばかりだったと言っていたな。海の事は疎いが、金勘定はうまいから、特に文句はなかったと」
「それってつまり、利益になるものだったらなんでもしかねないって事だね」
人魚の鱗は、とても硬くて色も様々、水に関連する魔法の触媒としても有用だ。ありていに言えばお金になる。
私は少々ぼかしたのだが、アンソルスランはやんわりとした笑みでぶっちゃけた。
「我らの容姿も声も陸の者にとっては魅力的だからのう。鑑賞用にも素材採取用にも価値があろう? 我らを捕まえようと船でやってきたところで、我らの声に聞き惚れて溺れ死ぬだけであるのに、愛いやつらじゃ」
くすくす、くすくす笑うアンソルスランには妙な迫力がある。初めて見るだろうライゼンは引きつった顔をしていた。
ま、ともかく。ぶっ飛ばす相手が明確になったのは助かるってもんだ。
ここは他国とはいえ、領主の横暴に困っている人達をほうっておきたくはない。
けれどもこれを二日で解決するのはちと無謀に思えてきたぞ……?
私がうんうん悩んでいると、アンソルスランが話しかけてきた。
「それでの、祈里よ」
「なに」
「つがいとなろう」
「ちょっと待ってね……て、は?」
なんか領主を引っ張り出す方法……と考えて生返事をしたら、妙な提案をされた気がした。
「なんだと」
隣のライゼンが耳を疑っている風な声音で聞き返すが、アンソルスランはただふむと優雅に顎に指先を置く。
「そういえば陸の人間はこう言わないのだったな。ではもう一度」
彼は私の手を取ると、ゆっくりと指を絡める。
「祈里よ、我と結婚しよう」
私とライゼンが絶句する中、発言主であるアンソルスランだけが悠然と微笑んでいたのだった。
禁漁問題を解決しようと聞き込みに来たら、人魚族の長アンソルスランに求婚された。
ちなみに私の小さな手を包む彼の手は、ひんやりとしていて吸い付くようにしっとりとしている。
もふもふとはまた違った不思議な感触だ。いや現実逃避なのはわかってる。
だがわけわからん。
私が無言になっていると、ライゼンが荒っぽく身を乗り出した。
「いきなりなにを言っているんだあなたは! 今は海に広がった瘴泥をどうにかする話をしているんだ。そもそも彼女はまだ幼いんだぞ、結婚なんて早いだろう!」
「なにを言っているのだ、面妖な男よ。陸の者は幼子のうちに婚姻をしてはいけない決まりがあるのは知っておるが、我が祈里に会ったのは勇者時代であるぞ。すでに魂は成熟しておる」
「ぐっ」
ライゼンが言葉を詰まらせたけど、言うてあれだよな。
「でもスラン。あんた五百歳超えてたでしょ、ふつうにロリコンになるんじゃない?」
「ろりこん……ああ、幼子を好む性癖の事か。そういうものかのう?」
アンソルスランがきょとんとした隙に、自分の手を救出する。
ライゼンがアンソルスランに食ってかかったのは意外だったが、それは置いといて。
私は人魚の長を呆れまじりに睨んだ。
「あんた、まだ諦めてなかったの。あの時断ったでしょうに」
「当然であろ。そなたのような美しく稀な魂と共に歩めるのなら海底も華やぐと言うものだ」
悪びれた風もない彼に、私はこれ見よがしにため息をついてみせる。
すると今度はライゼンに詰め寄られた。
「以前にも求婚されていたのか?」
「まあねー。海はいい所だぞ、一緒になろうって。……あれ、そういえばあの時『婿に来い』とは言わなかったね。もしかしてその頃から私の性別わかってた?」
事あるごとに恋の歌を歌われて、他の人魚達に公認のカップル的に見られた時はどれだけ決まり悪くてこっ恥ずかしかった事か。
だが、性別に言及された事はなかった気がする。疑問を口にすれば、アンソルスランはなにを今更と言わんばかりだった。
