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梓は唇を噛みしめる。
覚悟を決めたつもりだったのに、予想以上の喪失感で、胸に穴が開いたように感じる。
――家に帰る前に、顔をなんとかしなきゃ。もう終わり。もうこれで忘れるの。千博さんを、私の家の事情には巻き込めない……私から去っていく千博さんを……見たくない……
こうしてちっぽけな女の短い恋は終わった。
生活の余裕などなかったのに、本気で恋をしてしまった。それが梓の犯した過ちだった。
その後、千博から何度連絡があっても、一度も返事はしなかった。それが梓の、唯一の意思表示だ。
やがて千博からの連絡は途絶え、梓にも『新しい人生』が始まった……
第一章
「ママ!」
「家の中では走っちゃダメ」
梓の小言に、娘の百花がピタリと足を止めた。
娘の百花は今年六歳。
弟の正人や祖父母からは「モモ」と呼ばれて可愛がられている。
名前は父親の千博から一文字もらって……と言いたいところだが、別れたまま連絡も取っていない相手なので、千ではなく、百にした。
梓が付けた名前は、百花。鈴木百花、だ。
平凡な名字と少し変わった名前の組み合わせを、梓は気に入っている。
――大きくなったなぁ。なんだかしみじみしちゃう。
去年買った長袖のトレーナーが、ちょっと短くなっていた。
せっかく可愛いのに、いつも安物の服ばかりで申し訳ないと思いつつ、梓は百花の頭を撫でる。
妊娠がわかったときは、祖父母も弟も絶句していた。もちろん梓もだ。避妊はしてもらったのにどうして、と悩んだ。そして、中絶するしかないと思った。
だが、ちょうどその頃奇跡的に、祖父の会社に新しい大口取引の話が入ったのである。
祖父の会社は昔ながらの小さな町工場で、『鈴木製作所』という。
企業からオーダーを受け『型』を作る製作所だ。
例えば車のエアコンの温度調節つまみや、スマートフォンの背中部分の板。
祖父は製品のパーツの中でも、制作するのが難しい型作成、いわゆる『腕のいい職人さんにしかできない仕事』を引き受けていた。
梓の母が亡くなった頃は、不況のせいもあり経営状態がよろしくない時期が続き……そこに孫二人が転がり込んだのだから、更に大変になった。
しかし百花がお腹にやってきた頃から、新しい仕事が増え出して、状況が上向いた。
相変わらず苦しい生活だったが、三食ちゃんと食べられて、週に一度は外食もできるほどになったのだ。
『神様がその子を育てろって仰っているんだろうな。そうとしか思えない』
祖父は言い、祖母と弟も同意してくれた。
とくに十三歳の弟、正人が強く後押ししてくれたのだ。
『俺がもっと姉さんを手伝うから。赤ちゃんも俺が学校から帰ってきたら面倒見る』
どうやら正人は、正人なりに悩んでいたらしい。
両親を亡くしたせいで苦労している姉の姿に、辛い思いをしていたのだと思う。
それに多分、梓に秘密の恋人がいて、その相手をとても好きだったことも、正人は気付いていたのだろう。姉が、心の中では赤ちゃんを産んで育てたいと思っていることも。
頑として父親の名を口にしない梓に、正人は『無理に言わなくてもいいよ』と告げた。
そして、『俺は、これ以上姉さんが辛い思いをするのは嫌なだけ』と言ってくれたのだ。
皆にたくさん助けられ、迷った末に子供を産むことにした。
梓はもう、誰とも結婚しないと決めている。
千博と別れた後は、異性に興味がなくなってしまったからだ。テレビで格好いい芸能人を見てもなにも感じない。心に穴が開く程度には、千博が好きだった。
――お医者さんは、きちんと避妊具を使っても、稀に赤ちゃんができることがあるって言ってた。多分、この子、絶対生まれたい理由があるんだろうな。この世界でやりたいことがあるんだ。
そして、月満ちて、百花は元気に生まれた。
千博に迷惑をかけてしまうから、父親が誰なのかは口が裂けても言わない。だから勝手に育てることだけは許してほしい。そう思いながら、梓は百花のママとしての人生を始めた。
シングルマザーになったことを批判する人もいたが、応援してくれる人もいた。
祖父母も正人も、近所の人も、百花を可愛いと言ってくれる。
だから、『家族とモモが平和なら充分だ』と思い、不愉快な言葉は受け流して生きている。
もちろん傷つくこともあったし、ご近所の悪口おばさんには『男遊びが激しいんだろう』なんて言いがかりを付けられていて、うんざりすることもある。
だが、それは仕方ないのだ。無責任と批判されても、笑って流すしかない。
産んだのは梓の勝手だ。百花の人生はもう始まっている。
梓にできることは、百花をいい子に育てることだけだからだ。
「いつも言ってるでしょう? 上のお家に響いちゃうから、ドタバタしちゃダメよ」
このアパートは築四十年を超えている。
百花が生まれる前から住んでいた手狭な室内は、今や百花と正人と梓の持ち物でいっぱいだ。
引っ越したいのはやまやまなのだが、祖父母の家から離れてしまうと思うとなかなか踏み切れない。
「わかった! ごめんねママ、静かに歩く!」
百花が大きな目でウインクしてくれた。
親馬鹿かもしれないが、百花は相当な美人だと思う。
さらさらの黒い髪はおかっぱで、黒目がちな大きな目は長いまつげに縁取られている。
色白で愛らしく整った顔は、お人形のようだ。
梓には若干似ている気がするのだが、千博にはまったく似ていない。
お陰で、父親が誰なのか、誰にも知られていない。塾で千博に勉強を習っていた正人ですら気付いていない。
それに百花は、ママの梓もびっくりするほど気立てがいい。
赤ちゃんの頃から手が掛からなすぎて、保健師さんに『片親だから、私が苦労してると思って気を遣っているんでしょうか』と相談し、笑われたことさえあるくらいだ。
