敏腕CEOと秘密のシンデレラ

栢野すばる

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1巻

1-3

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 ――嘘……でしょ……
 背の高いその男性は、七年ほど前に別れた、百花の父親の千博だった。
 目の前の千博の顔から、礼儀正しい笑顔がすうっと消える。
 顔を強ばらせた彼は、すぐに気を取り直したように笑みを浮かべ、梓に名刺を渡した。

「こんにちは、CEO――代表取締役社長の斎川です。……正人君のお姉さんですよね」

 声こそ丁寧でやわらかいものの、視線は射貫くように梓を見つめていた。
 千博の視線が、梓の左手に走る。
 荒れた小さな手にはネイルも、アクセサリーもしていない。梓の目には、千博の表情が、一瞬だけほっと緩んだ気がした。
 皆に背を向ける姿勢なので、誰も千博の表情に気付いていない。
 ――CEO……この会社の代表……?
 とっさになにも言えず、梓は千博を見つめ返した。クールで穏やかなまなざしの奥に、得体の知れない熱を感じて動けない。
 妙な気配を察したのか、坂本が不思議そうな声を上げる。

「CEOのお知り合いですか?」
「ああ、大学を出てすぐの頃、塾講師をしていたって言っただろう? 鈴木さんは俺の教え子のお姉さんなんだ。何度か進路面談に来てくれたから、たまたま覚えていて」

 その言葉に、祖父がぱっと顔を輝かせた。

「あれ、社長さん、正人の塾の先生だったんですか」

 千博が祖父のほうを見て、明るい声で答える。

「はい。知り合いの方がいらしたので驚きました。……これもなにかのご縁ですね」

 一気に、緊張していた場の空気がやわらぐ。ほっと息を吐いた梓は、周囲に異変を悟られないよう、千博の広い背中にそっと視線を投げかけた。
 ――大丈夫よね、モモと千博さんのこと……誰にも気付かれないよね。

「CEOは、社外の方との初回の打ち合わせには、必ず同席されるんですよ」

 坂本のハキハキした説明が聞こえ、梓は唇にだけ愛想笑いを浮かべた。
 心臓の音が大きく頭の中に響く。驚きと戸惑いで頭の中は真っ白なままだ。
 ――どうしよう、モモのことでなにか言われたら。
 しばらく考え、大丈夫だと確信する。
 百花は千博とまるで似ていないからだ。
 毎日百花に接している祖父だって、千博がひ孫の父親だなんて気付かないだろう。
 ――うん、本当に、全然似てない……誰も気付かない。大丈夫!
 久しぶりに千博の顔を見て、梓はそう確信した。



   第二章


 ガレリア・エンタテインメントでの衝撃の再会から数日後。
 梓は、ノートパソコンの前で凍り付いていた。

『鈴木さん、久しぶりにお会いできて嬉しかったです。急で申し訳ないのですが、よかったら明日の夜、食事に行きませんか』

 メールの差出人は、斎川千博。
 渡した名刺のアドレス宛に届いたお誘いだ。なんと返事をしていいものか迷う。
 梓は、取引先の男性に誘われたときは基本、角が立たないように断っている。
 大概たいがいの『下心』がある男性は『子供がいて、夜は時間が取れない』と言うと引き下がるのだが、今回の相手は千博だ。
 結婚したって言い張ろうかな、と思った瞬間、打ち合わせのあの日、千博の視線が左手の薬指に走ったことを思い出す。
 彼は梓が結婚していないと確信して誘ってきたのだろう。
 実は結婚しているといつわったとしても、子供はいくつか、とか、色々聞かれたらいつかボロが出そうで怖い。梓は嘘が苦手なのだ。
 ましてや梓は、今でも千博に罪悪感を抱いている。彼はなにも悪くないのに、梓の事情で一方的に別れてしまったからだ。更にそこに嘘を重ねるのは心苦しい。
 ――一回だけ行って、当たりさわりのない話をして帰ろうかな。きっと千博さんも、懐かしいから声を掛けてきただけだと思うし。女性を一対一で食事に誘うってことは、彼も結婚はしてないのだろうし……、大丈夫かな……。うーん、よくわからなくなってきた。
 ぐるぐるし始めたところに、パジャマ姿の百花がちょこちょことやってきた。