「人魚に性別意識は希薄じゃ。どちらにせよ、そなたに合わせて変えれば良いだけじゃしの」
道理で性別迷う美人が多いと思ったよ人魚。その時は自分も性別に突っ込まれると困るから聞かなかったけれども。
十数年経っていてもまだまだ驚く事がある異世界だ。でもさ。
「そもそもなんでその話を蒸し返すんだ。今は関係ないでしょ」
「そうでもないさ。勇者王よ」
アンソルスランにそう呼ばれて、私は表情を引きしめた。
彼がそう呼ぶという事は、つまりはここからは個人ではなく政治的な話だ。
「ずっと我を誘っておったではないか。グランツ国であったか、その傘下に入るようにと」
「まあ正確には同盟だけどね」
十年前にそういう誘いをした覚えはある。もうその時には国を作るという構想をしていて、海の戦力……少なくとも安全が欲しかったのだ。
「このところ船の数が増えてな、こたびの騒動のように陸と無関係とは言い切れなくなっている。だが我ら人魚は陸に興味がなくてなあ。今ですら浄化さえできれば良いと考える者が多いのだよ。――そこで、そなたとの婚姻だ」
アンソルスランは苦笑に似た曖昧な表情のままだったが、言葉の端々に真剣な色が滲んでいて、彼が危機感を抱いているのだと理解できた。
「人であるそなたと我がつがえば、同胞達は人に興味を持つ。それくらいには我は同胞達から愛されておるからの。なれば、こたびの事件も人と足並みをそろえて解決する事が可能だ」
「私は人魚族との交渉権を得て、スラン達は陸の人間とのつながりを持つって事?」
彼は、おとぎ話に出てきそうな幻想的で美しいかんばせで微笑んだ。
「王たるそなたにとって、有益な交渉であろう?」
さすが伊達に五百年、生きていないってところだろうな。
救助を求めるのではなく、交渉カードを用意して有益な形に持っていこうとする。為政者として正しい対応だと思うわ。セルヴァも海とのつながりはぜひ欲しいって言ってたし。海の安全な海流や航路を熟知しているのは人魚だもの。
ダメ押しのようにアンソルスランが続けた。
「マーレン様は相も変わらずのんきであらせられるゆえな、今も我が一番海では偉いぞ」
知っているさ。海神マーレンは最低限しか仕事をしないから、アンソルスランが実質のトップだって事も。ただ、言わずにはいられない。
「ほんとこの世界の神様達っていい加減だよねえ」
だってそうだろ? この世界に神は存在するのに、魔王の出現って世界の危機も、対処は人間に丸投げだ。私には天空神の加護が付いているらしいけど、まったく助けられた気はしない。
ともかく、アンソルスランの提案はまあまあ釣り合いが取れているわけで、利益に訴えてくるとこも冷静だよなって思うのだ。ぶっちゃけ悪くはないどころかめちゃくちゃ良い。
どう返事したものかと考えていれば、すう、と顔に影がかかった。
「人魚の長、それは看過できない」
低い声が耳朶を打ち、気がつくと私はライゼンの腕にかばわれていた。
へ、と驚いて顔を上げると、彼の厳しく引きしめられた横顔が目に入る。
顔を戻せばアンソルスランが瑠璃の瞳を細めていた。
彼の足のヒレが、海面を叩く音が響く。
「ほう。そなたが、看過できぬと申すか」
「その提案は祈里の人格を無視した言葉だ。そもそも祈里は見合いを拒否して旅に出たんだぞ、受け入れられるものじゃない」
「ほう、ほう、ほう。兄代わりと聞いていたが、ずいぶん真に迫っているではないか」
「俺は彼女の相棒だからな。侵害されているととれば噛みつきもするさ。なにより共に歩む相手は好きあったもの同士であるべきだと思う」
ライゼン、なんだか妹に付きかけている悪い虫を追い払おうとしている感じでは?