「ママ、アイス食べていい?」
古びた冷蔵庫を開けながら百花が言う。なるほど、珍しく家にアイスがあるから興奮していたのか、と思いつつ、梓は笑顔で頷いた。
「一本だけよ。正人にも取っといてあげて」
「はーい!」
百花が冷凍庫のドアをちゃんと閉めたことを確かめ、梓はふたたびノートパソコンに向き直り、仕事の資料に目を落とす。
――『すーじぃ』、意外と売れてるなぁ……
祖父がご近所の『凄腕だけど零細企業』の職人さんたちと組んで作った玩具『すーじぃ』の売り上げを見つつ、梓は腕を組む。
思えば、百花が生まれてから、祖父の会社はもう駄目だという局面をギリギリで回避してきた。
祖母が『モモちゃんがラッキーを運んできてくれるのよ。やった、今年も生き延びた!』なんて言うくらいに。
今回のすーじぃの件もそうだ。
すーじぃは、『俺らもそろそろ引退だから』が口癖のご近所さんが、謎の本気を結集して作った、電卓……のようなものである。
見た目は透明。この透明がすごい。樹脂なのにクリスタルガラス並みの透明度だ。透明な氷の中に、数字や文字だけが浮かんでいるように見える。使われているフォントも樹脂も特殊液晶も、祖父や友達のご近所のじい様たちが開発した品物だ。
ちなみに、すーじぃのパーツの型加工を担当したのが祖父である。
すーじぃが完成したとき、祖父と仕事仲間は高価な日本酒を開けつつ『こんなに透明なまま成型できたのはすごいな!』『いや液晶が見えやすいよ!』『この樹脂は光の透過率が高い』などと、マニアックに熱く讃え合っていた。
多分、すーじぃを作るのが楽しかったのだろう。
――おじいちゃんたち、すごいよなぁ。すごいけど、使い道があまりないのがもったいないかも。
そう思い、梓は一人微笑んでしまった。
祖父やその仲間たちは、すごい技術を持っている。普段は怖い顔のおじい様たちなのに、こんな遊び心も忘れていないのだ。
「ママ、すーじぃかして」
アイスをあっという間に食べ終わった百花が、梓の横にちょこんと腰掛けた。
小さな手でちゃぶ台の上のすーじぃを取り上げると、左上の花のような模様を押す。
途端にすーじぃの画面がきらきらと輝き、電卓ではない別の画面が表示された。
「ハードモードやる」
百花が呟きながら、素早く画面をポチポチ押していく。
今すーじぃの画面に表示されているのは、魔方陣だ。正方形のますが縦横それぞれ三つ連なり、縦も横も、足し算の結果が同じ数字になるように、空いたますを埋めていくパズルだ。
――速いなぁ……解くの。この子、計算が速いんだよね。
梓は百花を横目で見守りつつ、感心する。
学校の先生からも『百花ちゃんは算数がとても得意なので、お家で上級生向けのドリルをやらせてもいいかもしれません』と言われたくらいだ。
ひとしきり魔方陣で遊んだ後、百花がもう一度左上のマークを押す。今度は、出された計算問題の答えを四択の中から選ぶゲームだ。
百花は瞬きすらせずに、夢中でやっている。
――モモ、貴女の計算が速すぎて、ママは付いていけないんだけど。
内心焦りつつ、梓は娘の賢さに改めて唸った。
――千博さんに似たんだろうな。頭がいいところ。
今では別れた元恋人のことも穏やかに思い出せる。彼と連絡を取る気はない。のだが……
梓は百花が集中しているのを確かめ、スマートフォンで百花の父親の名前を検索する。
『斎川千博』
出てきたのは数年前のビジネス情報サイトのインタビュー記事だ。
千博の写真が載っている。
うっとりするほど整った顔立ちと、落ち着きある雰囲気は変わらない。
――まさか、千博さんが斎川グループの御曹司だったとは。なんでこんな本物のお坊ちゃまが、下町の塾講師なんてやっていて、私と付き合ったりしたんだろう?
若気の至りで『結婚したい』と言われたことを思いだし、なんとも言えない気分になる。
斎川グループは鉄鋼業を中心とする巨大グループで、機械メーカーや建設会社など多岐にわたる子会社を抱えている。
梓が住む場所が地べただとしたら、彼が住んでいるのは雲の上。別世界の住人だ。
それに、このインタビュー記事を最後に千博の情報は出なくなったので現在のことはわからないが、もう結婚したのではないだろうか。
梓より五歳年上の彼は、もう三十三のはず。周囲が放っておくはずがないからだ。
――私たちも、ようやくまともに暮らせるようになってきたんだもの。波風は立てたくないから、連絡はとらないつもり。……モモ、ママしかいなくてごめんね……
夢中で遊んでいる娘の横顔を見守りつつ、梓は心の中で謝った。
百花の親権がどうの、と揉めるのも嫌だし、お金目当てで名乗りを上げたと思われるのも嫌だ。百花と正人と自分、そして祖父母と会社……今ある平和を守れればそれでいい。
そのときふと、百花がスマートフォンと梓の身体の間に割り込んできた。画面に素早く目を走らせ、嬉しそうに叫ぶ。
「あ、パパと同じ名前だ、ちひろ!」
確かに百花には、父親の名前だけ知らせている。
漢字も一度だけ紙に書いて教えた。万が一、梓が不慮の事故で遺言も残せず死んだら、誰も百花の父親のことを知らないままで終わってしまう。
それでは百花が余りに可哀相だと思って、つい教えてしまったのだ。
正人は塾で数ヶ月お世話になっただけの、『先生』の名前なんて知らないし、問題はない。
――まだ、ちゃんと覚えてるね。教えたの四歳くらいのときなのに。
「そうだよ。頭いいね、モモ」
梓はせつなさを誤魔化すように百花を褒め、そのままさりげなくスマートフォンの表示をオフにした。同時に玄関の扉が開き、若い男の声が響く。
「ただいま」
弟の正人だ。大学帰りに本屋に寄ってきたらしく包みを抱えている。
「お帰り。ご飯にしようか」
