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第一章
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『俺は朝十時着の飛行機で帰ります! 早くりっちゃんに会いたい!』
チカからのメールを読み返し、利都はチカが降りてくるはずのゲートの前をうろうろしていた。
長期の海外出張に出ていた恋人との、一ヶ月ぶりの再会なのだ。
――私だって早く顔が見たいよ……!
落ち着かない気持ちで右往左往しながら、利都は辺りを見回した。早くチカに会いたくてたまらない。
もちろん利都だって、彼に会えない間ずっと引きこもっていたわけではない。
実家に帰って友だちと会ったり、両親と小旅行に出たり、会社の同僚とランチに行ったり、充実した時間を過ごしていたつもりだ。
でもこの一ヶ月は、大きく何かが欠けたように寂しかった。
――チカさんどこ?
実は、利都は飛行機が怖くて乗ったことがない。なので空港の仕組みもよくわからない。
落ち着かなく歩き回っていたその時、利都の肩がぽんと叩かれた。
「お嬢さん、お茶しない?」
聞き慣れない妙な声の男だった。
知らない男の人に声を掛けられることはよくあるのだが、そういうのはとても苦手だ。
利都はナンパしてきた男を追い払おうと、キッと眉を寄せて、利都なりの精一杯怖い顔で振り返る。
「プッ……すごい顔して、どうしたの」
そこに立っていたすらりとした男の姿に、利都は目を見張った。
絹のような明るい栗色の髪に、光に透けると緑色に輝くヘーゼル色の瞳。その辺の女性など太刀打ちも出来ないほど美しい顔立ちの男が、鼻をつまんで立っていたからだ。
「あ、あ……」
「ただいま、りっちゃん」
作り声で利都をからかった男……チカが、ぽかんとしている利都の頭を優しくなでた。
信じられない思いでその美しい人を見つめ、利都はクシャクシャの笑顔で彼の腕に飛びついた。
「おかえりなさい! もう、ひどい。何でからかうの?」
「だって、キョロキョロしてて可愛かったからさ……ついつい。ごめんね。迎えに来てくれてありがと」
小さなかばんを一つだけ持ったチカが、にっこり笑って利都の頭をもう一度撫でる。
長旅の疲れも見せぬ輝かしい笑顔に、怒るのも忘れて利都はうっとりと見とれてしまった。
見慣れたはずの恋人なのに、久々に見るチカはやはりとても綺麗で、眩しいくらいだ。
「あー、やっと日本についたー、やっと愛するハニーと一緒だー」
ぼんやりとチカに見とれていた利都は、くい、と手を引かれて我に返った。
「りっちゃん、空港でなにか食べない? 寝てたら機内食食べそこねちゃった」
「う、うん」
利都の返事に、チカがキラキラ輝く目を細めて優しく笑った。
吸い込まれそうな笑顔に、利都もつられて笑顔になる。
「指輪は?」
「し、してるよ……」
頬を染め、利都はチカから贈られた指輪をはめた手をそっと差し出した。
零れ落ちそうな光をたたえた大粒ダイヤのエタニティリングが、虹色に輝く。
「ん、OK。ちゃんとしててくれたなら俺も安心」
「ち、ちゃんとしてたよ……約束通りに」
利都は赤い顔でそう答えた。
こんな立派な指輪をチカのお願い通りにはめて会社に行き、どれだけ同僚に大騒ぎされたことか。
質問攻めにされたことを思い出すだけで恥ずかしい。
それに……。
「どうしたのりっちゃん、深刻な顔をして」
「ううん、お父さんがね、この指輪を見て拗ねちゃって大変だったの」
「そっか。来週ご挨拶に行くって言っておいたけど、会ってくれそうかな?」
「うーん」
利都の彼氏の話になると書斎にこもって出てこない、情けない父の姿を思い出して、利都は溜息を吐いた。
――どうしてお父さんは大きな体をしてるのに、あんなに子供っぽいんだろう……。
