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物語
後日談のようなもの
しおりを挟む朝の光は、奇跡を主張しない。
カーテンの隙間から差し込む春の光は、ただ静かに床を撫で、白い壁に反射し、キッチンのステンレスに淡い線を引くだけだ。
玲央は目を覚ます。
最初にすることは、空を見ることでも、位相を測ることでもない。
隣を見ること。
彼女は、いる。
寝息は規則的で、呼吸は人間と同じリズム。胸がゆっくり上下している。透過もしない。揺らぎもしない。
存在確率という言葉は、もう日常会話から消えた。
それでも彼の中では、時折思い出す。
0.000…1 から始まった再会。
いまは測らない。
測る必要がない。
彼女が寝返りを打つ。
まぶたが開く。
「おはよう」
声は少し掠れている。完全に生身の声だ。
玲央は笑う。
「おはよう」
それだけで十分だった。
奇跡は、こうして何も起こらない朝に溶けていく。
キッチンでコーヒーが湯気を立てる。
彼女はパンを焼くのが好きだ。科学的手順ではなく、感覚で焼く。焦げ目の境界を「音」で判断する癖は抜けないらしい。
「いま“ミ”だった」
トースターの中を覗きながら彼女が言う。
「パンに音階あるのかよ」
「あるよ。水分量で変わる」
そんなやりとりが、もう三年続いている。
月は昨夜、満ちていた。
今日は半分欠け始めている。
だが彼女は消えない。
満ち欠けと存在は、もう連動していない。
呪いは解除されたのではなく、構造が書き換えられた。
“遠くなる”という現象は、物理距離へと還元された。
感情と連動しない。
歌っても削れない。
観測しても減衰しない。
玲央は研究室に行く準備をする。
いま彼は、月震ではなく「共鳴心理学」を研究している。音が人の神経活動に与える安定効果の解析だ。
破壊ではなく、安定。
世界を壊さない音。
彼女は、近所の小さな音楽教室で週に数回歌を教えている。
プロでもアイドルでもない。
ただ、好きで歌う。
「今日、子どもたちと“無音”やるんだ」
「無音?」
「あの二秒。覚えてる?」
覚えている。
世界を止めた二秒。
誰も知らない、けれど確かに存在した空白。
「今は怖くないよ」
彼女は笑う。
「あのときは、消えそうだった。でも今は、ただの“間”。」
間。
音と音のあいだ。
存在と存在のあいだ。
距離。
距離があっても、失われないと知ったから。
二人は一緒に家を出る。
春の空気は柔らかい。
マンションの前の公園では、子どもがボールを蹴っている。
何も特別ではない風景。
だが玲央は時折、思う。
この日常が、どれだけ精密な偶然の積み重ねか。
月面安定化事象。
量子位相干渉。
残留観測効果。
世界中の望遠鏡。
そして、彼の観測。
けれど今、それらは背景だ。
前景にあるのは、彼女の歩幅。
並んで歩ける速度。
横断歩道で立ち止まる瞬間の、指先の接触。
「ねえ」
彼女が言う。
「今夜、歌っていい?」
「毎日歌ってるだろ」
「ううん。ちゃんと、あなたのために。」
玲央は一瞬だけ、昔の自分を思い出す。
歌は呪いだった。
救済であり、破壊だった。
だが今は違う。
「いいよ」
即答。
恐れはない。
削られないと知っているから。
昼。
研究室の窓から月は見えない。
青空だけが広がる。
彼は論文に目を落とす。
タイトルはこうだ。
『非犠牲型共鳴モデルの提案』
音は、何も奪わなくても響く。
証明は難しい。
だが彼は知っている。
それは、もう実証済みだと。
夕方。
音楽教室。
小さな部屋に子どもたちの声が響く。
彼女はピアノの前に座る。
鍵盤に触れる。
三年前の旋律を、少しだけ変えて。
無音の二秒を入れる。
子どもたちは最初、戸惑う。
「先生、止まった?」
彼女は微笑む。
「止まってないよ。ここ、大事な時間。」
静寂。
そして、次の音。
子どもたちが笑う。
怖くない。
空白は恐怖ではない。
呼吸だ。
夜。
二人はベランダに出る。
月は半月。
遠い。
遠いままでいい。
彼女が歌う。
小さく。
世界を揺らさない音量で。
玲央は隣で聴く。
観測しているわけではない。
分析もしない。
ただ、聴く。
歌は終わる。
月は遠い。
彼女はここにいる。
削れない。
消えない。
「どう?」
「最高」
それ以上の言葉はいらない。
奇跡は、特別な瞬間ではなくなった。
