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後編
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「ナナ」
文彦は私の名前を呼び、立ち止まった。
「何?」
「ちょっとこっちへ」
文彦は近くの神社の境内に私を連れて行った。この時間の境内は無人で、静かだった。
「こんなところへ連れてきて、何のつもり?」
まさか愛の告白か? と、私は身構えた。
「このペンの先をよく見ろ」
文彦は胸ポケットからシャープペンシルを取り出し、それを振り子のように振った。
「ねえ、文彦――」
「いいから、ペンの動きに集中して」
ペンの動きを目で追っているうちに、頭がぼんやりしてきた。
――いいか、ナナ。俺が1、2、3と言って手を叩いたら元に戻るんだ。いいな?
遠くで文彦の声が聞こえた。
1、2、3。
どこかで何かが破裂するような音が聞こえた。
そして――。
ハッと気が付くと、目の前に制服姿の入谷文彦がいた。
私は状況が分からず、周囲を見回した。ここは、神社の境内だ。学校へ行く途中にこの前を通る。見ると、私も制服を着て鞄を持っていた。
これから学校へ行くところ……なのだろうか? それとも、学校から帰るところなのだろうか? どうも記憶が曖昧だ。
「えっと、私、何してたんだっけ」
「憶えてないか? 名前は言えるか?」
「文彦。ふざけてるの? それじゃあまるで――」
それじゃあまるで、記憶喪失にでもなっていたみたいじゃないか。そう言おうとして、まさに、先ほどまでの記憶がないことに気が付いた。
携帯電話で日付を確認すると、5月16日の朝だった。
おかしい。記憶が飛んでいる。私の認識では、今日は5月15日のはずなのに。
「もう一度聞くけど、名前は?」
文彦は真剣な表情だったので、私も真剣に答えることにした。
「佐々木原ナナ」
「年齢は?」
「14歳」
「好きな食べ物は?」
「カレーライス」
「嫌いな食べ物は?」
「プリン」
私は即答した。正確には、プリンそのものではなく、その上にあるカラメルソースが苦手なのだが。
「よし、戻ったみたいだな」
文彦は安心したような溜息をついた。
「戻った……?」
「ほら、昨日の放課後、学校の図書館で勉強してたときに催眠術の本を見つけただろ」
「ああ、うん。それは憶えてる。参考書のコーナーに紛れ込んでた奴だよね」
そうだ。私は昨日――5月15日の放課後に、受験生らしく図書館で勉強をしていた。そして古い催眠術の本を見つけ、面白がって文彦に見せたのだ。
「その本に載っている催眠術の本を試してみたんだよ。ナナが、自分が実験台になるから催眠術をかけてみてくれ、って言ったから」
「そして私は、好き嫌いを直すように催眠術をかけてくれ、って言った……?」
「そう。でも、学校の図書館だし、ナナの好きなカレーライスも嫌いなプリンも手に入らないから催眠術がかかったかどうか分からなかったし、催眠術をかけた後のナナの様子も普通だったから、油断してた。まさか、本当に好き嫌いが直っていたなんて」
説明されるうちに、記憶が整理されて、私は今朝からの出来事を思い出していた。
「私が突然プリンを食べるようになったら、そりゃあお母さんも英人もびっくりするよね」
「ああ。まあ、とにかく、戻ってよかった」
「あのさあ、文彦。あんた、もしかして催眠術の才能とかあるんじゃないの? 将来は催眠術師にでもなったら?」
「嫌だよ、そんな胡散臭い職業」
そう苦笑しながら、文彦は歩き出した。文彦の後を追い、私も神社を出る。
そこで、近所に住む高校生のお姉さんと出くわした。小学校の集団登校で一緒だったお姉さんだ。
「あれー? ナナちゃんにイレブンくん、2人して神社なんかで何やってたの? デート? ねえ、デートなの?」
お姉さんは嬉しそうにそう尋ねた。まるでオヤジである。
「そんなわけないでしょ。何でこんな奴とデートしないといけないんですか」
私はお姉さんを軽く睨みながら言った。
「イレブンって呼ぶのやめてください、って何回言ったら分かってくれるんですか」
文彦は溜息混じりに言った。
「いいじゃん、別に」
「もう同級生は誰もイレブンって呼んでないんですから、お姉さんもイレブンって呼ぶのやめてくださいよ」
入谷文彦という名前を縮めて「イレブン」というのが、文彦の小学生時代のニックネームだった。
「イレブン。そんなことより、早くしないと学校に遅刻するよ」
私はそう言いながら、走り出した。
「イレブンって言うな!」
文彦はそう叫びながら追いかけてきた。
以上が、後に歴史に名を刻むことになる天才催眠術師、イレブン氏の少年時代のエピソードである。
【了】
文彦は私の名前を呼び、立ち止まった。
「何?」
「ちょっとこっちへ」
文彦は近くの神社の境内に私を連れて行った。この時間の境内は無人で、静かだった。
「こんなところへ連れてきて、何のつもり?」
まさか愛の告白か? と、私は身構えた。
「このペンの先をよく見ろ」
文彦は胸ポケットからシャープペンシルを取り出し、それを振り子のように振った。
「ねえ、文彦――」
「いいから、ペンの動きに集中して」
ペンの動きを目で追っているうちに、頭がぼんやりしてきた。
――いいか、ナナ。俺が1、2、3と言って手を叩いたら元に戻るんだ。いいな?