「お母さんはすごく喜んで、早くチカさんに会いたいって言ってるんだけど、その話になるとお父さんが書斎から出てこなくって」
だめだ。話していたら情けなくて悲しくなってきた。
母が『お父さんのことは、お母さんに任せなさい』と言ってくれているので、多分来週も閉じこもって出てこないなんてことはないはずなのだが。
「そっか。まあ何回かご挨拶に行けば会ってくれるよね」
チカの言葉に慌てて笑顔を浮かべ、利都は頷いた。あまり妙な心配を疲れているチカに掛けたくない。
「ね、飯食ったら俺の実家に付き合ってよ」
「えっ?」
意外なチカのセリフに、利都は目を丸くした。
チカの実家……というのは、日本でも有数の名家だ。なにしろチカは日本指折りの巨大企業グループである、澤菱グループの創業家一族、澤菱家の長男なのである。
そんな場所に行く気構えなど全くできていない。
今日も花柄のスカートにピンクのニットという、彼氏とのデート用の格好で来てしまったのに。
「え、そ、そんな予定なかったから緊張しちゃう……」
震える声でそう答えると、チカが吹き出して利都のおでこをつついた。
「平気だよ、それに俺んちなんてさぁ、爺さん、親父、俺、弟の男所帯だよ? まあむさ苦しいけど……いいじゃん。仕事の報告を爺さんにしたいからさ、ついでにりっちゃんのことも紹介したいんだ。うちの家族とこれから仲良くしてやって?」
「え、え、でもわたし、こんなかっこ……」
かちこちに固まって、利都は答えた。
――どうしよう、どうしよう、チカさんのご実家に行く心構えなんて全く無かった……!
「全然平気。今日の格好も可愛いよ。食べちゃいたいくらい可愛いのに。あーもう、可愛い!」
人目もはばからず、チカが利都をぎゅっと抱き寄せた。
美貌の王子様と、彼にしがみつかれている利都のことを、道行く人が振り返る。
利都は耳まで真っ赤になって、慌ててチカの体を押し返した。
「ひ、人前で抱きついちゃダメ!」
「なんでぇ? 俺一ヶ月もりっちゃん断ちしてて死にそうなのに」
「でもダメ……!」
チカが形の良い頬を膨らませ、ぐいと利都の手を引いた。
指と指を絡ませ、いじけた表情で利都に言う。
「じゃあ手をつなぐだけでいいや。行こ。俺なんか野菜っぽいものが食べたい」
利都は真っ赤になって俯いたまま、チカに手を引かれて歩き出した。
――ど、どうしよう……チカさんのご実家に行く心の準備なんて、全然なかったよ!
「ここが俺の実家。爺さんが鯉飼ってるから、後で一緒にエサやりしようよ」
チカがそう言って、長い長い塀の途中にある小さな通用門の鍵を開ける。
利都はあたりを見回し、ごくりと息を呑んだ。
都心の超一等地にある広大な敷地を区切る塀。その塀の向こうには森のような深い緑が広がっていた。
「ひ、広い庭ですね」
「だよね、都内とは思えないほど虫がいるんだよねー。俺虫嫌いなんだよね」
何でもない事のようにチカが言う。
確かに、都内とは思えない広さの庭だ。
観光用の日本庭園もかくやと思われるような美しい庭を横切って歩いた先に、古びた風情ある和風の家屋にたどり着いた。
チカがその建物の引き戸を遠慮無く開け、明るい声で言った。
「あー疲れた、ただいまー!」
チカが声を上げると、足音もなくスーツ姿の青年が現れ、見事な挙措で床に両膝をついて一礼した。
「おかえりなさいませ、寛親様」
利都はチカの背後にそっと隠れた。
一体何が始まるのだろう……。
「あ、峯岸さんお疲れ様です。お祖父様は?」
「御前はお部屋にいらっしゃいます」
「ありがとう、あ、おみやげが後で宅急便で届くからさ、家の皆で食べてくれる?」
「承知いたしました。ただいま御前に、寛親様がお帰りの旨をお伝えしてまいります」
再び青年が音も立てずに立ち上がり、すっと家の中に引っ込んでゆく。
利都はチカの背中に張り付いたまま、無言でその姿を見送る。
――だ、だれ……? あの人、お手伝いさんかな?