重力のように、常にそこにあるものになった。
やわらかな重力。
引き合い、しかし縛らない。
夜風が吹く。
カーテンが揺れる。
彼女が言う。
「幸せってさ、静かなんだね」
玲央はうなずく。
「たぶん、安定してるってことだ」
月は輝いている。
遠い。
でも、怖くない。
夏が来る。
強い日差しの下では、月のことを忘れやすい。
空は青く、昼の重力は現実的だ。
洗濯物はよく乾き、アイスはすぐ溶ける。
奇跡よりも、気温のほうが支配的な季節。
玲央は大学で講義を持ち始めていた。
非常勤。
テーマは「音と共鳴の倫理」。
学生たちは半信半疑で聞いている。
音に倫理があるのか、と。
玲央は板書する。
“共鳴 ≠ 支配”
“共鳴 = 相互変化”
かつて彼は、音に呑まれた。
かつて彼女は、音で削れた。
だが今は違う。
「音は強い。だからこそ、奪わない設計が必要だ」
学生の一人が手を挙げる。
「奪わないって、具体的にどうやって証明するんですか?」
玲央は少しだけ考え、答える。
「長期観測で“減っていない”ことを確認する」
教室に小さなざわめき。
曖昧なようで、明確な基準。
減らない。
削られない。
存在確率が下がらない。
それが幸福の条件だと、彼は知っている。
同じ頃。
彼女は商店街の夏祭りの準備を手伝っていた。
音楽教室の子どもたちと、ステージを作る。
大きな舞台ではない。
仮設の木組み。
提灯が並ぶ。
スピーカーは少し古い。
「先生、緊張する?」
小学生の少女が聞く。
彼女は笑う。
「ううん。今日は消えないから。」
少女は意味がわからず首をかしげる。
それでいい。
物語は次の世代に引き継がれなくていい。
神話化されなくていい。
夜。
夏祭り。
屋台の匂い。
笑い声。
遠くで花火が上がる。
月は少し霞んでいる。
湿度のせいだ。
彼女はステージに立つ。
隣には子どもたち。
玲央は客席の後方にいる。
観測者ではない。
ただの聴衆。
曲は、あの旋律を明るく編曲したもの。
無音の二秒も、もちろんある。
しかし今夜の無音は、恐怖の残響を持たない。
ざわめきの中の静けさ。
花火の合間の暗さ。
自然な間。
歌が始まる。
彼女の声は、夜に溶ける。
強くない。
支配的でない。
押しつけない。
ただ、そこにある。
子どもたちの声が重なる。
未完成で、不揃いで、それでも真っ直ぐ。
玲央は気づく。
あの頃の共鳴は、世界規模だった。
月面コア。
量子干渉。
人類全体。
だが今は違う。
半径数十メートルの共鳴。
しかし密度は高い。
誰も削れていない。
誰も壊れていない。
それが、完成形だ。
無音の二秒。
祭りの喧騒の中で、不思議と静まる。
子どもたちが息を止める。
観客も、なぜか黙る。
そして次の音。
拍手。
歓声。
花火が夜を裂く。
月は遠い。
けれど確かに、そこにある。
ステージを降りた彼女は、汗を拭きながら玲央のもとへ来る。
「どうだった?」
「完璧」
「世界、壊れなかった?」
「びくともしてない」
彼女は笑う。
その笑顔は、もう透明ではない。
血の通った、確かな人間の笑み。
帰り道。
提灯の灯りが揺れる。
人混みを抜けると、急に静かになる。
二人は並んで歩く。
「ねえ」
彼女が言う。
「もし、あのとき消えきってたらさ」
玲央はすぐに遮る。
「仮定は不要」
「うん。でも思うの。」
彼女は空を見る。
霞んだ月。
「戻ってこれたのって、奇跡っていうより、選択の積み重ねだったのかも。」
観測。
拒絶しなかったこと。
ゼロにしなかったこと。
あきらめなかったこと。
それらが、微小な確率を繋いだ。
玲央はうなずく。
「奇跡は、確率が収束しきらなかった結果だ」
「ロマンない」
「あるだろ。0じゃなかったんだぞ」
彼女は笑い、彼の腕に軽く触れる。
温度。
確かな体温。
夏の夜風が通り抜ける。
世界は安定している。
月も、二人も。
遠いものは遠いまま。
近いものは、ちゃんと近い。
それでいい。
家に帰ると、エアコンの音が静かに鳴る。
彼女は冷蔵庫から麦茶を出す。
「明日も歌う?」
玲央が聞く。
「うん。毎日。」
「削れない?」
「削れない。」
即答。
迷いなし。
彼は思う。
幸福とは、揺らがないことではない。
揺れても、減らないこと。
月は満ち欠けする。
でも消えない。
彼女も、歌も、愛も。
光の届く範囲で、十分だ。
窓の外で、最後の花火が上がる。
一瞬、夜が昼のように明るくなる。
