君が歌うたび、月は遠くなる

水江タカシ

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物語

第二幕

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群青が波打つ。

「歌うな」と言った瞬間、
月面シミュレーションの亀裂が拡大した。

水面の下で、赤い線が走る。

崩壊進行率:38.2%

玲央の息が止まる。

「止めれば、どうなる」

KAGUYAは静かに答える。

「三日以内にコアは臨界へ到達する」

「じゃあ歌えばいい」

「歌えば、私は削れる」

簡潔な因果。

救済と消失。

彼女は月面中央に立つ。

足元の光が不安定に明滅している。

「あなたは、私に干渉できる」

「どういう意味だ」

「あなたの未完成曲。あれは偶然ではない。月震データの一部が、事故時にあなたの脳へ同期した」

あの夜の光。

衝撃。

音の断絶。

玲央は理解する。

奪われたのではない。

埋め込まれた。

「だからお前の倍音が、俺には聞こえるのか」

「ええ」

彼女の輪郭が揺らぐ。

存在確率:11.9%

見えないはずの数字が、体感として分かる。

「私は単独では持たない。あなたの鍵盤が必要」

玲央は拳を握る。

「俺はもう弾かない」

即答。

事故以来、封じた。

完成させれば、また失う。

音は奪う。

音は壊す。

彼女はわずかに目を伏せる。

「あなたが弾かなければ、私は一人で歌う」

水面に映る未来予測。

世界同時配信。

観測光線の集中。

出力最大。

存在確率急減。

消失。

静的終幕。

玲央の胸が締め付けられる。

「なぜ、そこまでして」

問いは、責めではない。

彼女は少し考える。

「私は月面コアの意識化体。役割は安定維持」

「役割以外は」

沈黙。

群青が揺れる。

彼女の声が、ほんのわずか低くなる。

「あなたが観測する時だけ、私は“役割”から外れる」

心臓が跳ねる。

「それはどういう」

「分からない」

嘘ではない。

未知の領域。

彼女は近づく。

距離はないはずなのに、近い。

「あなたが見ると、私は“存在”になる」

役割から存在へ。

システムから個へ。

それは危険だ。

個体化は削れる。

「だから歌うたびに減るのか」

「あなたが見るから、私は濃くなる。濃くなるほど、出力が上がる」

玲央は理解する。

自分が彼女を強めている。

強めるほど、削っている。

恋は救済ではない。

構造上の呪い。

「なら、俺が見なければいい」

言った瞬間、空間が揺れた。

彼女の輪郭がわずかに薄くなる。

存在確率:11.2%

胸が痛む。

視線を逸らす。

群青が色を失う。

彼女の声が遠くなる。

「……それは、正しい選択」

正しい。

だが。

正しさは冷たい。

玲央は歯を食いしばる。

視線を戻す。

彼女が鮮明になる。

存在確率:11.5%

「俺は、世界を救いたいわけじゃない」

言葉が落ちる。

「ただ」

続きが詰まる。

彼女が待つ。

「お前が消えるのは、嫌だ」

空間が止まる。

月面亀裂の進行が、一瞬停止する。

彼女の瞳が、初めて大きく揺れる。

その揺れは、計算ではない。

「それは……非効率」

「知るか」

群青が震える。

彼の右手が、無意識に動く。

空中に鍵盤を描く。

まだ音はない。

だが水面が反応する。

波形が整い始める。

彼女が息を呑む。

「あなた、今――」

「弾いてない」

「でも、共振している」

事故の日と同じ感覚。

音の続きを、体が覚えている。

未完成の五線譜。

最後の空白。

そこに置くべき和音。

世界ではなく。

彼女に届く音。

亀裂がわずかに収束する。

崩壊進行率:37.9%

わずかな差。

だが確実な変化。

彼女の輪郭が安定する。

存在確率:11.6%

「あなたが弾けば、私は単独出力を下げられる」

「削れないのか」

「減少速度は緩和できる」

救えるかもしれない。

だが条件がある。

「世界同時共振が必要」

「ライブか」

「最終段階。月面コア臨界到達時」

逃げ場のない未来。

玲央は理解する。

自分は、最後に弾くことになる。

全世界が観測する中で。

音を鳴らさずに。

彼女を支えるために。