目をパチクリさせる利都を振り返り、チカが笑っていった。
「何びっくりしてるの? 今のは爺さんの秘書の峯岸さんだよ。おいで」
チカが気楽な口調で言って、上がり框に腰を下ろして靴を脱いだ。
利都も恐る恐る彼に従い、パンプスを脱いで木張りの廊下に立つ。
――本当に古そうなお家……なんだか、文化財みたい……。
もっともっとゴージャスな家に住んでいるのかとおもいきや、チカの実家はまるで田舎の祖父母の家のような懐かしい佇まいだった。ただし、相当な広さであることは間違いなさそうだったが。
「びっくりした? 俺んち古いんだよねぇ。建て替えしようしようって言ってるけどさぁ、なんか爺さんが思い入れがあるらしくって、なかなかね」
チカがそう言って、薄暗い廊下を歩いて行く。
長い歴史を感じさせる木造住宅を見渡し、利都はそっと溜息を吐いた。
――この家が、チカさんが生まれ育ったお家なんだ……。
もしかしたら、幼い頃のチカが、この廊下で遊んだり走り回ったりしたのかもしれない。
そう思うと、なんだかこの場所が少し愛おしく感じられる。
かなりの長さの廊下を歩き、チカがとある部屋の前で立ち止まった。
日本庭園を正面にした、日当たりの良さそうな部屋だ。ここなら、障子を開け放てば見事な庭を楽しめるだろう。
「お祖父様、寛親です」
チカがそう言って廊下に膝をつく。利都も慌ててペタンと座り込んだ。
「失礼します」
「どうぞ」
低い声が、部屋の中からそう答えた。
利都は緊張のあまり小さくなりながら、こくりと息を呑んだ。
チカが優雅な動作で襖を開け、立ち上がって利都を振り返った。
「おいで」
「は、はい、失礼致します…」
利都も、震える足でゆっくりとチカに従う。
部屋はそれほど広くなかった。小さな机をおいたその奥に、大柄な着物姿の老人が腰掛けている。
老人は眼鏡を取り上げて掛け、ゆっくりと利都たちの方を振り返った。
「おお、お帰り」
「ただいま、お祖父様。仕事の方は大体うまく行ったよ。後でお祖父様からもお礼の電話してもらえる?」
「英語でいいのか」
「うん、英語で大丈夫」
チカの言葉にうなずいた老人が、利都の方を向いた。
無表情の老人の眼力に気圧され、利都は身を縮める。
「……ほー、その子がお前のハニーか。清楚かわいい系だな。まあイケてるんじゃないか」
老人の言葉に、利都は耳を疑った。
険しい顔に似合わぬ言い回しが聞こえたような気がしたからだ。
「お祖父様、そんな言葉どこで覚えたの」
チカが呆れたように言い、笑顔で利都を見つめて優しい声で続けた。
「この前話したでしょ。俺が結婚考えてる彼女のりっちゃん。よろしくね」
「式は澤菱会館で良いか」
唐突な老人の言葉に、チカが肩をすくめる。
「何? いきなり式の話?」
「料理は大日本ホテルの後藤シェフにおまかせでいいか? お色直しは四回でいいか? たしかそのお嬢さんは、大都銀行の常務の娘だったな。大都の頭取も呼ぼう。総理も呼んでスピーチしてもらおう。あいつもそろそろ退陣だからな、最後に花を持たせて……」
矢継ぎ早に繰り出される老人の言葉を、チカが慌てて遮る。
「待って! 何でお祖父様ってば、勝手に俺の式のことまで考えてるの!」
「最近暇なんだ。お前は大船に乗った気持ちでいればいい」
「いや、船がデカすぎでしょ。結婚式のことはこれから二人で考えるからお祖父様は口出ししないで」
そう言って、チカがもう一度固まったままの利都を振り返った。
「おーい、りっちゃん、大丈夫だよ、この人俺のお祖父ちゃんだから」
「す、すみませ……」
緊張で真っ白になったまま利都は深々と頭を下げた。
「初めまして、今井と申します」
「はいよ、よろしくな、りっちゃん。私は澤菱巌、そこにおるチャラ男の祖父だ」
――え、今……チカさんのお祖父様は何を……?