「ママ、寝る前にコーヒー牛乳飲んでいい?」

 梓はノートパソコンを閉じ、百花に言った。

「寝る前はダメ。なにが入ってるから駄目って教えたっけ?」
「さとう」

 真面目な百花の答えに、梓は噴き出す。

「違うでしょ、カフェイン。眠れなくなっちゃうよ」
「そっか、カフェインか。まちがえた!」

 百花が、座布団に座っている梓の首にぎゅっと抱きついてきた。

「お水飲んで寝なさい。もう歯磨きしたでしょ?」
「あのさ、ママ。あした段ボールがいるんだけど」

 百花が梓から離れ、突然正座する。唐突な娘の報告に、梓の動きがピタリと止まる。
 ――えっ、そんなの連絡メールに書いてあったかな?
 梓は慌てて、急に礼儀正しくなった百花に尋ねた。

「学校で使うの?」
「はい、使います。工作で」

 ――いけない、ホントだ……先週のメールを見落としてた!
 梓は慌てて立ち上がった。三十センチ四方の、正方形の段ボール紙なんて、作らないとない。大きさの指定が妙に細かくて大変だ。

「モモ待ってて、おじいちゃんのところ探してくる。正人、ちょっとモモ見ててくれる?」

 梓の声にふすまが開き、うたた寝していたらしい正人が部屋から顔を出した。百花を正人に預け、梓はアパートを飛び出す。
 ――グダグダ悩んでる時間は、私にはないな……。お仕事もらってる会社の社長さんだから、一方的に断るのも気が引けるし……明日適当にお食事して、さくっと帰ってこよう。子供の話を理由に断るのは、やぶへびになりそうだからやめたほうがいいよね。
 メールの返信を忘れないようにしなくては、最近色々忘れっぽくて困る、と思いつつ、梓は隣の祖父の家へ駆け込んだ。

「ねえ、おばあちゃん、段ボール箱ある? 明日モモが学校で使うんだって」

 翌日の夕方。
 祖父の会社の事務仕事を一度切り上げた梓は、食事会に向かうための身支度を終え、学童から百花を引き取って、ふたたび祖父の家へ向かった。

「ママの指、痛そう……ごめんね」

 百花が梓の手を見て眉をひそめる。

「ううん、平気。ママが不器用なだけだから」

 情けない気持ちで梓は首を振った。
 百花の相手をしつつ、まだ少し残っていた仕事を手早く片付けていく。
 ――昨晩は結局、段ボールを三十センチの正方形に切るのに、異様に時間が掛かってしまった……
 梓の指は何枚も絆創膏ばんそうこうが貼られている。箱になった段ボールを分解するときに、一度ならず切ってしまったのだ。更に、三十センチの正方形にするのに失敗し、数箱は無駄にした。
 ――段ボールって、結構手をスパスパ切っちゃうのよね。モモには危なくてさせられないなぁ。私がやってよかった……
 その後は力尽きて千博へのメール返信を忘れ、朝の九時過ぎに連絡をして、昼過ぎに返事がきた。ありがとう、という言葉と共に、レストランの場所が少しわかりにくいので、会社の側のカフェで待っていてほしいと記されていた。
 今日の格好は、人と会うのに一番無難ぶなんな服……とはいえ、地味極まりない安物の上下黒のセットアップだ。
 ――さて、もう全部大丈夫かな。後はおばあちゃんにモモのことお願いして……と。
 百花が不思議そうに、出掛けようとする梓に声を掛ける。

「ねえママ、あのさ!」
「ごめんね、もう行かなきゃ。モモが寝る前に帰ってくるから、おばあちゃんと待っててね」
「そうじゃなくて、ママはなんでいつも同じ服でおでかけするの?」

 ――うっ……痛いところを……
 記憶力抜群の百花は、保育園の行事のときも、ママ友との食事会のときも、取引先や町内会の飲み会に顔だけ出すときも、梓が常にこの格好だったことを覚えているのだ。

