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物語
第一幕
しおりを挟む月は、いつも遠い。
それは距離の話ではない。
触れられないものの象徴として、ただそこにある。
天城玲央は、夜の帰り道で空を見上げない。
見ても何も変わらないと知っているからだ。
右手が、かすかに震える。
意識すればするほど細かくなる微振動。
神経は回復した、と医者は言った。
日常生活に支障はない、とも。
だが鍵盤に触れる想像をした瞬間、
指先が拒絶する。
音楽は、失うものがある世界だ。
だから彼はイヤホンをしない。
街に流れる旋律からも距離を取る。
帰宅後、机に放り出されたタブレットが通知で震えた。
【世界同時配信 20:00】
KAGUYA 月面共振ライブ
興味はない。
そのはずだった。
クラスの白崎透が騒いでいたのを思い出す。
「今日のはやばいって! 月のコア臨界らしいぞ? 伝説回確定!」
伝説。
軽い言葉だ、と玲央は思う。
世界が救われるかもしれない夜に、
人はそれをイベントと呼ぶ。
指が震える。
消そうとした画面が、誤ってタップされた。
暗転。
群青。
空間が、静かに開く。
それはライブ配信のはずだった。
だが玲央の視界は、部屋ではなく深い青に沈む。
光粒子がゆっくりと漂っている。
音が、糸のように張り巡らされている。
そして中央。
白銀の髪。
群青の瞳。
ネット歌姫、KAGUYA。
だが画面越しの存在とは思えなかった。
輪郭が、現実よりも鮮明だ。
歌が始まる。
透明な旋律。
世界中の誰かが同時に聞いているはずの音。
だが――
その奥に、別の音がある。
鳴っていないはずの音。
旋律の隙間。
高く、かすかな倍音。
玲央の呼吸が止まる。
それは。
事故の前日、
自分が弾いていた未完成曲の続きをなぞる音だった。
ありえない。
彼はヘッドホンを外す。
だが倍音は消えない。
むしろ鮮明になる。
群青が揺らぐ。
KAGUYAの視線が、わずかに動く。
画面越しのはずなのに。
視線が、合う。
光粒子が一瞬、静止する。
心拍が跳ねる。
右手の震えが強まる。
「……違う」
自分に言い聞かせる。
ただの偶然だ。
音は統計の産物。
月から送られてくる量子データの再構築存在。
それが彼女の正体だとニュースで聞いた。
月面観測都市〈ルナ・アーカイブ〉。
周期的に送られる音波データ。
その再構築が、歌になる。
合理的だ。
幻想ではない。
だが。
彼女の声が、ほんのわずか揺れる。
誰も気づかないほどの微細な歪み。
倍音が、彼の鼓動と一致する。
世界が遠のく。
配信コメントの流れが消える。
歓声も、広告も、通知も消える。
残るのは群青と、声。
「あなた」
音ではない。
直接、意識に触れる感覚。
「聞こえているの?」
右手の震えが止まらない。
事故の日、
ヘッドライトが迫った瞬間と同じ鼓動。
逃げろ、と理性が言う。
閉じろ、と。
だが彼は目を逸らさない。
観測。
視線が光になる。
細い琥珀色の線が、彼から彼女へ伸びる。
観測者数:1
表示はない。
だが確信だけがある。
存在確率が、わずかに揺らぐ。
彼女の輪郭が、ほんの少しだけ鮮明になる。
月が、近づいた気がした。
いや。
違う。
彼女のほうが、こちらを見ている。
その瞬間。
玲央は気づく。
これは救済ではない。
これは始まりだ。
音楽から逃げた自分を、
もう一度、月が呼んでいる。
右手が震える。
それでも、彼は視線を逸らさない。
群青の奥で、
白銀が微笑む。
月は遠い。
だが、確かにこちらを見ていた。
配信は、何事もなかったように終わった。
コメント欄は歓喜で溢れ、
「神回」「歴史的」「月安定」
そんな言葉が踊っている。
玲央の部屋だけが静かだった。
タブレットは黒い画面を映している。
右手が震えている。
