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狼少女【ショートショート】
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森の奥に、病院とも研究所ともつかない建物があった。イレブン氏は駐車場に車を停め、その建物の中に入った。すると、受付の近くのソファに座っていた男が立ち上がった。
「あなたが催眠術師の……」
「はい。催眠術師のイレブンです」
「お待ちしておりました。こちらへどうぞ」
「彼女は――娘さんはどんな感じですか?」
建物の奥へ向かいながら、イレブン氏はそう尋ねた。男は沈痛な声で答える。
「それが、まだ2本足で立つことはおろか、喋ることすらできません」
男の娘は、まだ赤ん坊の頃に行方不明になった。懸命の捜索にもかかわらず、娘は見つからなかった。
しかし、それから6年以上が過ぎ、絶望しかけていた頃、男の家から数百キロも離れた山奥で娘が保護されたのだ。娘は裸で四つん這いのまま山を駆け回っており、その姿は野生の狼のようだったという。
狼に育てられた少女が発見されたというニュースは、たちまち全世界に広まった。変わり果てた姿ではあったが、もしやあれが自分の娘なのではないかと思った男は名乗り出て、DNA鑑定を受けた。
そして、その狼少女は男の実の娘だと判明した。男は娘を引き取り育てることにした。だが、決して服を着ようとせず、2本足で立つこともできず、喋ることもできない娘を持て余した男は、この研究機関に娘を預けることにしたのだ。しかし、医師や学者たちの治療にも関わらず、まだ娘は人間らしい振る舞いをできずにいるのだという。
そこで、男が藁にもすがる思いで呼び寄せたのが、イレブン氏だった。
イレブン氏は以前からテレビなどで、被験者に自分は動物だと思い込ませる催眠術を披露してきた。それとは逆のパターン、つまり自分を狼だと思い込んでいる娘に、自分は人間なのだという催眠術をかけてほしい、というのが今回の依頼だった。
「ここです」
男がドアを開けると、白い拘束服を着せられた少女がイレブン氏の目に飛び込んできた。
「あなた。その方が」
少女の傍に立っていた母親らしき女が、期待に満ちた表情でイレブン氏の方を見た。
「そうだ。イレブン氏だ。さあ、どうか娘に催眠術を……」
「分かりました。それでは、まずカーテンを閉め、部屋を暗くしてください。そして、あなた方は何があっても、私がいいと言うまで決して声を出さず、動かないでください」
イレブン氏の言葉通りに部屋が暗くされると、彼は持参した蝋燭に火を点け、部屋の隅に置いた。どうやら火が怖いらしく、少女は怯えた表情を見せた。それから、イレブン氏は小さなペンライトを取り出し、少女へ向けた。ペンライトを動かすと、少女の目がペンライトの灯りを追う。それを確認しつつ、少女の目を見つめながら、イレブン氏は延々と呪文を唱えた。
お前は人間だ、お前は人間だ、と何度も狼少女に言い聞かせる。狭い部屋の中には熱気がこもり、イレブン氏の額には汗が浮かんでいた。
そして、催眠術を始めてから1時間以上が過ぎた頃、奇跡が起こった。少女の目に知性の光が宿り、イレブン氏から少し離れたところにいた男と女を見て、こう呟いた。
「パ……パ……。マ……マ……」
「もういいですよ」
イレブン氏がそう言うと、男と女は娘の名を呼びながら駆け寄り、思い切り娘を抱き締めた。二人の目からは涙が溢れていた。
「パパ! ママ!」
そう呼びかける少女の目からも、涙がこぼれ落ちた。
「イレブンさん。本当にありがとうございました。あの、これは少ないですが……」
札束の入った封筒を渡そうとした男を、イレブン氏は笑顔で制した。
「お礼は結構です。それは娘さんのために使ってあげてください」
娘が失踪していた6年間、私財を投じて娘を捜索していたせいで、男は負債を抱えていた。そのことをイレブン氏は知っていたので、謝礼を固辞した。
これこそが人間らしい振る舞いというものなのだ、と思いながら。
――もちろん、イレブン氏は知らなかった。元狼少女も、その両親も知らなかった。研究機関の医師も学者も、それどころかこの星にいる数十億の全「人類」が知らなかった。
自分たちが、本当は人間ではないことを。