「マ、ママは、これが好きだから……だよ?」

 お金がもったいないし、忙しすぎて、買いに行くのも面倒で……とは、流石さすがに言えない。

「もっと明るい色がいい。ママは、ピンクと水色が似合うと思う」
「いいの。黒が好きなの」

 まだ子供だと思っていたが、なかなかあなどれない指摘だ。だがあまり女性らしい格好をして夜歩いているとナンパされたりして怖いし、目立たない黒い服のほうが安心できる。
 ――女の子って、六歳にもなると色々大人になるのね。
 とほほな気分で、梓は身をかがめて百花をハグした。そのとき、身体がちょっと熱いかもと気付く。

「あれ、モモ、お熱ある? 喉痛い? お腹は? 大丈夫?」

 矢継やつばやに尋ねると、百花は首を横に振った。
 大丈夫なようだ。梓はほっとして、お茶を飲んでいる祖母に頼み込んだ。

「ねえおばあちゃん、もしモモが熱出したらすぐ連絡くれる? 今日のお店そんなに遠くないから即帰ってくるから!」
「いいわよ。元気そうだから大丈夫だと思うけど。あずちゃんはお友達と食事でしょ、たまには息抜きしてきなさいよ。そんなに毎日頑張ってたら、貴女こそひっくり返るわよ? ねー、モモちゃん」

 百花が甘えたように祖母に抱きつく。確かに……熱は気のせいかもしれない。元気そうだ。

「わかった。ごめんね、じゃあ行ってきます」

 梓はそう言い置いて、祖父の家を飛び出した。時計を確認するとギリギリの時間だ。取引先のCEOを待たせてはならない。梓は全力で、駅まで走った。
 しばらく電車に揺られ、ガレリア・エンタテインメントの最寄り駅に着く。
 梓は指定されたカフェへ急いだ。あまりこの駅を使ったことがない梓でもすぐにわかる場所に、カフェがあった。
 なんとなく千博らしい。彼は相手のことを考えて、困ったり迷ったりしないよう指示するのが上手な人だったな、と思い出す。梓もデートの待ち合わせで迷ったことは一度もなかった。
 ――やっぱりモモは、あの人に似て頭がいいのかも。
 ついついお留守番中の百花のことを考えつつ、梓はコーヒーを頼んで席に着いた。こんな洒落しゃれたカフェに来るのは久しぶりだ。白で統一された店内はクリーンなイメージで、柱やテーブルの一部にだけ、コーヒーをイメージしたダークブラウンと、差し色として銀があしらわれている。
 所々に置かれた観葉植物もさわやかで、いい気分になった。
 ――モモがもう少し大きくなったら、こういうお店に一緒に来られるかな。正人は……私じゃなくて彼女と来たいよね。
 非日常に身を置くと、一気に気分が上がる。一杯千円という、普段では考えられないコーヒーの値段も、今は見ないことにして頼んだ。
 好奇心からメニューをのぞくと、スイーツもどれも手が込んでいて、美味おいしそうで食べてみたくなる。
 ――やっぱり、モモと一緒にスイーツ食べにこよう。あの子、甘い物好きだから。
 きっと、ぷりぷりの頬に笑みを浮かべて大喜びするだろう。
 こういうときは、子供が女の子でよかったなぁと思う。
 梓は運ばれてきたコーヒーに口を付けた。普通のブレンドなのに、特別な味に感じる。うっとりしながら飲み終えた頃、店員に伴われて千博が歩いてくるのが見えた。

「ごめん、お待たせ」

 微笑んだ彼の口調は、別れる前、恋人同士だった頃と同じだった。
 梓の胸が、不本意にも小さくはずむ。
 昔のような笑顔を返しかけ、梓は慌てて立ち上がって深々と頭を下げた。