その光の中で、彼女の横顔が照らされる。
確かな輪郭。
消えない存在。
玲央は静かに息を吐く。
世界は、もう守る対象ではない。
共にあるものだ。
秋は、音が澄む。
空気が薄くなり、遠くの踏切の音まで届く。
月は高く、くっきりと浮かぶ。
遠い。
けれど、その遠さはもう痛みを伴わない。
玲央は研究室の窓を開ける。
夜気が入る。
机の上には、一冊の楽譜。
表紙には何も書いていない。
中身は、あの旋律をもとにした新しい組曲。
タイトルだけが、最後のページにある。
『遠心安定』
引き離す力と、保とうとする力。
どちらか一方ではなく、両方があるから軌道は保たれる。
恋も同じだと、彼はやっと理解した。
彼女はリビングで、静かに歌っている。
派手ではない旋律。
子どもたちが作ったメロディをつなぎ合わせたもの。
未完成で、温かい。
「ねえ」
彼女が声をかける。
「来年さ、小さなコンサートやろうか」
「どこで?」
「月がきれいに見えるところ」
玲央は少し考える。
大きな会場ではなくていい。
世界同時共振もいらない。
「屋上で十分だ」
「うん、それがいい」
二人は笑う。
未来の話をしても、存在確率は揺らがない。
それが、何よりの証明。
夜。
ベランダに出る。
月は満ちている。
三年前、世界を揺らしたあの満月と同じ形。
でも意味は違う。
彼女は月を見上げる。
「遠いね」
「遠いな」
同じ言葉。
けれど今は、確認ではなく共有。
距離は敵ではない。
距離があるから、光は届く。
彼女が手を伸ばす。
月には届かない。
代わりに、玲央の手を掴む。
「これでいい」
彼女が言う。
「月は遠くて、あなたは隣」
完璧な配置だ、と。
玲央はうなずく。
昔は、月に近づこうとした。
手を伸ばし、観測し、追い、削れた。
今は違う。
月は空に任せる。
彼女は隣にいる。
それだけで、軌道は安定する。
彼女が静かに歌い出す。
あの最初の旋律。
救済でも、呪いでもない。
ただの歌。
玲央は目を閉じる。
倍音を探さない。
解析しない。
ただ、聴く。
無音の二秒。
風が止まる。
しかし何も消えない。
二人とも、ここにいる。
次の音。
やわらかい。
温かい。
満月の光が二人を包む。
世界は壊れない。
月は遠い。
けれど、遠いまま光をくれる。
彼女が歌い終わる。
静寂。
そして、小さな笑い。
「ねえ」
「ん?」
「幸せってさ、増えも減りもしないんじゃなくて、満ち続ける感じだね」
玲央は考える。
満ちる。
しかし溢れない。
削られない。
「たぶん、重力みたいなもんだ」
「また理系」
「でも本当だ。見えないけど、確実に引き合ってる」
彼女は肩を寄せる。
体温が伝わる。
確かな質量。
存在は安定している。
月がゆっくりと天頂を越える。
時間は進む。
物語は、もう事件を必要としない。
幸福は、ドラマを求めない。
ただ、続いていく。
遠い月。
近い手。
澄んだ空気。
歌。
呼吸。
鼓動。
すべてが、過不足なく配置されている。
君が歌うたび、月は遠くなる。
そうだった。
でも今は、少し違う。
君が歌うたび、
月は遠いまま輝く。
遠いまま、いい。
届かなくていい。
届かないものがあるから、
隣にいるものの温度がわかる。
彼女が最後に言う。
「これからも歌うよ」
玲央は答える。
「これからも聴く」
それだけで、十分だ。
満月の下。
二つの存在は、削れず、揺らぎながらも安定している。
世界は静かに回り続ける。
遠く、近く、満ちて。
物語は、幸福のまま閉じる。
――完。
どうも、水江タカシです。
ここまで読んで下さり、ありがとうございます。
後日談も欲しいなと思って書いてみました。
ちょっと微妙になってしまいましたが、書き終えましたので良いことにして下さい!
書いていくとバッドエンドで終わるルートばかりになりそうで悩んだ末、このような形で収めました。
『超かぐや姫!』も最後はハッピーエンドでしたから、それに合わせるために少し無理矢理感はありますが、自己満足してます笑笑
正直、もっと時間をかけてこの作品を長編で書けばよかったかなと思ってます。
完結させたこと、満足したせいなのか、長編を書ける気がしないんですよね。
一応、男性向けファンタジー小説も書いてますので、少しみていただけたら幸いです。
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