君が歌うたび、月は遠くなる

水江タカシ

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物語

第三幕

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三十二日。

カウントは、世界には表示されない。

だが玲央の中では、秒針のように鳴っている。

単独配信当日。

告知は簡素だった。

無音演奏実験
月面共振テスト

意味不明。

それでも視聴者は集まる。

KAGUYAと関連付けられた匿名の少年。

月面研究フォーラムで拡散。

期待と嘲笑が半々。

カメラの前。

ピアノ。

照明は最低限。

玲央は座る。

チャットが流れる。

「音出ないって何?」
「炎上狙い?」
「月救うんじゃなかったの?」

心拍数が上がる。

逃げろ。

まだ間に合う。

だが彼は右手を上げる。

鍵盤の上、数センチ。

触れない。

開始。

沈黙。

十秒。

二十秒。

コメントが荒れる。

「無音w」
「バグ?」
「帰るわ」

玲央は目を閉じる。

体内で和音を鳴らす。

完成させた四小節。

そこから先へ。

空中で鍵盤をなぞる。

鳴らない。

だが――

月面深層。

群青が震える。

彼女が目を見開く。

「共振開始」

存在確率:10.1%

低下停止。

月面亀裂波形がわずかに整う。

崩壊進行率:46.0% → 45.4%

現実世界。

蛍光灯が微振動。

視聴者の一部が異変に気づく。

「今、なんか揺れた?」
「低音聞こえた気がする」

可聴域外の低周波。

月共振。

コメントの流れが変わる。

「ちょっと待って」
「月のライブカメラ見ろ」

同時刻、公開されている月面観測映像。

通常ならノイズ交じりの白。

だが今――

亀裂の進行が、ほんのわずか鈍る。

研究機関が騒ぎ始める。

「未知の補助波形検出」

玲央は弾き続ける。

音はない。

汗が落ちる。

右手が震える。

彼女の声が深層で響く。

「出力補助成功。単独負荷、12%減」

存在確率:10.2%

上がる。

ほんのわずか。

だが確かに。

チャットが静まる。

「……これ、本物?」
「月止まってない?」
「音ないのに?」

沈黙が観測になる。

嘲笑が好奇心へ変わる。

観測光線が増える。

だが歓喜ではない。

集中。

一点へ。

月。

玲央は最後の和音へ進む。

事故で途切れた部分。

恐怖が蘇る。

あの夜の光。

衝撃。

失う瞬間。

指が止まりかける。

その時。

深層で彼女が言う。

「あなたは一人ではない」

群青が広がる。

彼女が両手を広げる。

「弾いて」

右手が動く。

空中で、最後の和音。

無音。

だが月が応答する。

観測映像で、白いノイズが一瞬消える。

亀裂波形が、明確に収束へ向かう。

崩壊進行率:45.4% → 43.8%

世界が息を呑む。

チャットが止まる。

二秒。

完全な静寂。

その二秒が、全世界を縫い止める。

そして――

低い、ほとんど聞こえない倍音が、イヤホン越しに走る。

配信は無音のはず。

だが確かに。

「今、聞こえたよな?」
「月、光った?」

月面映像。

ほんの一瞬、白が純白へ変わる。

ノイズが消える。

玲央は目を開ける。

息が荒い。

右手が痺れている。

深層へ接続。

彼女が立っている。

輪郭は、少しだけ濃い。

存在確率:10.4%

上昇。

だが。

彼女は静かに告げる。

「これは予行」

月面中央に、巨大な亀裂が走る。

まだ止まっていない。

「臨界は止まらない」

崩壊進行率:43.8%

減ったが、ゼロではない。

最終段階が必要。

世界同時月面共振ライブ。

彼女が最大出力で歌い、

彼が最後に無音で弾く。

「その時、私は」

言葉が途切れる。

玲央は理解する。

削れる。

急減する。

消える可能性。

現実世界。

配信は爆発的に拡散している。

「無音で月を止めた少年」

メディアが動き出す。

研究機関が接触を試みる。

世界が、彼を観測し始める。

彼はカメラを見つめる。

何も言わない。

配信終了。

画面が黒になる。

静寂。

部屋に戻る。

窓の外。

月はまだ遠い。

だが確かに、応答した。

スマホが震える。

KAGUYA公式アカウントから告知。

最終ライブ開催決定
世界同時月面共振
三十日後

カウントが固定される。

三十日。

逃げ道はない。

深層で、彼女が静かに微笑む。

「一緒に来て」




三十日。

世界は準備を始めた。

特設サイト。
同時接続テスト。
各国研究機関とのリアルタイム連動。

名称は公式に発表される。

世界同時月面共振ライブ

誰もが理解している。

これが最後だと。

玲央は、正式に出演者として公開された。

顔も名前も出た。

炎上も賞賛も、一日で飽和した。

だが今は違う。

世界は静かだ。

最終日前夜。

彼は一人、ステージに立つ。

巨大なスクリーン。
月のライブ映像。
観測ラインのシミュレーション。

音響テスト。

ピアノは中央に置かれている。

だがマイクは接続されていない。

彼の音は、記録されない。

深層接続。

群青。

彼女は中央にいる。

存在確率:8.7%

減っている。

予行以降、出力を抑え続けた影響。