梓はそう言って立ち上がろうとした。しかし正人は首を横に振り、腰を下ろさず梓たちに背を向けた。
「俺が作るよ」
なんだか申し訳ない気分になる。正人は二十歳とは思えないくらい大人だ。料理も洗濯も掃除も、下手すれば梓より得意だ。
百花の面倒を見るためにバイトは内職を選んで、夜は家を空けないようにしてくれる。
本当なら家事なんて母親に丸投げで、夜中まで友達と遊んでいる年代だろうに。
「いいよ正人。お姉ちゃんが作るから」
「昨日も二時くらいまでなにかやってたじゃん。倒れられたら困るから休んでてよ」
そう言って正人が台所に入っていく。無邪気な百花が立ち上がり、すーじぃを持って正人の所へ駆けていった。
「マー君、ハードモードがクリアできた!」
「お、すごいじゃん」
「次はウルトラハードやるの!」
「頑張れー、あ、そうだモモ、コーンの缶詰取ってくれる?」
正人は嫌がらずに百花の相手をしながら、料理を始めたようだ。
――あの子たちを精神的に大人にしてしまっているのは、私なんだろうな。
梓がいまいち頼りないから、正人にも百花にも、べったり甘えられる相手がいないのかもしれない。だから二人はしっかり者なのかもしれない。
――もっと頑張らなきゃ。
台所の音を聞きながら、梓は人知れずため息をついた。だが、ぼんやりしている時間がもったいない。正人の言うとおり、今日は早く眠ろう。
――じゃ、ありがたく仕事を進めちゃおう。
会計ソフトを開き、祖父の会社の事務作業を進める。
熱中しているうちに三十分以上経っていたらしい。正人が大きなお皿を手に、百花と一緒に戻ってきた。
「ママ、今日はパスタだって」
「モモがコーンの缶詰開けてくれたよ」
正人と百花が、笑いながらちゃぶ台の上にお皿を並べ始める。
「モモ、フォークとスプーン持ってきて、三本ずつ」
「わかった!」
正人の言葉に、百花が元気いっぱい台所へ歩いていく。手にはすーじぃを持ったままだ。本当にお気に入りらしい。
今夜のメニューはペペロンチーノ。百花が好きなコーンが入っている。正人は、料理もそこそこ上手だし、百花にも優しいし、自分にはもったいないくらいの弟だ。
戻ってきた百花が、梓の前にスプーンとフォークを並べてくれた。
「はいママちゃん、パソコンは片付けてちょーだい」
祖母そっくりの口調に梓は思わず笑い、ノートパソコンをテーブルから床に下ろした。
「すごいね、美味しそうだね、モモ」
「トウモロコシ入れてもらった! 英語だと、コーン!」
すーじぃを膝の上に置き、百花が頬をピンクに染めて手を合わせた。
「いただきまーす!」
百花が子供用のフォークで器用にパスタを食べ始めた。こぼさないかをチラチラと見守りつつ、梓も早速食べ始める。
そのとき、食事の手を止め、正人がふと気付いたように言う。
「そういえばさ、ネットですーじぃが紹介されて、けっこう売れたんだろ?」
正人の言葉に、梓は頷いた。
「ええ。そうなの。売れると思わなかったけど」
百花の膝の上に載せられた、大きな樹脂の板に視線をやり、梓はしみじみ呟く。
『マニアック道具大全』というのは、マニアに絶大な人気を誇る個人サイトだ。
サイトの管理人が気に入った『道具』であれば、なんでも紹介される。
日本には数十本しか入ってこない万年筆だったり、こだわりの活版印刷ノートだったり、素人には到底作れないような宝石そのもののキャンディだったり。あるときは『付ける人によって香りの変わる秘伝のコロン』なんてものも紹介していた。
珍しい物、他の人と違うこだわりの品がほしい! という人に人気のサイトだ。
このサイトで紹介されたことで人気が出て、生産が追いつかないほどになった品もたくさんある。
多くの企業がサンプルを送っていると噂だが、紹介されるのは、サイト管理人の『こだわりっ子』を名乗る人物が気に入った品だけなのだ。
その有名サイトに、ある日、すーじぃが紹介された。
『世界レベルの技術の無駄遣い。だが管理人的にはそれがいい。樹脂の透明度も反応速度も、液晶の表示がクリアで見やすいのもすごい。道具としては意味不明なのに端々まで気配りが行き届いていて無駄にすごい! 管理人のお気に入りです。電卓として使っていると、会社の人にびっくりされます(笑)』
という褒めているのか微妙な紹介文だったが、世間の物好きの心を騒がせたらしい。
ハンドクラフト通販サイトの片隅で細々と販売していた『すーじぃ』は、サイトでの紹介後、登録分の七個を即日で売り切った。
『一万五千円でもほしい人は買うんだねぇ』
祖父母も目を丸くしていた。もともと利益度外視で、祖父が近所の仲間と一緒に、暇な時間に作ったモノだ。
売れなくてもそれはそれで自分たちの記念に、と言っていた品なのに。
『もうちょっと、追加で販売登録してみようか』
おそるおそる追加で作った二十個も、予約完売した。
むしろ『買えなかった! 値段上乗せでいいから売ってください!』というメールまできたほどだ。
世の中には『自分が気に入った珍しいモノ』にはいくらでも出す趣味人がいるのだと、梓は初めて知った。
食事を終えて後片付けを済ませ、お風呂までのひと休憩の時間に、梓はふたたびパソコンを開いた。
すーじぃ販売サイトの『再販希望コール』の内容を確かめる。
――再販しても売れなかったら困るし、どうしよう。
悩みつつ、今度は祖父の会社宛のメールを確かめた。
取引先からのメールで重要なものを印刷して、翌朝祖父に渡すためだ。
メールの処理は梓の仕事だ。祖父母はパソコンが苦手なので仕方がない。
――あれ、珍しく会社宛に問い合わせがきてる。営業メールかな……
梓は一応そのメールを開いて見てみた。
送り主は『坂本有樹』。知らない男性名だ。本文を見ると、『マニアック道具大全』の管理人です、とある。