利都はぷるぷる震えながら、そっと顔を起こす。
「茶でも持ってこさせるか。りっちゃんスイーツは何がほしい?」
――す、スイーツ……?
「ねえ待って、お祖父様、どこでそんな言葉覚えてくるの?」
チカが眉根を寄せ、妙な単語を繰り出す老人に尋ねた。
「峯岸に調べさせて練習しておる。現代語はやはり短縮表現としては洗練されとるな、なあチャラ男」
「まって。俺チャラ男じゃないんだけど。さっきから何言ってるのお祖父様」
「うるさい! 儂とて若い娘とは仲良うしたいんじゃ! 黙っておれ」
雷のような声でチカを一喝し、老人が利都に向かって微笑んだ。
「なあ、りっちゃん、わしのことは巌くんと呼んでくれて構わんぞ」
あまりの迫力に凍りついていた利都は、ぱちぱちと瞬きをしてもう一度深々と頭を下げた。
「あ、ありがとう……ございます……」
従順な利都の態度に満足したのか、脇息にもたれかかった巌が満足気に目を細めた。
「まあ、気楽にしなさい。これから長い付き合いだ。うちのチャラ男がお前さんの親父さんに結婚を許してもらえればの話だがな。聞けば大都銀行の今井常務は、随分と子煩悩で有名なようだが」
老人の言葉に、チカが言った。
「お祖父様、もうりっちゃんのお父さんのこと調べさせたの」
「さあ、別にぃ?」
すっとぼけた口調で老人が言い、大きな音を立てて手を叩く。
「だれか茶を持て。あとあれだ。まかろんも持ってきてくれ。チカの未来の嫁としばらく話すことにする」
チカからのメールを読み返し、利都はチカが降りてくるはずのゲートの前をうろうろしていた。
長期の海外出張に出ていた恋人との、一ヶ月ぶりの再会なのだ。
――私だって早く顔が見たいよ……!
落ち着かない気持ちで右往左往しながら、利都は辺りを見回した。早くチカに会いたくてたまらない。
もちろん利都だって、彼に会えない間ずっと引きこもっていたわけではない。
実家に帰って友だちと会ったり、両親と小旅行に出たり、会社の同僚とランチに行ったり、充実した時間を過ごしていたつもりだ。
でもこの一ヶ月は、大きく何かが欠けたように寂しかった。
――チカさんどこ?