私が驚いている間にも、二人は睨み合って譲らない。
うわ、アンソルスランってば、すげえ人の悪そうな顔になっているぞ⁉
「聞いたところ、行きずりの関係なのだろう。ほうっておいても良いだろうに。それとも別の理由があるのかの?」
途端、ライゼンの顔がこわばった。
殺気混じりの雰囲気が一気にしぼむ。なにか動揺する言葉があっただろうか。
激情を押し殺している風だったライゼンは、絞り出すように声を上げた。
幸いにも飯屋がジョルジュの行きつけだったおかげで、彼を知り合いだというお店の人に預ける事ができた。
そして宿で一眠りした私達は、夜も明けきらないうちに人気のない海岸へ来ていた。
漁港から離れていて、海際ぎりぎりまで下りられる岩場だ。地面に広がるのは石ころ混じりの砂利だから、わりと歩きやすい。
「こんなものでいいか、祈里」
「ありがと助かる」
砂利の一部をならしていたライゼンがこちらを振り返ったが、私を見るなり珍妙な顔になる。
だがそれにかまっていられないほど、私はド真剣だった。
「その、なにをしているんだ」
「なにって、柔軟体操。久々にやるからさ」
私は入念に足を伸ばし、腕を伸ばし、せっせと体を温める。
いきなり動いて体を痛めるのはつまらないからね。この推定十歳児の体でも、痛めるのかわからないけど。
あ、そうだ発声練習もやっとかなきゃ。声を出すのも久々だしな。
「あーめーんーぼーあーかーいーなー あーいーうーえーおー!」
ライゼンがびくってしたけど全力で無視する。
よーし羞恥心は捨てろー。海の彼方に放り出せ。
これをやらんとなにも始まらないからな。
「……なあ祈里。本当にこれは、人魚族から話を聞くためなんだよな?」
「もちろんよ」
あいつが約束を守ってくれるんなら、これで大丈夫なはずだもの。
準備運動を終えてふうっと息を吐いた私は、ライゼンが作ってくれた舞台へ上がる。
波しぶきの音が聞こえる中、脇に置いてあった聖剣を取って引き抜いた。
「ミエッカ、マイクモード起動!」
声と同時に聖剣ミエッカが光に包まれ、見る間にマイクへ姿を変える。
聞いて驚け! 長くて手に持つものなら、ミエッカは変化できるのだ!
そして私は、鞘をライゼンへ向けて放り投げ、右手にマイクを構えて海に向かって叫んだ。
「ミュージック! スタートッ‼」
宣言すると同時に、気が利くミエッカがアップテンポでキャッチーなイントロを流し始める。
ほんっと心憎いくらいうまい演奏だよな! どっかの遊び人が日本の音楽が面白いってフルコーラス再現したのを、ミエッカが覚えちゃったっていう悪乗りの産物なんだけどな⁉
そして羞恥心を空の彼方へ投げ捨てた私は、全力で踊り出した。
曲は一昔前に一世を風靡したドラマの主題歌だ。
見よ、友達の結婚式のために鍛え上げた二次会芸! 忘年会の時も大盛り上がりだったんだぜ! テンポが速いから振り付けの難易度は高めだけれど、その分華やかでかわいいと、こぞって練習したものだ。
だからライゼン、全力で引くんじゃねえっ。これが約束なんだよ!
細い手足をめいっぱい振り回して前奏をクリアした私は、すうと息を吸った。
「たーとぉ~えーはーああぁなれ~ばぁ~なーれえぇにーぃーなあってぇえぇもおーっ‼」
歌い出した途端、ライゼンが硬直するのを目の端に捉えた。
くっそー! 知ってるよ、音痴な事ぐらい!
私の歌唱能力はこっちに来てから披露した時、仲間達にすらやめてくれと言われたレベルだ。
地球時代の忘年会の時だって口パクでどうにかしたんだぞ。
なんであいつらはこんなもんを聴きたがるんだかわからない。と思いつつ私は全力で腕を振り回し、跳ね飛び、思う存分かわいいを発散していく。
だってそうだろ? なにせ今は推定十歳児の銀髪碧眼美少女だ。
そんな子供が、かわいいを全力で追求したアイドルナンバーを歌って踊ってるんだぞ。どう考えたってかわいかろう?
