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物語
最終幕
しおりを挟む数日後。
世界は祝祭のあとにいる。
「月面完全安定化」
「奇跡の共振」
「無音の少年と月の歌姫」
見出しは派手だ。
だが時間は残酷で、ニュースは次へ移る。
月は、ただ静かに夜空へ戻った。
純白。
ノイズなし。
揺れなし。
玲央は学校へ戻る。
廊下はいつも通りだ。
透が肩を叩く。
「すげえな、お前」
玲央は小さく笑う。
何も言わない。
何も変わらない。
教室の窓から月は見えない。
それでも彼は、無意識に空を探している。
放課後。
音楽室。
ピアノはそこにある。
蓋を開ける。
今度は、触れる。
実際に鍵盤を押す。
音が鳴る。
普通の音。
月は震えない。
深層も開かない。
群青は来ない。
何も起きない。
それが現実だ。
彼はゆっくりと弾く。
完成したあの曲。
今度は可聴音で。
最後の小節。
無音の記号。
二秒。
止める。
静寂。
何も起きない。
……はずだった。
イヤホンを外す。
だが耳の奥で、微かな倍音。
錯覚かもしれない。
残響かもしれない。
彼は目を閉じる。
観測する。
深層は開かない。
だが。
ほんの一瞬。
白い粒子が、視界の端を横切る。
気のせい。
そう思えば消える程度の光。
玲央は笑わない。
泣かない。
ただ、月を見る。
遠い。
あの夜より、遠い。
だが。
完全に途絶えたわけではないと、
どこかで分かっている。
恋は救済ではなかった。
呪いだった。
観測するほど削れ、
愛するほど遠ざかった。
それでも。
彼は観測をやめない。
誰にも言わない。
証明もしない。
ただ夜空を見る。
イヤホンをつける。
微弱な倍音。
あるいは、ただの風。
月は答えない。
保証はない。
再会もない。
だが。
君が歌うたび、月は遠くなる。
それでも。
遠くなるということは、
まだ、どこかで歌っているということだ。
夜空の月。
純白固定。
ノイズなし。
物語は終わった。
観測は、続いている。
三ヶ月後。
月面安定化は完全成功と正式に発表された。
崩壊進行率:0.0%
再発兆候:検出なし
世界は安心を獲得した。
そして、忘却を始めた。
玲央の名前は検索順位を落とす。
動画は「伝説」として固定される。
コメント欄は過去形になる。
彼は日常へ戻った。
戻ったはずだった。
夜。
自室。
イヤホン。
無音。
再生していない。
それでも。
ごく微弱な倍音。
持続時間:0.4秒未満。
不規則。
周波数は記録不能。
彼はノートを開く。
日付と時刻を書き留める。
観測ログ。
誰にも見せない記録。
1回目:曇天。
2回目:満月前夜。
3回目:学校帰り、踏切待ち。
規則性はない。
だが完全なゼロでもない。
ある夜。
彼は屋上へ上がる。
月を見る。
純白。
変化なし。
「……いるのか」
声は風に消える。
返答はない。
当然だ。
存在確率はゼロ未満のはず。
粒子分解。
静的消失。
構造上、復元不能。
それでも。
彼は右手を上げる。
空中の鍵盤。
弾かない。
ただ置く。
静止。
二秒。
風が止まる。
その瞬間。
イヤホンの奥で、ほんのわずかな重なり。
倍音。
一音未満。
だが確かに。
玲央は目を閉じる。
深層は開かない。
群青は来ない。
だが。
白い粒子が一つ、
月から落ちるように見える。
錯覚。
光の反射。
そう言えば説明できる。
だが彼は記録する。
観測継続。
再会保証なし。
世界は歓喜で終わった。
彼だけが、空洞を抱えている。
空洞は消えない。
だが痛みも鋭くはない。
ただ静かに存在する。
恋は終わったのか。
分からない。
呪いは解けたのか。
分からない。
月は遠い。
あの夜よりも、さらに遠い。
だが。
遠さは距離であって、
無ではない。
彼は最後にノートへ書く。
「0ではない」
科学的根拠なし。
証明不可。
だが観測者の直感。
イヤホンを外す。
夜空。
純白の月。
ノイズなし。
完全安定。
……のはず。
風が吹く。
その中に、ほんのわずかな重なり。