「こんばんは、斎川さん。本日はお誘い頂き、ありがとうございました」

 顔を上げた梓の前で、千博がかすかにせつなげな笑みを浮かべた。
 整った顔には、洗い清めたような清潔感が漂っている。まっすぐな形のいい眉は知性的で、黒い切れ長の目にはやわらかな光が宿っていた。
 やはり千博は、出会った頃と変わっていないのだ。
 あの頃の彼は『弟の塾の先生』だったけれど、日本有数のエンタテインメント企業のCEOになっても、梓に向けられる誠実で穏やかなまなざしは同じだった。

「……いや、俺のほうこそ楽しみにしていた。行こう」

 口調を改め、千博が紳士的な口調で言った。梓はかすかに頬を赤らめ、伝票を探す。
 千博を案内してくれた店員が『もう済んでおりますので』と小声で教えてくれた。
 どうやら千博が入店時に払ってくれたらしい。
 少し考えた末、梓は千博に深々と頭を下げた。

「申し訳ありません、ご馳走になってしまって」
「いや、待たせたのはこっちだから」

 引き締まった唇に笑みをたたえて、千博が首を振った。
 千博と二人店を出て、梓は周囲を見回す。雑踏から見上げる夜のビルは、硬質な光を放って星のように見えた。
 ――ほんとに、非日常って感じ……
 いつもなら、モモや正人と夕飯を食べつつ、モモに『今日はママも早く寝ましょうね!』なんてしかられたりしている時間だ。
 梓はそっとかたわらを歩く男を見上げた。
 相変わらず、なにも言えなくなるくらい完璧な形の横顔だ。
 こんなにいい男なのだから、どれほど不誠実に振る舞っても女性のほうが離れていかないだろう、なんて想像したこともある。
 だが千博はいつも誠実で真面目で、安心感だけを梓に与えてくれた。
 ――育ちがよさそうな人だなって思ってた。そして、実際にすごくよかったわけで。
 ほろ苦い想いで千博からそっと視線を外したときだった。

「千博さん!」

 女の声と、ハイヒールで駆け寄ってくる足音が聞こえた。
 はっとして振り返ると、とても高価そうなブランド物に身を固めた女性が駆け寄ってくる。ちょっと派手だが会社の人に違いないと思い、梓は慌てて一歩引いた。
 千博が梓を背に隠し、女性に向き直る。梓は彼の背後で女性に頭を下げた。だが、女性は梓を無視して千博に微笑みかける。
 ――あれ、今、わざと無視された……?
 打ち合わせ後に紹介されたガレリア・エンタテインメントの社員たちは、みな知的で礼儀正しかった。流石さすがは一流企業と感心させられたのに。不審に思う梓の前で女性が、甘い甘い砂糖菓子のような声で千博に言う。

「今日は私とお食事に行ってくださいませんの?」
「こんばんは。申し訳ないですが、先ほどもお断りしたとおり、先約が」
「父が取ってくれた料亭ですのに。お約束は今度になさったら?」

 ますます異変を感じる。
 社長の予定にこんな風に口を挟む社員なんているはずがない。梓ですら、仕事中は祖父を社長として立てているのに。

峰倉みねくらさん、お父様のご厚意を無下むげにしてしまうのは心苦しいのですが……今日は予約の時間が迫っているので失礼します」

 穏やかな口調で千博が言い、女性に背を向ける。
 戸惑って二人を見比べる梓の肩を抱き、千博がさっきより少し足早に歩き出す。
 ――か、肩に……手……
 千博との距離が近づき、梓の鼓動が速まった。気品あふれるオーデコロンの香りが、かすかに漂ってくる。
 誰の鼻先も邪魔しないくらい控えめな、それでいてうっとりするような懐かしい香り。出会った頃から同じ香りを愛用し続けているのだろう。梓の鼓動が更に強まる。そのとき不意に、峰倉と呼ばれた女性が背後で鋭い声を上げた。

「どなたですの、その方」

 千博が梓の肩を抱いたまま、ゆっくりと振り返る。

「……私の友人です」
「夜にお食事に出られるような女性がいるなんて、聞いてませんけど?」

 きつい声音に、梓の困惑が増す。もしかして千博の恋人なのだろうか。だが千博の態度はどこか拒絶的で、彼女への愛情は感じられない。
 ――この方、どなたなのかしら。
 峰倉は千博を見上げ、赤く塗った唇でふたたび問うた。