まあそれに、私だって歌っている分には楽しいしね!
ライゼン以外誰もいないのを良い事に、久々に思いっきり声を張り上げる。
それこそ海の彼方へ届くように、壮大な愛の歌を。
「きみぃーーだけぇがー ぼくぅの~ひ~かーりー‼」
じゃぁんっ! とミエッカが伴奏を終えて、ポーズを決めた私は、完全に息が上がっていた。
歌って踊るって戦闘並みに激しいよな。本職のアイドルって戦えるんじゃない? と思う。
さあ、レパートリー的には三曲だから、やり終えたら耐久ループになる。できれば早めに来てほしいかなあ。と言うかほんとに声届くのかよ。
若干疑いつつも、私がミエッカに次の曲を指示しようとした時、波が不自然に乱れた。
ライゼンが剣を抜きかけるが、待ち人が来たとわかった私は冷静だ。
海面からかすかな水しぶきを上げて顔を出したのは、美しい人魚達だった。
この世界の人間でも珍しい、薄紅、レモンイエロー、群青色など、色とりどりの髪を緩やかに波に遊ばせている。
性別がわからないほど整った面立ちの彼らの耳に当たる所には、魚のヒレみたいなものがあり、優雅に朝日を反射していた。
人魚達は私達を見つけた途端にっこり笑うと、いったん海中へ戻っていく。
だが、すぐに海面から次々と顔を出してきた。
やっぱりこんなに来るのかと遠い目になりつつ、私は彼らに話しかけようとする。だがその前に興味津々の人魚達がすうと、道を譲った。
好奇心旺盛で、自分の興味を最優先にする人魚達が譲る存在はただ一人だ。
水しぶきを上げて岩場に上がってきたのは、ひときわ美しい人魚だった。
朝日に透けて薄紅にも紫にも見える夜明け色の髪に、透明なヒレの耳が上機嫌を表すように揺らいでいる。
二十代前半くらいの若々しい顔立ちは男性とも女性ともつかない。子供の無邪気さと、踊り手に似た妖艶さを併せ持つ不思議な美貌だ。中国の天女にも似た薄布を重ねた衣から伸びる両足には、髪と同じ色の鱗とヒレがクリスタルビーズのように輝いていた。
この世界の人魚の足は二本でヒレがついているんだよな。こいつに会った時にはほんと、ここが異世界なんだと改めて実感したものだ。
王者の風格を持ったその人魚は、私を認めると細い指を自身の唇に当てて微笑する。
「くふふ、相も変わらず面妖でまろい歌声をしておるのう」
夜に響く波音に紺碧を溶かし込んだような、しっとりとした声だった。そのたたずまいはまるで無垢な淑女のように清らかだ。
でも私は知っている。こいつが五百歳超えのじいさまだって。
「あんたぐらいよ、そんな形容詞使うの」
「おや気を悪くするでないぞ、我ら人魚の褒め言葉だからの。唯一無二の歌声じゃ」
「相変わらず悪趣味ね、スラン」
「再びまみえて嬉しいぞ、祈里」
相も変わらず、名前の発音は完璧だ。
私がため息をついて言えば、彼はあでやかに微笑んだが、ふいと私の背後を見た。
「くふふ、面妖な者を連れているようだの」
「あ、そうだ紹介するよ」
人魚、スランの言葉に、私はライゼンを振り返った。
案の定、硬い顔をしている彼に、ちょっと申し訳なく思いつつ紹介する。
「私のお忍び旅の隠れ蓑兼相棒のライゼン。ライゼン、彼は人魚族の長であるアンソルスラン」
「くるしゅうない。祈里の連れならば言葉を交わす事を歓迎しよう」
ひらひらと手を振るアンソルスランにライゼンは少しぎこちないながらも、軽く拳を胸に当てて頭を下げた。
「お初にお目にかかる、人魚族の長よ」
「……ほう」
ライゼンの声を聴いたアンソルスランが、愉快そうに笑む。
人魚って声だけでその人の人となりを判断できるらしいからなあ。勇者時代の私の時も一発で勇者って見抜かれたし。その微笑みの下でいったいなにを考えているのやら。