実は、利都は飛行機が怖くて乗ったことがない。なので空港の仕組みもよくわからない。
落ち着かなく歩き回っていたその時、利都の肩がぽんと叩かれた。
「お嬢さん、お茶しない?」
聞き慣れない妙な声の男だった。
知らない男の人に声を掛けられることはよくあるのだが、そういうのはとても苦手だ。
利都はナンパしてきた男を追い払おうと、キッと眉を寄せて、利都なりの精一杯怖い顔で振り返る。
「プッ……すごい顔して、どうしたの」
そこに立っていたすらりとした男の姿に、利都は目を見張った。
絹のような明るい栗色の髪に、光に透けると緑色に輝くヘーゼル色の瞳。その辺の女性など太刀打ちも出来ないほど美しい顔立ちの男が、鼻をつまんで立っていたからだ。
「あ、あ……」
「ただいま、りっちゃん」
作り声で利都をからかった男……チカが、ぽかんとしている利都の頭を優しくなでた。
信じられない思いでその美しい人を見つめ、利都はクシャクシャの笑顔で彼の腕に飛びついた。
「おかえりなさい! もう、ひどい。何でからかうの?」
「だって、キョロキョロしてて可愛かったからさ……ついつい。ごめんね。迎えに来てくれてありがと」
小さなかばんを一つだけ持ったチカが、にっこり笑って利都の頭をもう一度撫でる。
長旅の疲れも見せぬ輝かしい笑顔に、怒るのも忘れて利都はうっとりと見とれてしまった。
見慣れたはずの恋人なのに、久々に見るチカはやはりとても綺麗で、眩しいくらいだ。
「あー、やっと日本についたー、やっと愛するハニーと一緒だー」
ぼんやりとチカに見とれていた利都は、くい、と手を引かれて我に返った。
「りっちゃん、空港でなにか食べない? 寝てたら機内食食べそこねちゃった」
「う、うん」
利都の返事に、チカがキラキラ輝く目を細めて優しく笑った。
吸い込まれそうな笑顔に、利都もつられて笑顔になる。
「指輪は?」
「し、してるよ……」
頬を染め、利都はチカから贈られた指輪をはめた手をそっと差し出した。
零れ落ちそうな光をたたえた大粒ダイヤのエタニティリングが、虹色に輝く。
「ん、OK。ちゃんとしててくれたなら俺も安心」
「ち、ちゃんとしてたよ……約束通りに」
利都は赤い顔でそう答えた。
こんな立派な指輪をチカのお願い通りにはめて会社に行き、どれだけ同僚に大騒ぎされたことか。
質問攻めにされたことを思い出すだけで恥ずかしい。
それに……。
「どうしたのりっちゃん、深刻な顔をして」
「ううん、お父さんがね、この指輪を見て拗ねちゃって大変だったの」
「そっか。来週ご挨拶に行くって言っておいたけど、会ってくれそうかな?」
「うーん」
利都の彼氏の話になると書斎にこもって出てこない、情けない父の姿を思い出して、利都は溜息を吐いた。
――どうしてお父さんは大きな体をしてるのに、あんなに子供っぽいんだろう……。
「お母さんはすごく喜んで、早くチカさんに会いたいって言ってるんだけど、その話になるとお父さんが書斎から出てこなくって」
だめだ。話していたら情けなくて悲しくなってきた。
母が『お父さんのことは、お母さんに任せなさい』と言ってくれているので、多分来週も閉じこもって出てこないなんてことはないはずなのだが。
「そっか。まあ何回かご挨拶に行けば会ってくれるよね」
チカの言葉に慌てて笑顔を浮かべ、利都は頷いた。あまり妙な心配を疲れているチカに掛けたくない。
「ね、飯食ったら俺の実家に付き合ってよ」
「えっ?」
意外なチカのセリフに、利都は目を丸くした。
チカの実家……というのは、日本でも有数の名家だ。なにしろチカは日本指折りの巨大企業グループである、澤菱グループの創業家一族、澤菱家の長男なのである。
そんな場所に行く気構えなど全くできていない。
今日も花柄のスカートにピンクのニットという、彼氏とのデート用の格好で来てしまったのに。
「え、そ、そんな予定なかったから緊張しちゃう……」
震える声でそう答えると、チカが吹き出して利都のおでこをつついた。
「平気だよ、それに俺んちなんてさぁ、爺さん、親父、俺、弟の男所帯だよ? まあむさ苦しいけど……いいじゃん。仕事の報告を爺さんにしたいからさ、ついでにりっちゃんのことも紹介したいんだ。うちの家族とこれから仲良くしてやって?」
「え、え、でもわたし、こんなかっこ……」
かちこちに固まって、利都は答えた。
――どうしよう、どうしよう、チカさんのご実家に行く心構えなんて全く無かった……!