遠くで文彦の声が聞こえた。
1、2、3。
どこかで何かが破裂するような音が聞こえた。
そして――。
ハッと気が付くと、目の前に制服姿の入谷文彦がいた。
私は状況が分からず、周囲を見回した。ここは、神社の境内だ。学校へ行く途中にこの前を通る。見ると、私も制服を着て鞄を持っていた。
これから学校へ行くところ……なのだろうか? それとも、学校から帰るところなのだろうか? どうも記憶が曖昧だ。
「えっと、私、何してたんだっけ」
「憶えてないか? 名前は言えるか?」
「文彦。ふざけてるの? それじゃあまるで――」
それじゃあまるで、記憶喪失にでもなっていたみたいじゃないか。そう言おうとして、まさに、先ほどまでの記憶がないことに気が付いた。
携帯電話で日付を確認すると、5月16日の朝だった。
おかしい。記憶が飛んでいる。私の認識では、今日は5月15日のはずなのに。
「もう一度聞くけど、名前は?」
文彦は真剣な表情だったので、私も真剣に答えることにした。
「佐々木原ナナ」
「年齢は?」
「14歳」
「好きな食べ物は?」
「カレーライス」
「嫌いな食べ物は?」
「プリン」
私は即答した。正確には、プリンそのものではなく、その上にあるカラメルソースが苦手なのだが。
「よし、戻ったみたいだな」
文彦は安心したような溜息をついた。
「戻った……?」
「ほら、昨日の放課後、学校の図書館で勉強してたときに催眠術の本を見つけただろ」
「ああ、うん。それは憶えてる。参考書のコーナーに紛れ込んでた奴だよね」
そうだ。私は昨日――5月15日の放課後に、受験生らしく図書館で勉強をしていた。そして古い催眠術の本を見つけ、面白がって文彦に見せたのだ。
「その本に載っている催眠術の本を試してみたんだよ。ナナが、自分が実験台になるから催眠術をかけてみてくれ、って言ったから」
「そして私は、好き嫌いを直すように催眠術をかけてくれ、って言った……?」
「そう。でも、学校の図書館だし、ナナの好きなカレーライスも嫌いなプリンも手に入らないから催眠術がかかったかどうか分からなかったし、催眠術をかけた後のナナの様子も普通だったから、油断してた。まさか、本当に好き嫌いが直っていたなんて」
説明されるうちに、記憶が整理されて、私は今朝からの出来事を思い出していた。
「私が突然プリンを食べるようになったら、そりゃあお母さんも英人もびっくりするよね」
「ああ。まあ、とにかく、戻ってよかった」
「あのさあ、文彦。あんた、もしかして催眠術の才能とかあるんじゃないの? 将来は催眠術師にでもなったら?」
「嫌だよ、そんな胡散臭い職業」
そう苦笑しながら、文彦は歩き出した。文彦の後を追い、私も神社を出る。
そこで、近所に住む高校生のお姉さんと出くわした。小学校の集団登校で一緒だったお姉さんだ。
「あれー? ナナちゃんにイレブンくん、2人して神社なんかで何やってたの? デート? ねえ、デートなの?」
お姉さんは嬉しそうにそう尋ねた。まるでオヤジである。
「そんなわけないでしょ。何でこんな奴とデートしないといけないんですか」
私はお姉さんを軽く睨みながら言った。
「イレブンって呼ぶのやめてください、って何回言ったら分かってくれるんですか」
文彦は溜息混じりに言った。
「いいじゃん、別に」
「もう同級生は誰もイレブンって呼んでないんですから、お姉さんもイレブンって呼ぶのやめてくださいよ」
入谷文彦という名前を縮めて「イレブン」というのが、文彦の小学生時代のニックネームだった。
「イレブン。そんなことより、早くしないと学校に遅刻するよ」
私はそう言いながら、走り出した。
「イレブンって言うな!」
文彦はそう叫びながら追いかけてきた。
以上が、後に歴史に名を刻むことになる天才催眠術師、イレブン氏の少年時代のエピソードである。
【了】
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