――すーじぃの恩人の人……
驚いてメールに目を走らせる。そこには挨拶文と自己紹介の後、こう書かれていた。
『私、実は、株式会社ガレリア・エンタテインメントというところで働いています。ソーシャルゲームの「アンガーリミット」をご存じでしょうか。日本ですでに三百万以上ダウンロードされている大人気ゲームで、私はそのゲームのディレクターの一人です』
おそらく、スマートフォンで遊ぶゲームのことだろう。
梓は忙しくてやっていないが、正人は知っているはずだ。
「ねえ正人、アンガーリミットってゲーム知ってる?」
「知ってるよ。どうしたの?」
寝そべってスマートフォンを見ていた正人がこちらを向く。
「有名なゲームなの?」
「最近出たゲームだけど、かなり遊んでる人多いと思うよ。テレビCMもやってるし」
「ガレリア・エンタテインメントって有名な会社よね。アニメとかも作ってるのよね?」
「そうだよ。モモが見てるアニメの最後に名前出ていたし、大きい会社だと思うよ」
なるほど……と思いつつ、梓はメールの続きを読む。
すーじぃに使われている樹脂や液晶の技術の素晴らしさに感じ入り、面白いモノを作ろうという御社の心意気に惹かれたので、アンガーリミットのイベントで販売するグッズの開発をお願いできないか、という内容だった。
『私たちはアンガーリミットを三年後までに、国内売り上げトップ五に入るソーシャルゲームに育てたいと思っています。そのためにはゲームの品質向上だけでなく、リアルで実施するユーザー向けイベントや、グッズの拡充も不可欠です。よろしければお話だけでも聞いて頂けないでしょうか。鈴木製作所様のお力も発揮して頂けるのではないかと思います』
文面を見る限り、坂本はしっかりした人物のようだ。
『株式会社ガレリア・エンタテインメント』のサイトにアクセスしてみると、すごくお洒落でびっくりする。サイトにも、とてもお金が掛かっているのがわかる。
――と、とにかく、このメールをおじいちゃんに見せないと……!
梓は慌ててメールの本文をプリントアウトする。もし上手くいけば、少し祖父母の生活が楽になるかもしれないと思うと、胸が弾んだ。
「ママ、なにそれ」
好奇心旺盛な百花が、早速小さな頭を寄せてくる。
「お仕事のお手紙よ。明日おじいちゃんに見せるの」
答えると同時に甘い気持ちが込み上げる。辛いこともたくさんあるが、やっぱり百花は可愛い。なにがあっても百花だけは幸せにしなければと思う。
――ママのせいで苦労させられないものね。モモはなにも悪くないもの。
そう思いながら、百花の丸い小さな頭を撫でた。
何度かのやり取りの末、坂本が打ち合わせに指定してきたのは、半月後の金曜日だった。
祖父とその仲間、すーじぃを開発したご近所さんたちと一緒に、梓はガレリア・エンタテインメントにお邪魔することになった。
坂本とのメールのやりとりを担当していたので、失礼のないよう梓もご挨拶を、と思ったのだ。
――うわ、すごいビル……
ガレリア・エンタテインメントは、六本木の高級複合施設の中に会社を構えていた。
梓の住んでいる場所は、いわゆる「ここ十数年で人気が出て、高級住宅地になった」場所で、今でも下町の風情がたっぷり残っている。だが六本木のこの辺りは雰囲気が違う。
子育ても仕事も自宅近辺で済ませる梓は、滅多に地元を離れないので緊張してきた。
振り返ると、祖父や、祖父の仕事仲間たちは、うきうきした様子で案内された顧客ブースの中を見回している。
「金っていうのは、あるところにはあるんだなぁ」
祖父の茂が、感心したように呟いた。他の人たちもうんうんと頷く。
「ゲームって儲かるんだな。うちも孫が夢中でやってるよ」
「シゲさんとこの技術とか、使ってもらえるんじゃないの。あれホントいいものだもん」
祖父の知人の一人が、期待を滲ませた声で言った。確かにこんな大きな会社から仕事をもらえれば、この先数年の展望が明るくなる……かもしれない。
――職人さんを大事にして、上手く付き合ってくれる担当者様だといいな。最近の企業はコンプライアンスを順守することにうるさくなったから、そうそうトラブルはないと思うけど。
「そういえばさ、ここ、去年斎川グループが買収したんだってな。本当に収益がいいんだろう」
ふと思い出したように祖父が言う。
斎川グループ、という名前に、梓の身体が一瞬だけ硬直する。
――千博さんの実家の会社だ。
そのとき扉がノックされ、三十代なかばと思われる、カッターシャツにソフトジャケット姿の男性が笑顔で姿を現した。
「初めまして、坂本です」
梓たち一行は、立ち上がって頭を下げる。坂本は爽やかで知的な男性だった。ネットで調べた情報によると、ガレリア・エンタテインメントで働いているのは、選りすぐりのエリートばかりだという。ディレクター職の坂本は相当優秀な人材に違いない。
名刺を交換し終えたとき、もう一人が足早に顧客ブースの入り口に現れた。
「ごめん、前の打ち合わせが長引いて」
現れたスーツ姿の長身の男性が、坂本に申し訳なさそうに言った。
その人物に頭を下げ、坂本が丁寧に「こちらがグッズの素材関連で協力をお願いする方たちです」と紹介してくれた。
――嘘。
信じられないものを目にし、梓は反射的に後ずさった。目の前のスーツ姿の男は、ひっそりと端にたたずむ梓には気付かず、祖父たちと名刺交換を始める。
頭ががんがんして、周囲の声が聞こえない。
名刺交換を終えた彼は、最後に梓に向き直った。
清潔感のある整った髪形に、きっちりと着こなした控えめだが上質そうなスーツ。
地味にも見える格好が、容貌の美しさを引き立てている。精悍な美貌に切れ長の黒い目。一人一人に真面目に挨拶をし、丁寧に名刺を確認するその仕草も、昔のままだ。