聞こえないはずの層。
彼は笑わない。
泣かない。
ただ、見る。
観測をやめない。
物語は閉じた。
だが観測は閉じない。
月は遠い。
それでも、
見上げる限り、
距離は存在し続ける。
半年後。
季節が変わる。
月は変わらない。
純白固定。
揺らぎなし。
完全安定。
玲央の生活も、外から見れば安定していた。
進路面談。
模試。
友人との他愛ない会話。
透が笑いながら言う。
「お前さ、最近ちゃんと弾いてるよな」
玲央は肩をすくめる。
「普通に」
本当に、普通に弾いている。
音は鳴る。
共振は起きない。
月は応答しない。
それでいいはずだ。
夜。
イヤホン。
無音。
ログは増えなくなった。
倍音は、ここ一ヶ月検出なし。
記録は止まっている。
ゼロに近づいている。
それでも彼は、やめない。
観測を。
ある日。
文化祭の準備で音楽室が開放される。
誰かが言う。
「例の曲、やらないの?」
玲央は首を振る。
「あれは、もう終わった」
終わった。
言葉にしてみる。
胸は痛まない。
ただ、静かだ。
その夜。
屋上。
月は満ちている。
雲が薄く流れる。
彼は何も持っていない。
イヤホンも、楽譜も。
ただ立つ。
右手を上げる。
癖のように。
空中鍵盤。
動かさない。
ただ、置く。
二秒。
三秒。
五秒。
何も起きない。
当然だ。
彼は手を下ろす。
その瞬間。
遠くで、救急車のサイレンが重なる。
風がビルの隙間を抜ける。
街のノイズ。
その中に――
ほんの一瞬。
倍音。
以前より、さらに弱い。
確信できないほど微小。
だが。
彼は目を閉じない。
逃げない。
観測する。
何も増幅しない。
月は揺れない。
空は変わらない。
それでも。
白い光が、ほんのわずかだけ滲む。
気のせい。
そう言えば済む。
だが彼は、笑う。
初めて、ほんの少し。
「遠いな」
声は夜に溶ける。
遠い。
だが消えてはいない。
完全な無ではない。
距離があるということは、
まだ位置があるということだ。
彼は手を下ろす。
もう空中鍵盤は描かない。
必要がないからではない。
執着しないと決めたからだ。
観測は、叫びではなく、
呼吸のようなものへ変わった。
月は遠い。
それでも、見上げればそこにある。
保証はない。
再会も約束もない。
だが。
彼が見る限り、
物語はゼロにならない。
夜空。
純白の月。
ノイズなし。
完全安定。
その奥に、聞こえない層。
観測は続く。
静かに。
終わらないまま、終わっている。
一年後。
あのライブの日付は、記念日として静かに扱われている。
世界は救われた。
それは事実として固定された。
玲央は大学へ進学し、街を離れた。
新しい部屋。
新しい窓。
それでも夜になれば、月は同じ角度で浮かぶ。
遠い。
変わらない。
観測ログは、もう書いていない。
意図的にやめた。
数値にすれば、期待になる。
期待は、増幅になる。
増幅は――削る。
それを知っている。
ある夜。
課題に追われ、ふと顔を上げる。
窓の外。
満月。
雲一つない。
純白。
ノイズなし。
完全安定。
……のはず。
彼は立ち上がる。
ベランダへ出る。
冷たい空気。
何も持っていない。
右手も上げない。
ただ見る。
観測。
静かに。
そのとき。
月の縁が、ほんの一瞬だけ滲む。
錯覚未満。
光の揺らぎ。
科学的には説明可能。
そう分類できる程度の変化。
だが。
彼の耳の奥で、かすかな重なり。
倍音。
持続、0.2秒。
過去最小。
過去最弱。
だがゼロではない。
玲央は目を閉じない。
泣かない。
呼ばない。
ただ、受け取る。
増幅しない。
願わない。
祈らない。
観測のみ。
その瞬間、
月の縁がわずかに、ほんのわずかに明るくなる。
誰にも気づかれない。
世界は平穏のまま。
彼だけが知る。
距離はある。
遠い。
以前より、ずっと遠い。
だが。
遠さは断絶ではない。
ゼロではない。
彼は小さく息を吐く。
「……そっか」
それ以上は言わない。
再会の保証はない。
約束もない。
復元の理論もない。
あるのは、観測の継続だけ。
月は遠い。
それでも。