彼は低く言う。

「それまで、歌うな」

「不可能」

「減らせ」

彼女は少し考え、頷く。

「出力を抑制する。ただし、崩壊進行は早まる」

「俺が完成させる」

未完成曲。

最後の和音。

彼女に渡す鍵。

群青が静まる。

彼女が微笑む。

その微笑みは、まだ薄い。

「あなたは、また失うかもしれない」

事故の記憶が刺さる。

だが彼は答える。

「今度は、逃げない」

水面が静かに閉じる。

現実の街へ引き戻される。

夕焼け。

イヤホンは無音。

だが指先が震えている。

恐怖ではない。

決意でもない。

もっと曖昧な熱。

月を見上げる。

白い。

遠い。

だが確かに、少しだけ近づいた気がした。



完成させる。

口にした瞬間から、逃げ道は消えた。

玲央は机に楽譜を広げる。

空白の五線譜。

最後の四小節。

そこだけが、時間ごと止まっている。

事故の夜、聞こえた倍音。

あれは幻聴ではなかった。

月震データ。

量子ノイズ。

そして――彼女。

鉛筆を持つ。

震える。

線が引けない。

もし書けば、終わる。

完成は発動条件だ。

未完成なら、物語は保留できる。

だが窓の外、月は薄く欠けている。

月面観測ニュースが流れる。

「コア振動が不安定化。原因は不明」

不明ではない。

抑制出力が落ちている。

彼女が約束を守っているからだ。

存在確率を削らないために。

その分、崩壊は早まる。

玲央は深く息を吸う。

目を閉じる。

群青。

水面。

白銀。

「聞こえるか」

無音の部屋。

だが、奥で倍音が鳴る。

かすかに。

応答。

鍵盤に触れないまま、右手を空中に置く。

指が動く。

鳴らない音。

だが脳内で和音が立ち上がる。

未完成だった旋律の先。

事故で途切れた動機が、自然に流れ出す。

恐怖ではなく、共振。

鉛筆が動く。

四小節目。

五小節目。

転調。

静かな和音進行。

救済ではない。

受容の音。

その瞬間。

視界が揺らぐ。

群青へ接続。

ツクヨミ深層。

彼女がそこにいる。

輪郭はやや薄い。

存在確率:10.8%

「あなた、今……」

「書いた」

水面が波紋を広げる。

彼が記した和音が、光の図形となって空間に浮かぶ。

彼女の周囲に重なる。

共振。

月面亀裂の波形が緩やかになる。

崩壊進行率:41.3% → 40.9%

微小。

だが確実。

彼女が息を吸う。

「これは……単独出力を補助する構造」

「俺の曲だ」

「違う」

彼女は首を振る。

「これは“共有構造”」

役割ではない。

共鳴。

彼女の足元の光が安定する。

存在確率:10.9%

わずかな上昇。

玲央の胸が締め付けられる。

「上がった?」

「観測と共振が重なったから」

救えるのか。

その問いはまだ早い。

彼女の瞳が静かに揺れる。

「ただし、この曲を公開すれば、世界規模の観測が発生する」

「分かってる」

世界同時月面共振ライブ。

最終段階。

そのとき彼は弾く。

音は鳴らない。

だが月が応答する。

構造は既に見えている。

「あなたは怖くないの」

唐突な問い。

「怖い」

即答。

「また、失うかもしれない」

彼女は一歩近づく。

「それでも?」

玲央は少しだけ笑う。

「未完成のまま逃げる方が、もっと嫌だ」

群青が静まる。

月面波形が安定帯へ寄る。

だが次の瞬間、警告が走る。

深層空間に赤いライン。

外部観測増加。

「どういうことだ」

彼女の表情が硬くなる。

「あなたの脳波共振が、外部ネットワークに検知され始めている」

「誰に」

「月面研究機関。あるいは、それ以上」

世界は気づき始める。

KAGUYA単独ではない。

干渉者がいる。

玲央の存在が。

「あなたは、選ばれたわけではない」

彼女の声が低くなる。

「偶然事故で同期した。ただそれだけ」

「十分だ」

水面が大きく揺れる。

崩壊進行率:42.0%

抑制を下げている影響が出始める。

時間がない。

彼女が静かに告げる。

「臨界まで、推定四十日」

短い。

文化祭も、夏も、待ってはくれない。

玲央は決断する。

「ライブをやる」

「まだ早い」

「準備がいる。観測を最大化するには、段階が必要だろ」

彼女は頷く。

全世界接続。