覚悟を決めたつもりだったのに、予想以上の喪失感で、胸に穴が開いたように感じる。
――家に帰る前に、顔をなんとかしなきゃ。もう終わり。もうこれで忘れるの。千博さんを、私の家の事情には巻き込めない……私から去っていく千博さんを……見たくない……
こうしてちっぽけな女の短い恋は終わった。
生活の余裕などなかったのに、本気で恋をしてしまった。それが梓の犯した過ちだった。
その後、千博から何度連絡があっても、一度も返事はしなかった。それが梓の、唯一の意思表示だ。
やがて千博からの連絡は途絶え、梓にも『新しい人生』が始まった……
第一章
「ママ!」
「家の中では走っちゃダメ」
梓の小言に、娘の百花がピタリと足を止めた。
娘の百花は今年六歳。
弟の正人や祖父母からは「モモ」と呼ばれて可愛がられている。
名前は父親の千博から一文字もらって……と言いたいところだが、別れたまま連絡も取っていない相手なので、千ではなく、百にした。
梓が付けた名前は、百花。鈴木百花、だ。
平凡な名字と少し変わった名前の組み合わせを、梓は気に入っている。
――大きくなったなぁ。なんだかしみじみしちゃう。
去年買った長袖のトレーナーが、ちょっと短くなっていた。
せっかく可愛いのに、いつも安物の服ばかりで申し訳ないと思いつつ、梓は百花の頭を撫でる。
妊娠がわかったときは、祖父母も弟も絶句していた。もちろん梓もだ。避妊はしてもらったのにどうして、と悩んだ。そして、中絶するしかないと思った。
だが、ちょうどその頃奇跡的に、祖父の会社に新しい大口取引の話が入ったのである。
祖父の会社は昔ながらの小さな町工場で、『鈴木製作所』という。
企業からオーダーを受け『型』を作る製作所だ。
例えば車のエアコンの温度調節つまみや、スマートフォンの背中部分の板。
祖父は製品のパーツの中でも、制作するのが難しい型作成、いわゆる『腕のいい職人さんにしかできない仕事』を引き受けていた。
梓の母が亡くなった頃は、不況のせいもあり経営状態がよろしくない時期が続き……そこに孫二人が転がり込んだのだから、更に大変になった。
しかし百花がお腹にやってきた頃から、新しい仕事が増え出して、状況が上向いた。
相変わらず苦しい生活だったが、三食ちゃんと食べられて、週に一度は外食もできるほどになったのだ。
『神様がその子を育てろって仰っているんだろうな。そうとしか思えない』
祖父は言い、祖母と弟も同意してくれた。
とくに十三歳の弟、正人が強く後押ししてくれたのだ。
『俺がもっと姉さんを手伝うから。赤ちゃんも俺が学校から帰ってきたら面倒見る』
どうやら正人は、正人なりに悩んでいたらしい。
両親を亡くしたせいで苦労している姉の姿に、辛い思いをしていたのだと思う。
それに多分、梓に秘密の恋人がいて、その相手をとても好きだったことも、正人は気付いていたのだろう。姉が、心の中では赤ちゃんを産んで育てたいと思っていることも。
頑として父親の名を口にしない梓に、正人は『無理に言わなくてもいいよ』と告げた。
そして、『俺は、これ以上姉さんが辛い思いをするのは嫌なだけ』と言ってくれたのだ。
皆にたくさん助けられ、迷った末に子供を産むことにした。
梓はもう、誰とも結婚しないと決めている。
千博と別れた後は、異性に興味がなくなってしまったからだ。テレビで格好いい芸能人を見てもなにも感じない。心に穴が開く程度には、千博が好きだった。
――お医者さんは、きちんと避妊具を使っても、稀に赤ちゃんができることがあるって言ってた。多分、この子、絶対生まれたい理由があるんだろうな。この世界でやりたいことがあるんだ。
そして、月満ちて、百花は元気に生まれた。
千博に迷惑をかけてしまうから、父親が誰なのかは口が裂けても言わない。だから勝手に育てることだけは許してほしい。そう思いながら、梓は百花のママとしての人生を始めた。
シングルマザーになったことを批判する人もいたが、応援してくれる人もいた。
祖父母も正人も、近所の人も、百花を可愛いと言ってくれる。
だから、『家族とモモが平和なら充分だ』と思い、不愉快な言葉は受け流して生きている。
もちろん傷つくこともあったし、ご近所の悪口おばさんには『男遊びが激しいんだろう』なんて言いがかりを付けられていて、うんざりすることもある。
だが、それは仕方ないのだ。無責任と批判されても、笑って流すしかない。
産んだのは梓の勝手だ。百花の人生はもう始まっている。
梓にできることは、百花をいい子に育てることだけだからだ。
「いつも言ってるでしょう? 上のお家に響いちゃうから、ドタバタしちゃダメよ」
このアパートは築四十年を超えている。
百花が生まれる前から住んでいた手狭な室内は、今や百花と正人と梓の持ち物でいっぱいだ。
引っ越したいのはやまやまなのだが、祖父母の家から離れてしまうと思うとなかなか踏み切れない。
「わかった! ごめんねママ、静かに歩く!」
百花が大きな目でウインクしてくれた。
親馬鹿かもしれないが、百花は相当な美人だと思う。
さらさらの黒い髪はおかっぱで、黒目がちな大きな目は長いまつげに縁取られている。
色白で愛らしく整った顔は、お人形のようだ。
梓には若干似ている気がするのだが、千博にはまったく似ていない。
お陰で、父親が誰なのか、誰にも知られていない。塾で千博に勉強を習っていた正人ですら気付いていない。
それに百花は、ママの梓もびっくりするほど気立てがいい。
赤ちゃんの頃から手が掛からなすぎて、保健師さんに『片親だから、私が苦労してると思って気を遣っているんでしょうか』と相談し、笑われたことさえあるくらいだ。
「ママ、アイス食べていい?」