「第一、千博さんがアメリカに渡る前に、取り決めましたよね。うちの会社との事業提携は、私との縁談あってのものだって。それを父が『婚約せずとも業務提携する』と妥協して、斎川グループにお力添えしたのですよ。結婚の話も守ってもらわなくては困ります」

 峰倉の声が大きくなっていくのを見かねてか、珍しく千博が厳しい声で言った。大きな声ではないが、ぴしりとむち打つような鋭さだ。

「当時はそうでしたね。ですが、申し上げづらいですが、今は……」

 なにかを言いかけた千博が、はっとしたように一瞬梓に目をやった。人に聞かせたくない話なのかもしれない。

「申し訳ありません、そのお話は後日、お父様を通してお願いできますか」
「どうしてもダメなの?」
「ええ、彼女が先約ですので。申し訳ない」

 峰倉が不満げに眉根を寄せる。彼女は梓をにらみつけると、吐き捨てるように言った。

「……次は私のために時間を作ってくださいませ。どうぞお忘れなく」

 言い終えると同時に、女性がぷいと背中を向けて去っていく。
 唖然あぜんとした梓に、千博が申し訳なさそうに言う。

「ごめん。峰倉さんは梓……いや、鈴木さんに出会う前にお見合いした相手なんだ。結局彼女は別のお相手と結婚したんだけど、なんていうのか、色々あって離婚されて……いや、君には関係ない話だ。驚かせて申し訳なかった」

 梓は頷いた後、あきれた口調で言ってしまった。

「困りますよね、斎川さんにも予定がおありなのに」

 軽く冗談めかした梓の言葉に、千博が微笑んだ。

「正直言うと、そのとおり。元々お見合いも断るつもりだったし。そもそも、俺は誰とも結婚する気がないからね……とにかく彼女のことは気にしないでくれ、行こう」

 梓の肩から手を離し、彼は少し先を歩き出した。
 ――そうなんだ。結婚する気、ないんだ。
 千博のかたわらで、梓は不思議な気分になる。もったいないな、いい男なのに、と思った。
 五分ほど歩くと、住宅街に入った。都心の高級住宅街にもかかわらず、家と家の間隔が広くなっていく。いわゆる、昔ながらのお金持ちが住む辺りだ。
 こんな住宅街にレストランなんてあるのかな、と不思議に思っていたところ、千博はとある門の前で足を止めた。
 とても地味で見過ごしそうになるけれど、よく見ると洋風のった門扉もんぴだ。千博がチャイムを鳴らすと、中からギャルソン姿の姿勢のいい男性がすぐに迎えに出てきた。

「いらっしゃいませ、斎川様」

 品のいい明るい対応だった。緊張する梓の腕をそっと引き、千博が微笑みかける。

「会員制のレストランなんだ。母が気に入っていてね、家族でよく利用しているし、知人を連れてきたときの評判もいい」

 説明を聞きながら、梓はごくりと息を呑む。エントランスの右手には、ガラス張りのワインセラーがあり、奥のほうからは茜色あかねいろの光が漏れ出している。シダーウッドの香りがほんのり立ちこめ、木張りの瀟洒しょうしゃな店内を、森のような雰囲気に見せていた。
 ――わ、私が来たことがないような、すごいお店。
 梓はちょっぴり後悔する。
 百花が勧めてくれたとおり、もう少し『素敵なお洋服』で来るべきだった。
 とはいえ、お金はついつい百花に回してしまって、梓には素敵な服の持ち合わせなんてないのだけれど。
 案内されたのは窓際の広めの席で、ライトアップされた庭が見える。秋薔薇あきばらが咲いていて、雰囲気満点だ。
 先ほどのカフェも、このレストランも、別世界だ。こんな場所にいることが夢のように思える。
 ――モモが大きくなったら連れてきてあげられるかな。頑張って働けばたまには来られるかも。あの子、美味おいしいものきだから。
 梓はナプキンを膝に広げ、庭の深紅しんく薔薇ばらに見入った。こんな一等地にあるのに、店の敷地はとても広そうだ。奥行きがあるのがわかる。