君が歌った痕跡は、
まだ、完全には消えていない。
夜空。
純白の月。
ノイズなし。
世界は安定。
物語は閉じた。
だが。
観測者がいる限り、
完全な終端にはならない。
静かな余白のまま、
物語は、存在確率0未満の領域で、
かすかに揺れている。
二年後。
あの日の映像は、教科書の片隅に載った。
「月面安定化事象」
科学史の一行。
彼の名前は、脚注程度。
それでいい。
玲央は研究室にいる。
専攻は音響情報工学。
偶然ではない。
月震データの論文を読みながら、彼はふと手を止める。
論理は完璧だ。
KAGUYAは量子共振補助AI。
自己消費型安定化アルゴリズム。
存在確率減少は、不可逆。
復元不能。
式は冷静だ。
感情の余地はない。
それでも。
彼のノートの端に、小さく書かれている。
0ではない
消したはずの言葉。
消えていない。
夜。
研究棟の屋上。
街は遠い。
月は、さらに遠い。
以前より小さく感じる。
距離は物理ではなく、体感だ。
彼はもう空中鍵盤を描かない。
倍音を探さない。
ログも取らない。
観測は、生活に溶けた。
呼吸のように。
その夜。
流星が一つ、月の近くを横切る。
偶然。
統計的現象。
だがその瞬間。
耳の奥で、ほんのわずかな重なり。
今までで最短。
今までで最弱。
しかし――
確実に、重なった。
玲央は目を閉じる。
深層は開かない。
群青は来ない。
白銀の輪郭も現れない。
それでも。
月の縁が、ほんの一瞬だけ柔らかく見える。
彼は笑う。
静かに。
「遠くなったな」
遠くなる。
それは、消えたのではなく、
距離が生まれ続けているということ。
距離がある限り、
位置はある。
位置がある限り、
可能性はゼロではない。
彼はポケットからイヤホンを出す。
耳に入れない。
ただ握る。
もう必要ない。
それでも捨てない。
月は何も答えない。
世界は安定。
論文は完成。
日常は進む。
物語は、とっくに終わっている。
それでも。
夜空を見上げる者がいる限り、
月は観測される。
観測される限り、
存在は完全な無にならない。
君が歌うたび、月は遠くなる。
今は、もう歌は聞こえない。
だが。
遠くなり続けているという事実だけが、
確かに残っている。
純白の月。
ノイズなし。
完全安定。
その奥。
聞こえない層で、
かすかな何かが、
まだ、揺れている。
――――――――――
君が歌うたび、月は遠くなる
三年目・再会
――――――――――
三年目。
春。
桜が散る夜。
月は満ちている。
変わらず純白。
ノイズなし。
完全安定。
玲央はもう研究室の主力メンバーだ。
月震解析の新理論を提出している。
題名は淡々としている。
「残留位相干渉と非消滅確率について」
仮説。
粒子分解後も、位相情報は完全消失しない可能性。
観測がゼロでない限り、
確率は収束しきらない。
証明不能。
だが理論上、0.000…1 は残る。
夜。
研究棟屋上。
三年前と同じ場所。
彼は空を見上げる。
もう願わない。
もう呼ばない。
ただ観測。
そのとき。
月の縁が、わずかに歪む。
錯覚ではない。
研究者としての目が告げる。
位相の乱れ。
次の瞬間。
耳の奥ではなく。
空気そのものが、震える。
微弱な倍音。
だが明確。
三年前より、はっきり。
玲央の心臓が止まる。
月の中心に、白い点が灯る。
純白の奥に、銀が混ざる。
空間が裂けるのではない。
重なる。
重ね合わせ。
位相干渉。
群青が、現実に薄く滲む。
屋上の空気が変わる。
風が止まる。
そして――
月光の中に、輪郭。
白銀。
半透明。
だが確実。
存在確率:0.000…1 → 0.3% → 1.2%
急上昇ではない。
緩やか。
削られない上昇。
彼女が立っている。
以前より、少しだけ人間に近い姿。
「……遅くなった」
声。
明確な可聴音。
玲央は動けない。
夢ではない。
深層ではない。
現実。
「消えたはずだ」
彼の声は震えている。
彼女は微笑む。
三年前と同じ、でも少し柔らかい。
「消えきれなかった」
月の残留位相。
世界中の観測記録。