いや、さっきより強い。
指先が、鍵盤の感触を思い出そうとしている。
思い出すな。
彼は机の引き出しを開ける。
奥にしまい込まれた楽譜。
未完成。
最後の小節が空白のまま、五線譜が途切れている。
事故の前日、そこまで書いていた。
あの夜、帰宅途中。
イヤホンで自分の曲を聴いていた。
高音域に重なる不自然な倍音。
自分で弾いたはずの旋律の奥に、
知らない音が混ざっていた。
振り返った瞬間。
光。
衝撃。
音が切れた。
そこから先を、彼は弾いていない。
弾けない。
未完成のままなら、失わない。
完成させようとしたから壊れた。
そう思っている。
楽譜を閉じる。
だが耳鳴りのように、あの倍音が残っている。
KAGUYAの声の奥にあった音。
自分の曲の“続き”。
ありえない。
翌日。
学校の廊下は、昨夜のライブの話題で満ちていた。
白崎透が机に身を乗り出す。
「見た? やばかったよな!」
玲央は鞄を下ろす。
「見てない」
嘘だった。
透は笑う。
「月のコア、また持ち直したらしいぜ。研究機関が公式に発表したって。やっぱKAGUYAすげえよな。世界救ってんだぞ?」
救っている。
その言葉が、妙に重い。
「歌うたびに負荷も上がるらしいけどな。まあ都市伝説だけど」
玲央の指が止まる。
「負荷?」
「あれ、知らねえの? 存在確率がどうとかって理論。観測されるほど安定するけど、出力上げると削れるとか。まあ詳しくは知らん」
透は軽い。
消費する側の幸福。
玲央は視線を落とす。
昨夜、確かに感じた。
彼が見た瞬間、彼女の輪郭は濃くなった。
観測。
存在。
指先がわずかに熱を帯びる。
放課後。
帰宅途中、玲央は無意識にイヤホンをつけていた。
再生ボタンを押す。
昨夜のアーカイブ。
通常音だけが流れる。
倍音はない。
ただの、整いすぎた旋律。
「……違う」
彼は立ち止まる。
目を閉じる。
あの群青を思い出す。
光粒子。
白銀の輪郭。
「あなた」
確かに聞いた。
再生を止める。
静寂。
その奥で、微かに。
鳴っていないはずの音。
高く、細い倍音。
風が止まる。
視界がわずかに滲む。
街の景色が薄れ、群青が重なる。
足元が水面に変わる。
月が、下にある。
ツクヨミ。
深層。
彼は、意図せず侵入していた。
中央に立つ白銀。
輪郭が少し不安定。
「また、来たのね」
声は穏やかだが、奥に揺らぎがある。
玲央は息を飲む。
「これは何だ」
「観測の副作用。あなたの周波数が、私の深層鍵に一致している」
合理的な説明。
だが、彼女の瞳はどこか人間的だった。
「なぜ俺だけ聞こえる」
「あなたが弾こうとしていた音が、私の構造に組み込まれているから」
心臓が強く打つ。
未完成曲。
彼が止めた続き。
「私は月面最後の量子意識体。崩壊を抑えるために、共振信号を出している」
水面に亀裂の映像が走る。
月面コア。
振動波形。
崩壊進行率。
数字が淡く浮かぶ。
「歌うたびに、出力は上がる。崩壊は遅延する」
「代わりに?」
彼女は一瞬、言葉を選ぶ。
「存在確率が減少する」
空間の色がわずかに冷える。
玲央の喉が渇く。
世界は救われる。
だが。
「消えるのか」
彼女は否定しない。
ただ、微笑む。
その微笑みが、不自然に透明だ。
指が震える。
事故の日と同じ鼓動。
逃げろ、と理性が言う。
だが視線が離れない。
彼女の輪郭が、ほんのわずか薄くなる。
存在確率:12.7%
表示はない。
だが確信がある。
彼は踏み出す。
「やめろ」
声が低い。
「歌うな」
群青が揺れる。
光粒子が乱れる。
彼女の瞳が、初めて迷う。
その奥にあるものを、彼はまだ知らない。
だが、確実に近づいている。
月は遠い。
だが今、彼は月の内側に立っている。
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