「ここは旧華族の別荘の跡地なんだ」

 目を丸くして庭に見入る梓に、千博が言った。

「昼に来ても雰囲気がいい。庭が綺麗きれいで」
「よくいらっしゃるんですね」
「家族でね」

 そうか、千博の家族は仲がいいのか、と思い、梓は口元をほころばせた。

「私も……」

 いつか娘を連れてきたい、と危うく口走りかけ、梓の顔が凍り付く。
 ――き、気が緩むと危ないわね。

「お、弟と来たい……ですね」

 不自然極まりない口調になった気もするが、なんとか誤魔化した。
 千博はミネラルウォーターの入ったグラスを傾け、ちょっとだけ意地の悪い口調で尋ねてくる。

「恋人ではなく?」
「ええ。私、家族優先だから、恋人とか……いない感じ……です……かね……」

 目を泳がせながら梓は答える。今の答えは大丈夫だろうか。多分大丈夫だ。
 というよりも、自分は普段、会社関係の人と家族、それと百花の学校関係者やママ友としか喋っていない。
 狭い世界で同じことを繰り返す日々から、突如とつじょ非日常のキラキラした場所に連れてこられて、舞い上がって頭が働かなくなっている。
 しかも一緒にいる相手は、未練を残して別れた昔の恋人だ。
 別れた頃よりもぐっと男らしく魅力を増した千博に見つめられると、正直、そわそわする。
 この状況で『モモ』のことを隠し通さないといけないのだ。
 梓にそんなことができるのだろうか。
 ――まずい、来ないほうがマシだったかな。この調子だと、さっさと帰る計画どころか……。私、昔も似たような失敗をした気がする。どうして千博さんに呼ばれると会っちゃうんだろう。
 自分の嘘の下手さは、自分自身が一番よく知っている。梓は熱くなった顔で目を逸らし、もう一度庭の薔薇ばらに目をやった。

「俺も恋人はいない」

 不意に千博が呟く。低く真剣な声音だった。驚いて顔を向けた梓に、彼はまっすぐに視線をそそぎながら言った。

「昔、君と別れてから一度もいない。君が忘れられなかった。本気で結婚を考えるくらい好きだったからね。あれは若気の至りじゃなかった」

 突然切り出され、梓は凍り付く。千博の表情は、かすかに悲しげに見えた。

「驚いたかもしれないけど、今日は君とその話をしたくて来た。梓と再会できたのは運命のような気がするから」

 心臓がひっくり返りそうになり、梓は弱々しい声で答えた。

「こ、困ります」
「困ってもいいから、少し時間をくれ。話だけでも最後まで聞いてほしい」

 意外な強引さに梓は身じろぎする。やわらかく丁寧なのに、あらがえない強さを秘めた言葉だった。
 ――そっか、大企業のCEOだもの、穏やかで優しいだけじゃない……よね。
 黙って話の続きを待つ梓に、千博は言う。

「今日食事に誘ったのも、仕事なんか関係なく、君と話す時間がほしかったからだ」

 確かに受け取ったメールには、仕事云々うんぬんのことなど、なにも書かれていなかった。
 うつむいた梓に、千博がたたみかける。

「馬鹿みたいだと思われるだろうけど、本当に、再会できたのは運命かもしれないと思ったんだ」
「い、いえ、あれは、たまたま坂本さんが、祖父たちが作った製品に目を留めてくださって」
「君はさっきからなぜ、そんなに気もそぞろなんだ?」

 梓を見つめたまま、千博が首をかしげる。

「それは、その、こんなお店来たことがないから、落ち着かなくて」
「……君くらい綺麗きれいなら、いくらでも連れてきてくれる人がいるだろうに。そういえばこの七年、君はなにをしていたの」

 ――子育てと祖父の会社の手伝いしかしておらず、貧乏の穴を埋めるために必死でした……
 やはり、気の利いた嘘は梓の口から出てこなかった。独身で働いている二十代の女性が、普段どんな生活をしているのかよくわかっていないので、なにも考えつかないのだ。


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