古びた冷蔵庫を開けながら百花が言う。なるほど、珍しく家にアイスがあるから興奮していたのか、と思いつつ、梓は笑顔で頷いた。
「一本だけよ。正人にも取っといてあげて」
「はーい!」
百花が冷凍庫のドアをちゃんと閉めたことを確かめ、梓はふたたびノートパソコンに向き直り、仕事の資料に目を落とす。
――『すーじぃ』、意外と売れてるなぁ……
祖父がご近所の『凄腕だけど零細企業』の職人さんたちと組んで作った玩具『すーじぃ』の売り上げを見つつ、梓は腕を組む。
思えば、百花が生まれてから、祖父の会社はもう駄目だという局面をギリギリで回避してきた。
祖母が『モモちゃんがラッキーを運んできてくれるのよ。やった、今年も生き延びた!』なんて言うくらいに。
今回のすーじぃの件もそうだ。
すーじぃは、『俺らもそろそろ引退だから』が口癖のご近所さんが、謎の本気を結集して作った、電卓……のようなものである。
見た目は透明。この透明がすごい。樹脂なのにクリスタルガラス並みの透明度だ。透明な氷の中に、数字や文字だけが浮かんでいるように見える。使われているフォントも樹脂も特殊液晶も、祖父や友達のご近所のじい様たちが開発した品物だ。
ちなみに、すーじぃのパーツの型加工を担当したのが祖父である。
すーじぃが完成したとき、祖父と仕事仲間は高価な日本酒を開けつつ『こんなに透明なまま成型できたのはすごいな!』『いや液晶が見えやすいよ!』『この樹脂は光の透過率が高い』などと、マニアックに熱く讃え合っていた。
多分、すーじぃを作るのが楽しかったのだろう。
――おじいちゃんたち、すごいよなぁ。すごいけど、使い道があまりないのがもったいないかも。
そう思い、梓は一人微笑んでしまった。
祖父やその仲間たちは、すごい技術を持っている。普段は怖い顔のおじい様たちなのに、こんな遊び心も忘れていないのだ。
「ママ、すーじぃかして」
アイスをあっという間に食べ終わった百花が、梓の横にちょこんと腰掛けた。
小さな手でちゃぶ台の上のすーじぃを取り上げると、左上の花のような模様を押す。
途端にすーじぃの画面がきらきらと輝き、電卓ではない別の画面が表示された。
「ハードモードやる」
百花が呟きながら、素早く画面をポチポチ押していく。
今すーじぃの画面に表示されているのは、魔方陣だ。正方形のますが縦横それぞれ三つ連なり、縦も横も、足し算の結果が同じ数字になるように、空いたますを埋めていくパズルだ。
――速いなぁ……解くの。この子、計算が速いんだよね。
梓は百花を横目で見守りつつ、感心する。
学校の先生からも『百花ちゃんは算数がとても得意なので、お家で上級生向けのドリルをやらせてもいいかもしれません』と言われたくらいだ。
ひとしきり魔方陣で遊んだ後、百花がもう一度左上のマークを押す。今度は、出された計算問題の答えを四択の中から選ぶゲームだ。
百花は瞬きすらせずに、夢中でやっている。
――モモ、貴女の計算が速すぎて、ママは付いていけないんだけど。
内心焦りつつ、梓は娘の賢さに改めて唸った。
――千博さんに似たんだろうな。頭がいいところ。
今では別れた元恋人のことも穏やかに思い出せる。彼と連絡を取る気はない。のだが……
梓は百花が集中しているのを確かめ、スマートフォンで百花の父親の名前を検索する。
『斎川千博』
出てきたのは数年前のビジネス情報サイトのインタビュー記事だ。
千博の写真が載っている。
うっとりするほど整った顔立ちと、落ち着きある雰囲気は変わらない。
――まさか、千博さんが斎川グループの御曹司だったとは。なんでこんな本物のお坊ちゃまが、下町の塾講師なんてやっていて、私と付き合ったりしたんだろう?
若気の至りで『結婚したい』と言われたことを思いだし、なんとも言えない気分になる。
斎川グループは鉄鋼業を中心とする巨大グループで、機械メーカーや建設会社など多岐にわたる子会社を抱えている。
梓が住む場所が地べただとしたら、彼が住んでいるのは雲の上。別世界の住人だ。
それに、このインタビュー記事を最後に千博の情報は出なくなったので現在のことはわからないが、もう結婚したのではないだろうか。
梓より五歳年上の彼は、もう三十三のはず。周囲が放っておくはずがないからだ。
――私たちも、ようやくまともに暮らせるようになってきたんだもの。波風は立てたくないから、連絡はとらないつもり。……モモ、ママしかいなくてごめんね……
夢中で遊んでいる娘の横顔を見守りつつ、梓は心の中で謝った。
百花の親権がどうの、と揉めるのも嫌だし、お金目当てで名乗りを上げたと思われるのも嫌だ。百花と正人と自分、そして祖父母と会社……今ある平和を守れればそれでいい。
そのときふと、百花がスマートフォンと梓の身体の間に割り込んできた。画面に素早く目を走らせ、嬉しそうに叫ぶ。
「あ、パパと同じ名前だ、ちひろ!」
確かに百花には、父親の名前だけ知らせている。
漢字も一度だけ紙に書いて教えた。万が一、梓が不慮の事故で遺言も残せず死んだら、誰も百花の父親のことを知らないままで終わってしまう。
それでは百花が余りに可哀相だと思って、つい教えてしまったのだ。
正人は塾で数ヶ月お世話になっただけの、『先生』の名前なんて知らないし、問題はない。
――まだ、ちゃんと覚えてるね。教えたの四歳くらいのときなのに。
「そうだよ。頭いいね、モモ」
梓はせつなさを誤魔化すように百花を褒め、そのままさりげなくスマートフォンの表示をオフにした。同時に玄関の扉が開き、若い男の声が響く。
「ただいま」
弟の正人だ。大学帰りに本屋に寄ってきたらしく包みを抱えている。
「お帰り。ご飯にしようか」
梓はそう言って立ち上がろうとした。しかし正人は首を横に振り、腰を下ろさず梓たちに背を向けた。
「俺が作るよ」