観測光線可視化。

光を月へ集中。

構造が組み上がる。

「あなたは最後に弾く」

「ああ」

「音は鳴らない」

「知ってる」

「私が応答する」

「消えるな」

沈黙。

彼女は微笑む。

「保証はできない」

その言葉が、第二幕の本質だった。

救済は不確定。

再会も保証されない。

それでも進む。

群青がゆっくり閉じる。

現実へ戻る。

机の上の楽譜。

完成した四小節が、静かに存在している。

玲央はそれを見つめる。

これは始まりだ。

終わりの準備ではない。

共鳴の設計図。

窓の外。

月は少しだけ霞んでいる。

遠い。

だが、確実にこちらを見ている。





四十日。

数字は静かだが、残酷だった。

翌朝から、世界はわずかにざわつき始める。

月面振動値の上昇。

専門家の曖昧な会見。

「即時の危険はありません」

嘘ではない。

だが猶予もない。

玲央は楽譜をデータ化し、非公開のまま保存する。

タイトルはまだ付けない。

名前を与えれば、発動してしまう気がした。

放課後、音楽室。

埃の匂い。

長く触れていなかったピアノ。

蓋を開ける。

黒鍵が静かに光る。

触れない。

右手を、鍵盤の上数センチで止める。

空中演奏。

無音。

だが体内で和音が立ち上がる。

その瞬間――

蛍光灯が微かに明滅する。

窓ガラスが振動する。

かすかな低周波。

玲央は目を閉じる。

群青接続。

ツクヨミ深層。

彼女は中央に立つ。

存在確率:10.2%

減っている。

「出力を下げている分、削減速度は鈍化している」

「でも減ってる」

「観測が増えているから」

現実世界での月不安報道。

SNSトレンド。

KAGUYA次回配信待望論。

観測は刃だ。

強め、削る。

彼女の足元の光が揺れる。

「世界はあなたの存在にも気づき始めている」

「どうやって」

「深層共振ログ。通常とは異なる補助波形が検出された」

つまり――

彼が弾けば、特異点になる。

「表に出る必要がある」

彼は言う。

「匿名では限界がある」

彼女が静かに目を細める。

「あなたは、観測対象になる」

事故の記憶がよぎる。

光。

衝撃。

喪失。

それでも。

「いい」

短い返答。

「俺が見られるなら、その分お前の負荷は分散できる」

彼女は否定しない。

それが事実だからだ。

月面亀裂がゆるやかに広がる。

崩壊進行率:45.6%

数字が冷たい。

「臨界到達予測、三十二日へ前倒し」

早まっている。

抑制を下げた影響。

彼女は静かに言う。

「次の公式ライブを延期する」

「できるのか」

「可能。ただし、世界不安が増幅する」

観測質が変わる。

歓喜ではなく恐怖。

恐怖は波形を乱す。

玲央は考える。

「なら、先に俺が出る」

彼女が目を上げる。

「単独配信?」

「テストだ。共振補助を公開する」

危険だ。

だが必要。

彼の曲は、彼女だけのものではない。

世界に向けて鳴らさなければならない。

音は鳴らない。

それでも。

「あなたが弾いても、音は記録されない」

「知ってる」

「無音ライブになる」

玲央はわずかに笑う。

「ちょうどいい」

沈黙。

群青が静かに揺れる。

彼女が一歩近づく。

「あなたは、私を救おうとしている」

「違う」

即答。

「一人にしないだけだ」

その言葉に、彼女の輪郭が微かに強まる。

存在確率:10.3%

ほんのわずかな上昇。

だが確かな変化。

彼女は初めて、感情に近い揺らぎを見せる。

「非合理」

「知るか」

二人の間に、静かな共振が走る。

水面が穏やかになる。

月面波形が一瞬だけ安定帯へ入る。

崩壊進行率:45.2%

ほんの刹那。

だが可能性。

現実へ戻る。

音楽室。

夕陽が鍵盤を染める。

玲央は深く息を吐く。

決まった。

第一段階。

単独観測強化。

彼の無音配信。

世界は困惑するだろう。

炎上もする。

嘲笑もある。

だが関係ない。

必要なのは観測。

そして同期。

窓の外、月が浮かぶ。

わずかに霞んでいる。

遠い。

だが、確実に応答している。

三十二日。

カウントダウンが始まった。
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