が、ライゼンはそれどころじゃないらしく、私に耳打ちしてきた。
「人魚族の長が出張ってくるなんて聞いてないぞ」
「いや私も、まさか近海にいるとは思っていなかったし許してよ」
アンソルスランとは、勇者時代にシーサーペント狩りをした仲だ。
その時、何を気に入ったのか、この人魚の長は私が海岸に向かって歌えば必ず人魚が応じるよう取りはからう事を約束してくれた。
そう、音痴の私に。
人を惑わせるほど最高に歌がうまい人魚達に向けて聴かせるなんてどんないじめだと思ったし、絶対にそんな約束使わないだろうと思っていたのだが。
どんな風に役に立つかってわからないものだなあ。
それでも真顔のライゼンの言いたい事はわかり、私は乾いた笑みを漏らしながらこそこそ話す。
するとアンソルスランのくすくすと美しい笑い声が響いた。
「くふふ、人魚の長は陸の者と意味合いが異なる。ただ最も声の尊き者に贈られる称号よ」
ライゼンがぎょっとするのもかまわず、アンソルスランは茶目っ気たっぷりに続ける。
「我らに聴こえぬ声はないゆえな。内緒話は水際から離れたほうが良いぞ」
「失礼した」
謝罪したライゼンに、アンソルスランは鷹揚に頷いた。
「さ、話をしよう祈里。我らに聞きたい事があるのじゃろう」
「ああそうだね」
自分では、「長」をただの称号と言うけれど。こうしているアンソルスランは、ちゃんと上に立つ者だと思うのだ。
瑠璃の瞳をやわりと細めるアンソルスランに、私は身を引きしめて頷いた。
☆ ☆ ☆
私とライゼンは海岸に広げた敷布に座って、岩に腰かけるアンソルスランと向かい合っていた。
好奇心でついてきてしまったらしい人魚達は、長の号令で散っている。
アンソルスランは足を海に浸したまま、私が持ってきた朝ご飯である焼いたソーセージを優雅につまんでいた。
「かように塩気の強いものを食すとは、人はまこと不思議なものよのう」
ほぼ十年のタイムラグがあるにもかかわらず、昔と変わらない彼に、私はパンをかじりながら話しかけた。
「ところでよく私だってわかったね。今推定十歳児よ? 前に会った時には男だったのに」
「なにを言っておるのじゃ。そなたの声は今も昔も変わらず苛烈であでやかであろうに。たかだか外見が変わった程度で見失うものか」
たかだかって言いますけどね、こちとら外見成人男性から十歳美少女になってるんだぞ。
だけど、ああそうだった、この人魚はこうして声ばっかり褒めてくる変なやつだった。
心外そうな声を上げたアンソルスランは岩場に腰かけなおすと、私の銀の髪に手を伸ばし、一房するりとつまむ。
「だが、その姿のほうが、そなたの魂にふさわしい色彩をしておるの」
「私が子供っぽいって言うのかよ」
さすがに聞き捨てならなくて抗議すれば、アンソルスランは瑠璃の瞳を細めて微笑んだ。
「我ら人魚は、声を最も重んじるがゆえに偽らぬと知っておろうに。そなたの声が表す魂は、まれに見る美しさであるよ」
声だけで魔法を使う人魚族は、音を……ひいては声を重んじる。
人魚族の長であるアンソルスランは、その声だけで魂すら見通すと言われているほどだ。
だから、約十年前に出会って早々に勇者と見抜かれた時はビビッたものだが、話が早くて助かる。
そう思って本題に入ろうとしたら、アンソルスランが目を細めた。
「くふふ、気安く触れられて気に食わぬ、という顔だの」
え、と隣を見ると、ライゼンが何とも言いがたい顔をしていた。
こう、子供が隠そうとしていたものを言い当てられて、決まり悪さと悔しさをどうしたらいいかわからない、みたいな。
「別に。古い知り合いなのだろう。口を挟む気はない」
「ならば良い。その殺気も寛大な心で許そう」
え、殺気? 全然感じなかったけど。