「全然平気。今日の格好も可愛いよ。食べちゃいたいくらい可愛いのに。あーもう、可愛い!」
人目もはばからず、チカが利都をぎゅっと抱き寄せた。
美貌の王子様と、彼にしがみつかれている利都のことを、道行く人が振り返る。
利都は耳まで真っ赤になって、慌ててチカの体を押し返した。
「ひ、人前で抱きついちゃダメ!」
「なんでぇ? 俺一ヶ月もりっちゃん断ちしてて死にそうなのに」
「でもダメ……!」
チカが形の良い頬を膨らませ、ぐいと利都の手を引いた。
指と指を絡ませ、いじけた表情で利都に言う。
「じゃあ手をつなぐだけでいいや。行こ。俺なんか野菜っぽいものが食べたい」
利都は真っ赤になって俯いたまま、チカに手を引かれて歩き出した。
――ど、どうしよう……チカさんのご実家に行く心の準備なんて、全然なかったよ!
「ここが俺の実家。爺さんが鯉飼ってるから、後で一緒にエサやりしようよ」
チカがそう言って、長い長い塀の途中にある小さな通用門の鍵を開ける。
利都はあたりを見回し、ごくりと息を呑んだ。
都心の超一等地にある広大な敷地を区切る塀。その塀の向こうには森のような深い緑が広がっていた。
「ひ、広い庭ですね」
「だよね、都内とは思えないほど虫がいるんだよねー。俺虫嫌いなんだよね」
何でもない事のようにチカが言う。
確かに、都内とは思えない広さの庭だ。
観光用の日本庭園もかくやと思われるような美しい庭を横切って歩いた先に、古びた風情ある和風の家屋にたどり着いた。
チカがその建物の引き戸を遠慮無く開け、明るい声で言った。
「あー疲れた、ただいまー!」
チカが声を上げると、足音もなくスーツ姿の青年が現れ、見事な挙措で床に両膝をついて一礼した。
「おかえりなさいませ、寛親様」
利都はチカの背後にそっと隠れた。
一体何が始まるのだろう……。
「あ、峯岸さんお疲れ様です。お祖父様は?」
「御前はお部屋にいらっしゃいます」
「ありがとう、あ、おみやげが後で宅急便で届くからさ、家の皆で食べてくれる?」
「承知いたしました。ただいま御前に、寛親様がお帰りの旨をお伝えしてまいります」
再び青年が音も立てずに立ち上がり、すっと家の中に引っ込んでゆく。
利都はチカの背中に張り付いたまま、無言でその姿を見送る。
――だ、だれ……? あの人、お手伝いさんかな?
目をパチクリさせる利都を振り返り、チカが笑っていった。
「何びっくりしてるの? 今のは爺さんの秘書の峯岸さんだよ。おいで」
チカが気楽な口調で言って、上がり框に腰を下ろして靴を脱いだ。
利都も恐る恐る彼に従い、パンプスを脱いで木張りの廊下に立つ。
――本当に古そうなお家……なんだか、文化財みたい……。
もっともっとゴージャスな家に住んでいるのかとおもいきや、チカの実家はまるで田舎の祖父母の家のような懐かしい佇まいだった。ただし、相当な広さであることは間違いなさそうだったが。
「びっくりした? 俺んち古いんだよねぇ。建て替えしようしようって言ってるけどさぁ、なんか爺さんが思い入れがあるらしくって、なかなかね」
チカがそう言って、薄暗い廊下を歩いて行く。
長い歴史を感じさせる木造住宅を見渡し、利都はそっと溜息を吐いた。
――この家が、チカさんが生まれ育ったお家なんだ……。
もしかしたら、幼い頃のチカが、この廊下で遊んだり走り回ったりしたのかもしれない。
そう思うと、なんだかこの場所が少し愛おしく感じられる。
かなりの長さの廊下を歩き、チカがとある部屋の前で立ち止まった。
日本庭園を正面にした、日当たりの良さそうな部屋だ。ここなら、障子を開け放てば見事な庭を楽しめるだろう。
「お祖父様、寛親です」
チカがそう言って廊下に膝をつく。利都も慌ててペタンと座り込んだ。
「失礼します」
「どうぞ」
低い声が、部屋の中からそう答えた。