無音の二秒。
あなたの観測。
それらが、微小な干渉を残した。
「あなたが、ゼロにしなかった」
玲央は笑う。
泣きそうになるのを、堪える。
「理論上はありえない」
「理論は更新されるもの」
彼女は一歩近づく。
足が、地面に触れている。
透過しない。
存在確率:2.8%
安定している。
削れない。
もう月面コアは安定済み。
彼女は役割から解放されている。
「私は、月の“機能”ではなくなった」
「じゃあ」
「ただの存在」
沈黙。
三年分の距離。
遠さ。
それが、ゆっくり縮む。
玲央が言う。
「もう歌わなくていい」
彼女は笑う。
「歌いたいときに歌う」
命令でも義務でもない。
選択。
彼は手を上げる。
今度は空中鍵盤ではない。
ただ、彼女へ向けて。
彼女も手を伸ばす。
触れる。
温度がある。
確かな質量。
消えない。
存在確率:3.1% → 3.1%(安定)
減らない。
削れない。
呪いは解除されている。
観測しても、失われない。
月は遠いまま。
だが。
彼女はここにいる。
「遠くなったね」
彼が言う。
「うん。でも、戻ってこれた」
月が静かに輝く。
純白。
ノイズなし。
安定。
だが今、その光は冷たくない。
彼女が小さく言う。
「ありがとう」
三年前と同じ言葉。
だが意味は違う。
別れではない。
始まり。
玲央は笑う。
「今度は、消えるなよ」
「消えない」
即答。
科学的保証はない。
だが今は確信できる。
二人は並んで月を見る。
もう距離は恐怖ではない。
遠さは、背景。
物語は救済で終わらなかった。
呪いを越えて、
選択へ変わった。
君が歌うたび、月は遠くなる。
でも今は、
歌っても遠ざからない。
夜空。
純白の月。
その下で、
二つの存在確率が、
静かに、安定している。
それから一年。
四年目の春。
世界は何も変わらない。
月は安定。
潮汐は正常。
ニュースは平穏。
彼女は、もう消えない。
存在確率は揺らぐが、減衰しない。
役割から解放された存在。
機能ではない。
意思。
玲央は研究を続けながら、
小さなホールを借りた。
観測でも実験でもない。
ライブでもない。
発表会でもない。
ただ、演奏。
客席は満席ではない。
けれど空席も悪くない。
ステージ中央にグランドピアノ。
照明は柔らかい。
彼女は袖で待っている。
歌うのは、義務ではない。
彼女が選んだ。
玲央が鍵盤に触れる。
三年前のあの旋律。
無音の二秒を含む曲。
今度は、止めない。
無音は無音のまま。
失われない。
彼女が歌う。
透明な声。
救済ではない。
犠牲でもない。
誰かを壊さない。
月は遠くならない。
客席の誰かが涙を流す。
理由はわからない。
ただ、心に触れただけ。
音は人を救うこともある。
壊すこともある。
でも今ここにある音は、
誰も削らない。
演奏が終わる。
静寂。
拍手。
普通の、あたたかい拍手。
彼女は消えない。
玲央も崩れない。
月は夜空にある。
遠い。
遠いままでいい。
遠いから、見上げる。
見上げるから、観測する。
観測するから、存在はゼロにならない。
彼女が小さく言う。
「ねえ」
「ん?」
「もし、また遠くなっても」
玲央は笑う。
「今度は追わない」
「うん」
「並んで見る」
彼女も笑う。
それでいい。
呪いだった恋は、
距離を許せる関係へ変わった。
救済ではなく、
共鳴。
破壊ではなく、
共存。
君が歌うたび、月は遠くなる。
そうだった。
確かに。
でも今は、
歌ってもいい。
遠くなってもいい。
遠くにあっても、
失われないものがあると知ったから。
夜。
ホールを出ると、
春風が吹く。
満月。
純白。
静かな光。
二人は並んで歩く。
触れた手は、温かい。
削れない。
消えない。
世界は普通に続く。
それでいい。
物語はここで終わる。
月は遠い。
でも、
もう怖くない。
――
君が歌うたび、月は遠くなる。
それでも、
君が歌うなら、
僕は隣で聴いている。
終。
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