見上げてもライゼンは視線をそらすだけで答えてくれなさそうだった。私は釈然としなかったけど本題に入る。
「で、スラン。私達の事情はさっき話した通りだけど。海でなにが起きてるの」
「そなたが旅に出ておるとは驚いたものだが。なにから話したものだのう」
人魚の前で言葉を偽る事はできないから、朝ご飯の間にここまでの経緯を包み隠さず話したのだ。
薄く鱗の生える指先を顎にかけて沈思したアンソルスランは続ける。
「何ヶ月前かの、街の領主だと申す男が船でやって来て、同胞にこう言うたのだ。『この海は我らの領地。暮らすのであれば税をよこせ』と」
「は? 馬鹿なの」
領主のあんまりな言い分に私は反射的に返していた。
海には海神マーレンの加護があるため、ずっと昔から海と陸は互いに不可侵という暗黙の了解がある。
人間の船だって海の上を通るのを見逃されて、知らんぷりされているだけなのに。
「うむ、馬鹿であろう。しかも国の総意でもなく、領主の独断であったらしい。陸の者は様々な者がおるのう」
「できれば同じ陸の人間として扱ってほしくないわ」
「わかっておる、悪しき者ばかりではないからの」
やれやれ、とばかりにため息をつくアンソルスランの言葉には、長い年月を経た重みがある。
「むろん、海におる我らが簡単に捕まるわけがないがの。そうしたらあやつらなにをしたと思う」
「……なに」
私が先を促すと、アンソルスランはいっそ妖艶なまでに微笑んだ。
「海に瘴泥の塊を投げ入れたのだ。おかげで連日浄化に追われておる」
「ここの領主まじめになにしてるの⁉ 滅亡でもしたいわけ⁉」
あんまりにもあんまりな事態に、私は思わず頭を抱えた。こんなに頭の悪い経緯だったとは。
するとアンソルスランは不思議そうに、ゆらと耳のヒレを揺らめかせた。
「おや、陸の子には我の言葉の真偽はわからぬのであろう? 鵜呑みにして良いのか」
「そんな風に瘴泥を投げ込まれて、瘴魔になった精霊に会ったばっかりなもんで」
「……ほう」
瑠璃色の瞳が細められたけど、アンソルスランは話を続けた。
「瘴泥を投げ入れた後も、領主めは我らを捕らえようとうろうろしておってな。ゆえに海にたゆたう船はすべて追い返しておったのじゃ」
「漁師達が漁に出られないと困っていたが」
「領主も知恵をつけて、漁師の船で襲い掛かってくるものでな。我らに区別はつかないゆえ、すべて追い返していたのじゃよ」
ライゼンの問いかけに、あっさりと答えたアンソルスランはそう締めくくった。
言葉を重んじる人魚である彼の言う事は、おおむね信じて良い。
心底不愉快だが、これで全容が見えてきた。
ライゼンもある程度思い至った様子で、確認するように私に言う。
「漁師達は、領主が数年前に新しく赴任してきたばかりだったと言っていたな。海の事は疎いが、金勘定はうまいから、特に文句はなかったと」
「それってつまり、利益になるものだったらなんでもしかねないって事だね」
人魚の鱗は、とても硬くて色も様々、水に関連する魔法の触媒としても有用だ。ありていに言えばお金になる。
私は少々ぼかしたのだが、アンソルスランはやんわりとした笑みでぶっちゃけた。
「我らの容姿も声も陸の者にとっては魅力的だからのう。鑑賞用にも素材採取用にも価値があろう? 我らを捕まえようと船でやってきたところで、我らの声に聞き惚れて溺れ死ぬだけであるのに、愛いやつらじゃ」
くすくす、くすくす笑うアンソルスランには妙な迫力がある。初めて見るだろうライゼンは引きつった顔をしていた。
ま、ともかく。ぶっ飛ばす相手が明確になったのは助かるってもんだ。
ここは他国とはいえ、領主の横暴に困っている人達をほうっておきたくはない。
けれどもこれを二日で解決するのはちと無謀に思えてきたぞ……?