なんだか申し訳ない気分になる。正人は二十歳とは思えないくらい大人だ。料理も洗濯も掃除も、下手すれば梓より得意だ。
百花の面倒を見るためにバイトは内職を選んで、夜は家を空けないようにしてくれる。
本当なら家事なんて母親に丸投げで、夜中まで友達と遊んでいる年代だろうに。
「いいよ正人。お姉ちゃんが作るから」
「昨日も二時くらいまでなにかやってたじゃん。倒れられたら困るから休んでてよ」
そう言って正人が台所に入っていく。無邪気な百花が立ち上がり、すーじぃを持って正人の所へ駆けていった。
「マー君、ハードモードがクリアできた!」
「お、すごいじゃん」
「次はウルトラハードやるの!」
「頑張れー、あ、そうだモモ、コーンの缶詰取ってくれる?」
正人は嫌がらずに百花の相手をしながら、料理を始めたようだ。
――あの子たちを精神的に大人にしてしまっているのは、私なんだろうな。
梓がいまいち頼りないから、正人にも百花にも、べったり甘えられる相手がいないのかもしれない。だから二人はしっかり者なのかもしれない。
――もっと頑張らなきゃ。
台所の音を聞きながら、梓は人知れずため息をついた。だが、ぼんやりしている時間がもったいない。正人の言うとおり、今日は早く眠ろう。
――じゃ、ありがたく仕事を進めちゃおう。
会計ソフトを開き、祖父の会社の事務作業を進める。
熱中しているうちに三十分以上経っていたらしい。正人が大きなお皿を手に、百花と一緒に戻ってきた。
「ママ、今日はパスタだって」
「モモがコーンの缶詰開けてくれたよ」
正人と百花が、笑いながらちゃぶ台の上にお皿を並べ始める。
「モモ、フォークとスプーン持ってきて、三本ずつ」
「わかった!」
正人の言葉に、百花が元気いっぱい台所へ歩いていく。手にはすーじぃを持ったままだ。本当にお気に入りらしい。
今夜のメニューはペペロンチーノ。百花が好きなコーンが入っている。正人は、料理もそこそこ上手だし、百花にも優しいし、自分にはもったいないくらいの弟だ。
戻ってきた百花が、梓の前にスプーンとフォークを並べてくれた。
「はいママちゃん、パソコンは片付けてちょーだい」
祖母そっくりの口調に梓は思わず笑い、ノートパソコンをテーブルから床に下ろした。
「すごいね、美味しそうだね、モモ」
「トウモロコシ入れてもらった! 英語だと、コーン!」
すーじぃを膝の上に置き、百花が頬をピンクに染めて手を合わせた。
「いただきまーす!」
百花が子供用のフォークで器用にパスタを食べ始めた。こぼさないかをチラチラと見守りつつ、梓も早速食べ始める。
そのとき、食事の手を止め、正人がふと気付いたように言う。
「そういえばさ、ネットですーじぃが紹介されて、けっこう売れたんだろ?」
正人の言葉に、梓は頷いた。
「ええ。そうなの。売れると思わなかったけど」
百花の膝の上に載せられた、大きな樹脂の板に視線をやり、梓はしみじみ呟く。
『マニアック道具大全』というのは、マニアに絶大な人気を誇る個人サイトだ。
サイトの管理人が気に入った『道具』であれば、なんでも紹介される。
日本には数十本しか入ってこない万年筆だったり、こだわりの活版印刷ノートだったり、素人には到底作れないような宝石そのもののキャンディだったり。あるときは『付ける人によって香りの変わる秘伝のコロン』なんてものも紹介していた。
珍しい物、他の人と違うこだわりの品がほしい! という人に人気のサイトだ。
このサイトで紹介されたことで人気が出て、生産が追いつかないほどになった品もたくさんある。
多くの企業がサンプルを送っていると噂だが、紹介されるのは、サイト管理人の『こだわりっ子』を名乗る人物が気に入った品だけなのだ。
その有名サイトに、ある日、すーじぃが紹介された。
『世界レベルの技術の無駄遣い。だが管理人的にはそれがいい。樹脂の透明度も反応速度も、液晶の表示がクリアで見やすいのもすごい。道具としては意味不明なのに端々まで気配りが行き届いていて無駄にすごい! 管理人のお気に入りです。電卓として使っていると、会社の人にびっくりされます(笑)』
という褒めているのか微妙な紹介文だったが、世間の物好きの心を騒がせたらしい。
ハンドクラフト通販サイトの片隅で細々と販売していた『すーじぃ』は、サイトでの紹介後、登録分の七個を即日で売り切った。
『一万五千円でもほしい人は買うんだねぇ』
祖父母も目を丸くしていた。もともと利益度外視で、祖父が近所の仲間と一緒に、暇な時間に作ったモノだ。
売れなくてもそれはそれで自分たちの記念に、と言っていた品なのに。
『もうちょっと、追加で販売登録してみようか』
おそるおそる追加で作った二十個も、予約完売した。
むしろ『買えなかった! 値段上乗せでいいから売ってください!』というメールまできたほどだ。
世の中には『自分が気に入った珍しいモノ』にはいくらでも出す趣味人がいるのだと、梓は初めて知った。
食事を終えて後片付けを済ませ、お風呂までのひと休憩の時間に、梓はふたたびパソコンを開いた。
すーじぃ販売サイトの『再販希望コール』の内容を確かめる。
――再販しても売れなかったら困るし、どうしよう。
悩みつつ、今度は祖父の会社宛のメールを確かめた。
取引先からのメールで重要なものを印刷して、翌朝祖父に渡すためだ。
メールの処理は梓の仕事だ。祖父母はパソコンが苦手なので仕方がない。
――あれ、珍しく会社宛に問い合わせがきてる。営業メールかな……
梓は一応そのメールを開いて見てみた。
送り主は『坂本有樹』。知らない男性名だ。本文を見ると、『マニアック道具大全』の管理人です、とある。
――すーじぃの恩人の人……
驚いてメールに目を走らせる。そこには挨拶文と自己紹介の後、こう書かれていた。