約1万年前にこの星を訪れた本物の人間たちにより、ちょっとした気まぐれで「お前は人間だ」と催眠術をかけられた、哀れな猿の子孫に過ぎないことを……。
【了】
「あなたが催眠術師の……」
「はい。催眠術師のイレブンです」
「お待ちしておりました。こちらへどうぞ」
「彼女は――娘さんはどんな感じですか?」
建物の奥へ向かいながら、イレブン氏はそう尋ねた。男は沈痛な声で答える。
「それが、まだ2本足で立つことはおろか、喋ることすらできません」
男の娘は、まだ赤ん坊の頃に行方不明になった。懸命の捜索にもかかわらず、娘は見つからなかった。
しかし、それから6年以上が過ぎ、絶望しかけていた頃、男の家から数百キロも離れた山奥で娘が保護されたのだ。娘は裸で四つん這いのまま山を駆け回っており、その姿は野生の狼のようだったという。
狼に育てられた少女が発見されたというニュースは、たちまち全世界に広まった。変わり果てた姿ではあったが、もしやあれが自分の娘なのではないかと思った男は名乗り出て、DNA鑑定を受けた。
そして、その狼少女は男の実の娘だと判明した。男は娘を引き取り育てることにした。だが、決して服を着ようとせず、2本足で立つこともできず、喋ることもできない娘を持て余した男は、この研究機関に娘を預けることにしたのだ。しかし、医師や学者たちの治療にも関わらず、まだ娘は人間らしい振る舞いをできずにいるのだという。
そこで、男が藁にもすがる思いで呼び寄せたのが、イレブン氏だった。
イレブン氏は以前からテレビなどで、被験者に自分は動物だと思い込ませる催眠術を披露してきた。それとは逆のパターン、つまり自分を狼だと思い込んでいる娘に、自分は人間なのだという催眠術をかけてほしい、というのが今回の依頼だった。
「ここです」
男がドアを開けると、白い拘束服を着せられた少女がイレブン氏の目に飛び込んできた。
「あなた。その方が」
少女の傍に立っていた母親らしき女が、期待に満ちた表情でイレブン氏の方を見た。
「そうだ。イレブン氏だ。さあ、どうか娘に催眠術を……」
「分かりました。それでは、まずカーテンを閉め、部屋を暗くしてください。そして、あなた方は何があっても、私がいいと言うまで決して声を出さず、動かないでください」
イレブン氏の言葉通りに部屋が暗くされると、彼は持参した蝋燭に火を点け、部屋の隅に置いた。どうやら火が怖いらしく、少女は怯えた表情を見せた。それから、イレブン氏は小さなペンライトを取り出し、少女へ向けた。ペンライトを動かすと、少女の目がペンライトの灯りを追う。それを確認しつつ、少女の目を見つめながら、イレブン氏は延々と呪文を唱えた。
お前は人間だ、お前は人間だ、と何度も狼少女に言い聞かせる。狭い部屋の中には熱気がこもり、イレブン氏の額には汗が浮かんでいた。
そして、催眠術を始めてから1時間以上が過ぎた頃、奇跡が起こった。少女の目に知性の光が宿り、イレブン氏から少し離れたところにいた男と女を見て、こう呟いた。
「パ……パ……。マ……マ……」
「もういいですよ」
イレブン氏がそう言うと、男と女は娘の名を呼びながら駆け寄り、思い切り娘を抱き締めた。二人の目からは涙が溢れていた。
「パパ! ママ!」
そう呼びかける少女の目からも、涙がこぼれ落ちた。
「イレブンさん。本当にありがとうございました。あの、これは少ないですが……」
札束の入った封筒を渡そうとした男を、イレブン氏は笑顔で制した。
「お礼は結構です。それは娘さんのために使ってあげてください」
娘が失踪していた6年間、私財を投じて娘を捜索していたせいで、男は負債を抱えていた。そのことをイレブン氏は知っていたので、謝礼を固辞した。
これこそが人間らしい振る舞いというものなのだ、と思いながら。
――もちろん、イレブン氏は知らなかった。元狼少女も、その両親も知らなかった。研究機関の医師も学者も、それどころかこの星にいる数十億の全「人類」が知らなかった。
自分たちが、本当は人間ではないことを。
約1万年前にこの星を訪れた本物の人間たちにより、ちょっとした気まぐれで「お前は人間だ」と催眠術をかけられた、哀れな猿の子孫に過ぎないことを……。
【了】
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