利都は緊張のあまり小さくなりながら、こくりと息を呑んだ。
チカが優雅な動作で襖を開け、立ち上がって利都を振り返った。
「おいで」
「は、はい、失礼致します…」
利都も、震える足でゆっくりとチカに従う。
部屋はそれほど広くなかった。小さな机をおいたその奥に、大柄な着物姿の老人が腰掛けている。
老人は眼鏡を取り上げて掛け、ゆっくりと利都たちの方を振り返った。
「おお、お帰り」
「ただいま、お祖父様。仕事の方は大体うまく行ったよ。後でお祖父様からもお礼の電話してもらえる?」
「英語でいいのか」
「うん、英語で大丈夫」
チカの言葉にうなずいた老人が、利都の方を向いた。
無表情の老人の眼力に気圧され、利都は身を縮める。
「……ほー、その子がお前のハニーか。清楚かわいい系だな。まあイケてるんじゃないか」
老人の言葉に、利都は耳を疑った。
険しい顔に似合わぬ言い回しが聞こえたような気がしたからだ。
「お祖父様、そんな言葉どこで覚えたの」
チカが呆れたように言い、笑顔で利都を見つめて優しい声で続けた。
「この前話したでしょ。俺が結婚考えてる彼女のりっちゃん。よろしくね」
「式は澤菱会館で良いか」
唐突な老人の言葉に、チカが肩をすくめる。
「何? いきなり式の話?」
「料理は大日本ホテルの後藤シェフにおまかせでいいか? お色直しは四回でいいか? たしかそのお嬢さんは、大都銀行の常務の娘だったな。大都の頭取も呼ぼう。総理も呼んでスピーチしてもらおう。あいつもそろそろ退陣だからな、最後に花を持たせて……」
矢継ぎ早に繰り出される老人の言葉を、チカが慌てて遮る。
「待って! 何でお祖父様ってば、勝手に俺の式のことまで考えてるの!」
「最近暇なんだ。お前は大船に乗った気持ちでいればいい」
「いや、船がデカすぎでしょ。結婚式のことはこれから二人で考えるからお祖父様は口出ししないで」
そう言って、チカがもう一度固まったままの利都を振り返った。
「おーい、りっちゃん、大丈夫だよ、この人俺のお祖父ちゃんだから」
「す、すみませ……」
緊張で真っ白になったまま利都は深々と頭を下げた。
「初めまして、今井と申します」
「はいよ、よろしくな、りっちゃん。私は澤菱巌、そこにおるチャラ男の祖父だ」
――え、今……チカさんのお祖父様は何を……?
利都はぷるぷる震えながら、そっと顔を起こす。
「茶でも持ってこさせるか。りっちゃんスイーツは何がほしい?」
――す、スイーツ……?
「ねえ待って、お祖父様、どこでそんな言葉覚えてくるの?」
チカが眉根を寄せ、妙な単語を繰り出す老人に尋ねた。
「峯岸に調べさせて練習しておる。現代語はやはり短縮表現としては洗練されとるな、なあチャラ男」
「まって。俺チャラ男じゃないんだけど。さっきから何言ってるのお祖父様」
「うるさい! 儂とて若い娘とは仲良うしたいんじゃ! 黙っておれ」
雷のような声でチカを一喝し、老人が利都に向かって微笑んだ。
「なあ、りっちゃん、わしのことは巌くんと呼んでくれて構わんぞ」
あまりの迫力に凍りついていた利都は、ぱちぱちと瞬きをしてもう一度深々と頭を下げた。
「あ、ありがとう……ございます……」
従順な利都の態度に満足したのか、脇息にもたれかかった巌が満足気に目を細めた。
「まあ、気楽にしなさい。これから長い付き合いだ。うちのチャラ男がお前さんの親父さんに結婚を許してもらえればの話だがな。聞けば大都銀行の今井常務は、随分と子煩悩で有名なようだが」
老人の言葉に、チカが言った。
「お祖父様、もうりっちゃんのお父さんのこと調べさせたの」
「さあ、別にぃ?」
すっとぼけた口調で老人が言い、大きな音を立てて手を叩く。
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