『私、実は、株式会社ガレリア・エンタテインメントというところで働いています。ソーシャルゲームの「アンガーリミット」をご存じでしょうか。日本ですでに三百万以上ダウンロードされている大人気ゲームで、私はそのゲームのディレクターの一人です』
おそらく、スマートフォンで遊ぶゲームのことだろう。
梓は忙しくてやっていないが、正人は知っているはずだ。
「ねえ正人、アンガーリミットってゲーム知ってる?」
「知ってるよ。どうしたの?」
寝そべってスマートフォンを見ていた正人がこちらを向く。
「有名なゲームなの?」
「最近出たゲームだけど、かなり遊んでる人多いと思うよ。テレビCMもやってるし」
「ガレリア・エンタテインメントって有名な会社よね。アニメとかも作ってるのよね?」
「そうだよ。モモが見てるアニメの最後に名前出ていたし、大きい会社だと思うよ」
なるほど……と思いつつ、梓はメールの続きを読む。
すーじぃに使われている樹脂や液晶の技術の素晴らしさに感じ入り、面白いモノを作ろうという御社の心意気に惹かれたので、アンガーリミットのイベントで販売するグッズの開発をお願いできないか、という内容だった。
『私たちはアンガーリミットを三年後までに、国内売り上げトップ五に入るソーシャルゲームに育てたいと思っています。そのためにはゲームの品質向上だけでなく、リアルで実施するユーザー向けイベントや、グッズの拡充も不可欠です。よろしければお話だけでも聞いて頂けないでしょうか。鈴木製作所様のお力も発揮して頂けるのではないかと思います』
文面を見る限り、坂本はしっかりした人物のようだ。
『株式会社ガレリア・エンタテインメント』のサイトにアクセスしてみると、すごくお洒落でびっくりする。サイトにも、とてもお金が掛かっているのがわかる。
――と、とにかく、このメールをおじいちゃんに見せないと……!
梓は慌ててメールの本文をプリントアウトする。もし上手くいけば、少し祖父母の生活が楽になるかもしれないと思うと、胸が弾んだ。
「ママ、なにそれ」
好奇心旺盛な百花が、早速小さな頭を寄せてくる。
「お仕事のお手紙よ。明日おじいちゃんに見せるの」
答えると同時に甘い気持ちが込み上げる。辛いこともたくさんあるが、やっぱり百花は可愛い。なにがあっても百花だけは幸せにしなければと思う。
――ママのせいで苦労させられないものね。モモはなにも悪くないもの。
そう思いながら、百花の丸い小さな頭を撫でた。
何度かのやり取りの末、坂本が打ち合わせに指定してきたのは、半月後の金曜日だった。
祖父とその仲間、すーじぃを開発したご近所さんたちと一緒に、梓はガレリア・エンタテインメントにお邪魔することになった。
坂本とのメールのやりとりを担当していたので、失礼のないよう梓もご挨拶を、と思ったのだ。
――うわ、すごいビル……
ガレリア・エンタテインメントは、六本木の高級複合施設の中に会社を構えていた。
梓の住んでいる場所は、いわゆる「ここ十数年で人気が出て、高級住宅地になった」場所で、今でも下町の風情がたっぷり残っている。だが六本木のこの辺りは雰囲気が違う。
子育ても仕事も自宅近辺で済ませる梓は、滅多に地元を離れないので緊張してきた。
振り返ると、祖父や、祖父の仕事仲間たちは、うきうきした様子で案内された顧客ブースの中を見回している。
「金っていうのは、あるところにはあるんだなぁ」
祖父の茂が、感心したように呟いた。他の人たちもうんうんと頷く。
「ゲームって儲かるんだな。うちも孫が夢中でやってるよ」
「シゲさんとこの技術とか、使ってもらえるんじゃないの。あれホントいいものだもん」
祖父の知人の一人が、期待を滲ませた声で言った。確かにこんな大きな会社から仕事をもらえれば、この先数年の展望が明るくなる……かもしれない。
――職人さんを大事にして、上手く付き合ってくれる担当者様だといいな。最近の企業はコンプライアンスを順守することにうるさくなったから、そうそうトラブルはないと思うけど。
「そういえばさ、ここ、去年斎川グループが買収したんだってな。本当に収益がいいんだろう」
ふと思い出したように祖父が言う。
斎川グループ、という名前に、梓の身体が一瞬だけ硬直する。
――千博さんの実家の会社だ。
そのとき扉がノックされ、三十代なかばと思われる、カッターシャツにソフトジャケット姿の男性が笑顔で姿を現した。
「初めまして、坂本です」
梓たち一行は、立ち上がって頭を下げる。坂本は爽やかで知的な男性だった。ネットで調べた情報によると、ガレリア・エンタテインメントで働いているのは、選りすぐりのエリートばかりだという。ディレクター職の坂本は相当優秀な人材に違いない。
名刺を交換し終えたとき、もう一人が足早に顧客ブースの入り口に現れた。
「ごめん、前の打ち合わせが長引いて」
現れたスーツ姿の長身の男性が、坂本に申し訳なさそうに言った。
その人物に頭を下げ、坂本が丁寧に「こちらがグッズの素材関連で協力をお願いする方たちです」と紹介してくれた。
――嘘。
信じられないものを目にし、梓は反射的に後ずさった。目の前のスーツ姿の男は、ひっそりと端にたたずむ梓には気付かず、祖父たちと名刺交換を始める。
頭ががんがんして、周囲の声が聞こえない。
名刺交換を終えた彼は、最後に梓に向き直った。
清潔感のある整った髪形に、きっちりと着こなした控えめだが上質そうなスーツ。
地味にも見える格好が、容貌の美しさを引き立てている。精悍な美貌に切れ長の黒い目。一人一人に真面目に挨拶をし、丁寧に名刺を確認するその仕草も、昔のままだ。
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