私がうんうん悩んでいると、アンソルスランが話しかけてきた。
「それでの、祈里よ」
「なに」
「つがいとなろう」
「ちょっと待ってね……て、は?」
なんか領主を引っ張り出す方法……と考えて生返事をしたら、妙な提案をされた気がした。
「なんだと」
隣のライゼンが耳を疑っている風な声音で聞き返すが、アンソルスランはただふむと優雅に顎に指先を置く。
「そういえば陸の人間はこう言わないのだったな。ではもう一度」
彼は私の手を取ると、ゆっくりと指を絡める。
「祈里よ、我と結婚しよう」
私とライゼンが絶句する中、発言主であるアンソルスランだけが悠然と微笑んでいたのだった。
禁漁問題を解決しようと聞き込みに来たら、人魚族の長アンソルスランに求婚された。
ちなみに私の小さな手を包む彼の手は、ひんやりとしていて吸い付くようにしっとりとしている。
もふもふとはまた違った不思議な感触だ。いや現実逃避なのはわかってる。
だがわけわからん。
私が無言になっていると、ライゼンが荒っぽく身を乗り出した。
「いきなりなにを言っているんだあなたは! 今は海に広がった瘴泥をどうにかする話をしているんだ。そもそも彼女はまだ幼いんだぞ、結婚なんて早いだろう!」
「なにを言っているのだ、面妖な男よ。陸の者は幼子のうちに婚姻をしてはいけない決まりがあるのは知っておるが、我が祈里に会ったのは勇者時代であるぞ。すでに魂は成熟しておる」
「ぐっ」
ライゼンが言葉を詰まらせたけど、言うてあれだよな。
「でもスラン。あんた五百歳超えてたでしょ、ふつうにロリコンになるんじゃない?」
「ろりこん……ああ、幼子を好む性癖の事か。そういうものかのう?」
アンソルスランがきょとんとした隙に、自分の手を救出する。
ライゼンがアンソルスランに食ってかかったのは意外だったが、それは置いといて。
私は人魚の長を呆れまじりに睨んだ。
「あんた、まだ諦めてなかったの。あの時断ったでしょうに」
「当然であろ。そなたのような美しく稀な魂と共に歩めるのなら海底も華やぐと言うものだ」
悪びれた風もない彼に、私はこれ見よがしにため息をついてみせる。
すると今度はライゼンに詰め寄られた。
「以前にも求婚されていたのか?」
「まあねー。海はいい所だぞ、一緒になろうって。……あれ、そういえばあの時『婿に来い』とは言わなかったね。もしかしてその頃から私の性別わかってた?」
事あるごとに恋の歌を歌われて、他の人魚達に公認のカップル的に見られた時はどれだけ決まり悪くてこっ恥ずかしかった事か。
だが、性別に言及された事はなかった気がする。疑問を口にすれば、アンソルスランはなにを今更と言わんばかりだった。
「人魚に性別意識は希薄じゃ。どちらにせよ、そなたに合わせて変えれば良いだけじゃしの」
道理で性別迷う美人が多いと思ったよ人魚。その時は自分も性別に突っ込まれると困るから聞かなかったけれども。
十数年経っていてもまだまだ驚く事がある異世界だ。でもさ。
「そもそもなんでその話を蒸し返すんだ。今は関係ないでしょ」
「そうでもないさ。勇者王よ」
アンソルスランにそう呼ばれて、私は表情を引きしめた。
彼がそう呼ぶという事は、つまりはここからは個人ではなく政治的な話だ。
「ずっと我を誘っておったではないか。グランツ国であったか、その傘下に入るようにと」
「まあ正確には同盟だけどね」
十年前にそういう誘いをした覚えはある。もうその時には国を作るという構想をしていて、海の戦力……少なくとも安全が欲しかったのだ。