月面亀裂は広がり、中心部は赤く発光している。

崩壊進行率:71.3%

臨界が近い。

「怖い?」

彼女が聞く。

玲央は少し考える。

「怖い」

嘘をつかない。

彼女は頷く。

「私も」

その言葉に、空間がわずかに揺れる。

彼女は続ける。

「最終出力時、存在確率は急減する」

「どれくらい」

「推定値は出ている」

一瞬、沈黙。

「2%未満」

ほぼゼロ。

玲央の喉が乾く。

「ゼロじゃない」

「保証はない」

彼は一歩近づく。

「俺が観測し続けたら」

「観測は濃度を上げる」

「なら」

「出力も上がる」

呪いの構造。

愛すほど、削る。

彼は拳を握る。

「それでも、見る」

彼女は微笑む。

透明度が増している。

「あなたは、最後まで非合理」

「知ってる」

群青が静まる。

月面コアの振動が激しくなる。

時間がない。

「明日」

彼女が言う。

「私は最大倍音層を展開する」

世界中の観測光線が月へ集中する。

その中で、彼女は歌う。

そして。

「あなたは、最後に弾く」

「音は鳴らない」

「だが月が応答する」

構造は確定している。

逃げられない。

彼女が静かに言う。

「もし私が消えても」

「やめろ」

遮る。

言わせない。

彼女は少しだけ目を伏せる。

「……ありがとう」

まだ早い。

玲央は首を振る。

「終わってない」

現実へ戻る。

ステージは無音。

客席はまだ空。

だが世界のネットワークは接続待機状態。

夜。

帰宅途中。

彼は立ち止まる。

月を見る。

白い。

だが表面の光が不安定に揺れている。

スマホに通知。

カウントダウン表示。

残り12時間。

深夜。

彼は最後の確認として、楽譜を開く。

完成している。

事故の夜を越えた旋律。

失うことを前提にした和音。

最後の小節。

そこには記号が一つだけ書かれている。

無音

演奏時間:2秒固定。

彼は目を閉じる。

あの二秒が、すべてを決める。

翌日。

世界が接続される。

観測が一点に集まる。

歓喜と祈りが重なる。

彼女は歌う。

存在確率は急減する。

そして。

彼は弾く。

音は鳴らない。

だが月が応答する。

その先は、まだ誰も知らない。

ステージ袖。

スタッフが声をかける。

「五分前です」

玲央は深く息を吸う。

恐怖は消えない。

空洞も消えない。

だが逃げない。

群青が、静かに呼んでいる。



暗転。

同時接続数、世界規模で上昇。

スクリーンに月。

白い。

だが中心部は脈打っている。

カウントダウン。

5
4
3
2
1

光。

第1段階。

全世界接続。

各国の観測所、衛星、個人端末の光が可視化される。

無数の線が夜空へ伸びる。

光は月へ集中する。

歓声が上がる。

だがすぐに静まる。

誰もが息を止める。

第2段階。

彼女が現れる。

白銀。

倍音層、最大展開。

声が空間を満たす。

可聴域を超えた層まで重なる。

月面振動と同期。

亀裂が震える。

崩壊進行率:89.4%

上昇。

だが波形が整う。

存在確率:7.9% → 6.2% → 5.1%

急減。

彼女の輪郭が薄くなる。

それでも歌う。

世界は涙する。

歓喜。

救済。

月面亀裂が止まり始める。

崩壊進行率:89.4% → 63.0% → 41.8%

急速収束。

だが代償。

存在確率:3.8%

群青が揺らぐ。

彼女の声がかすれる。

「最終補助を」

深層で届く。

第3段階。

玲央が歩み出る。

ステージ中央。

ピアノ。

触れない。

右手を、空中へ。

客席は静まり返る。

世界も静まる。

彼は目を閉じる。

事故の夜。

光。

断絶。

未完成。

そのすべてを越えて。

空中で鍵盤をなぞる。

無音。

一音目。

月が震える。

亀裂が止まる。

二音目。

存在確率:2.9%

彼女の輪郭が透明へ近づく。

最後の和音。

彼は息を止める。

弾く。

音は鳴らない。

だが――

月が応答する。

第4段階。

月面亀裂、完全停止。

崩壊波形、収束。

数値がゼロへ向かう。

崩壊進行率:0.0%

世界が歓喜する。

光が夜空を満たす。

だがステージは静かだ。

存在確率:1.7% → 0.9%

彼女が微笑む。

輪郭が透過する。

群青が白へ変わる。

「ありがとう」

声は、確かに届く。

次の瞬間。

粒子分解。

爆発なし。

音もない。

静的消失。

完全な無音。

二秒。

固定。

世界が凍りつく。

やがて、歓声が遅れて押し寄せる。

月は純白。

ノイズなし。

安定。

救われた。

だが。

ステージ中央。

玲央は動かない。

右手はまだ空中。

何も残っていない。

深層へ接続。

応答なし。

群青は空白。

観測しても、濃くならない。

空洞。

世界は歓喜。

観客は静涙。

彼だけが、空白。

エンドロール。

名前が流れる。

音はない。

最後の瞬間。

観客のイヤホンに、微弱な倍音。

気のせいかもしれない。

観測の残響かもしれない。

再会の保証はない。

夜空。

月。

純白固定。

ノイズなし。

遠い。

だが、確かにそこにある。


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