「このところ船の数が増えてな、こたびの騒動のように陸と無関係とは言い切れなくなっている。だが我ら人魚は陸に興味がなくてなあ。今ですら浄化さえできれば良いと考える者が多いのだよ。――そこで、そなたとの婚姻だ」
アンソルスランは苦笑に似た曖昧な表情のままだったが、言葉の端々に真剣な色が滲んでいて、彼が危機感を抱いているのだと理解できた。
「人であるそなたと我がつがえば、同胞達は人に興味を持つ。それくらいには我は同胞達から愛されておるからの。なれば、こたびの事件も人と足並みをそろえて解決する事が可能だ」
「私は人魚族との交渉権を得て、スラン達は陸の人間とのつながりを持つって事?」
彼は、おとぎ話に出てきそうな幻想的で美しいかんばせで微笑んだ。
「王たるそなたにとって、有益な交渉であろう?」
さすが伊達に五百年、生きていないってところだろうな。
救助を求めるのではなく、交渉カードを用意して有益な形に持っていこうとする。為政者として正しい対応だと思うわ。セルヴァも海とのつながりはぜひ欲しいって言ってたし。海の安全な海流や航路を熟知しているのは人魚だもの。
ダメ押しのようにアンソルスランが続けた。
「マーレン様は相も変わらずのんきであらせられるゆえな、今も我が一番海では偉いぞ」
知っているさ。海神マーレンは最低限しか仕事をしないから、アンソルスランが実質のトップだって事も。ただ、言わずにはいられない。
「ほんとこの世界の神様達っていい加減だよねえ」
だってそうだろ? この世界に神は存在するのに、魔王の出現って世界の危機も、対処は人間に丸投げだ。私には天空神の加護が付いているらしいけど、まったく助けられた気はしない。
ともかく、アンソルスランの提案はまあまあ釣り合いが取れているわけで、利益に訴えてくるとこも冷静だよなって思うのだ。ぶっちゃけ悪くはないどころかめちゃくちゃ良い。
どう返事したものかと考えていれば、すう、と顔に影がかかった。
「人魚の長、それは看過できない」
低い声が耳朶を打ち、気がつくと私はライゼンの腕にかばわれていた。
へ、と驚いて顔を上げると、彼の厳しく引きしめられた横顔が目に入る。
顔を戻せばアンソルスランが瑠璃の瞳を細めていた。
彼の足のヒレが、海面を叩く音が響く。
「ほう。そなたが、看過できぬと申すか」
「その提案は祈里の人格を無視した言葉だ。そもそも祈里は見合いを拒否して旅に出たんだぞ、受け入れられるものじゃない」
「ほう、ほう、ほう。兄代わりと聞いていたが、ずいぶん真に迫っているではないか」
「俺は彼女の相棒だからな。侵害されているととれば噛みつきもするさ。なにより共に歩む相手は好きあったもの同士であるべきだと思う」
ライゼン、なんだか妹に付きかけている悪い虫を追い払おうとしている感じでは?
私が驚いている間にも、二人は睨み合って譲らない。
うわ、アンソルスランってば、すげえ人の悪そうな顔になっているぞ⁉
「聞いたところ、行きずりの関係なのだろう。ほうっておいても良いだろうに。それとも別の理由があるのかの?」
途端、ライゼンの顔がこわばった。
殺気混じりの雰囲気が一気にしぼむ。なにか動揺する言葉があっただろうか。
激情を押し殺している風だったライゼンは、絞り出すように声を上げた。
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