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本編‐終
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肺に溜まった空気が、絶望の熱で沸騰しそうだ。
アオの指の間から、エルの熱が、命が、絶え間なく溢れ出していく。ドクドクと脈打つ鼓動が掌に伝わるたび、それはアオが犯した取り返しのつかない罪のカウントダウンとなった。
「あ……あ、ああ……」
言葉にならない慟哭が、アオの喉を焼く。
エルの微笑みは、もはや静止画のように動かない。アオの頬に添えられていた手から力が抜け、コンクリートの上に力なく落ちた。その瞬間、世界からすべての音が消えた。
アオは、血塗れのパスポートを握りしめた。
そこにはエルが用意した「新しい名前」があった。アオではない名前。エルではない名前。どこにでもいる、普通の人間としての名前。
エルは最初から、自分を捨ててでも、アオを「空」へと解き放つ準備をしていたのだ。
(僕が、殺した)
(僕を世界で唯一愛してくれた人を、僕の、この手で)
真実という名の毒が、アオの脳を完膚なきまでに破壊した。
発狂――。
アオは天を仰ぎ、声を失った獣のように口を開いた。涙すら出ない。ただ、眼窩の奥が真っ赤に燃えるような痛みに支配される。
「おい、終わりだ」
監視役の冷徹な声が、廃ビルに響いた。
複数の銃口が、アオの背中に向けられる。逃げ場などどこにもない。だが、アオは逃げる気など毛頭なかった。
彼はエルの遺体を、まるで壊れ物を扱うように優しく抱き上げた。エルの頭を自分の胸に抱き込み、その冷たくなり始めた首筋に顔を埋める。
「……エル、ごめんね。すぐ、行くから」
アオはエルの耳元で、甘く、溶けるような声で囁いた。
その時。
エルの、すでに止まりかけていた睫毛が、微かに震えたような気がした。
心臓が止まる数秒前。
混濁する意識の縁で、二人の魂は確かに交わった。
アオには聞こえた。エルが最後、声にならない唇の動きで「愛している」と言ったのが。
エルには見えた。アオの瞳が、あの日初めて出会った時のような、澄み渡る青色に戻ったのが。
互いの絶望と愛が、一点の矛盾もなく溶け合った。
救いなど、どこにもない。
ただ、二人が望んだ「二人きりの世界」が、この死の瞬間にだけ完成した。
「撃て」
乾いた号令。
刹那、数条の火花が闇を裂いた。
衝撃がアオの背中を、胸を、貫いていく。激痛は一瞬で、すぐに心地よい浮遊感へと変わった。アオはエルの体を離さないよう、さらに強く腕に力を込めた。
二人の体は重なったまま、ゆっくりと冷たい床に倒れ込んだ。
アオの青い瞳から光が消え、エルの深い森のような瞳もまた、永遠の眠りに閉ざされた。
翌朝。
雨は上がり、空は皮肉なほどに澄み渡った青色をしていた。
廃ビルに、数人の男たちが現れた。彼らは事務的な手つきで、床に転がった二つの肉塊を確認する。
「死体はどうしますか?」
「上に報告は済んだ。記録も記憶も残すなと言われている。適当に処理しろ」
アオとエルの体は、粗末なブルーシートにひとまとめに包まれた。
彼らが命をかけて守ろうとした偽造パスポートは、靴で踏みにじられ、血に汚れたただの紙屑として、砂埃を被る。
煙突から昇る、一筋の灰色の煙。
それが、この世でたった二人、互いだけを神として生きた少年たちの最期だった。
彼らがかつて愛でた青い瞳も、その瞳が焦がれた本当の空も。
すべては熱の中に溶け、灰となり、名もなき風にさらわれて消えていく。
そこには救いも、奇跡も、後日談すらなかった。
アオの指の間から、エルの熱が、命が、絶え間なく溢れ出していく。ドクドクと脈打つ鼓動が掌に伝わるたび、それはアオが犯した取り返しのつかない罪のカウントダウンとなった。
「あ……あ、ああ……」
言葉にならない慟哭が、アオの喉を焼く。
エルの微笑みは、もはや静止画のように動かない。アオの頬に添えられていた手から力が抜け、コンクリートの上に力なく落ちた。その瞬間、世界からすべての音が消えた。
アオは、血塗れのパスポートを握りしめた。
そこにはエルが用意した「新しい名前」があった。アオではない名前。エルではない名前。どこにでもいる、普通の人間としての名前。
エルは最初から、自分を捨ててでも、アオを「空」へと解き放つ準備をしていたのだ。
(僕が、殺した)
(僕を世界で唯一愛してくれた人を、僕の、この手で)
真実という名の毒が、アオの脳を完膚なきまでに破壊した。
発狂――。
アオは天を仰ぎ、声を失った獣のように口を開いた。涙すら出ない。ただ、眼窩の奥が真っ赤に燃えるような痛みに支配される。
「おい、終わりだ」
監視役の冷徹な声が、廃ビルに響いた。
複数の銃口が、アオの背中に向けられる。逃げ場などどこにもない。だが、アオは逃げる気など毛頭なかった。
彼はエルの遺体を、まるで壊れ物を扱うように優しく抱き上げた。エルの頭を自分の胸に抱き込み、その冷たくなり始めた首筋に顔を埋める。
「……エル、ごめんね。すぐ、行くから」
アオはエルの耳元で、甘く、溶けるような声で囁いた。
その時。
エルの、すでに止まりかけていた睫毛が、微かに震えたような気がした。
心臓が止まる数秒前。
混濁する意識の縁で、二人の魂は確かに交わった。
アオには聞こえた。エルが最後、声にならない唇の動きで「愛している」と言ったのが。
エルには見えた。アオの瞳が、あの日初めて出会った時のような、澄み渡る青色に戻ったのが。
互いの絶望と愛が、一点の矛盾もなく溶け合った。
救いなど、どこにもない。
ただ、二人が望んだ「二人きりの世界」が、この死の瞬間にだけ完成した。
「撃て」
乾いた号令。
刹那、数条の火花が闇を裂いた。
衝撃がアオの背中を、胸を、貫いていく。激痛は一瞬で、すぐに心地よい浮遊感へと変わった。アオはエルの体を離さないよう、さらに強く腕に力を込めた。
二人の体は重なったまま、ゆっくりと冷たい床に倒れ込んだ。
アオの青い瞳から光が消え、エルの深い森のような瞳もまた、永遠の眠りに閉ざされた。
翌朝。
雨は上がり、空は皮肉なほどに澄み渡った青色をしていた。
廃ビルに、数人の男たちが現れた。彼らは事務的な手つきで、床に転がった二つの肉塊を確認する。
「死体はどうしますか?」
「上に報告は済んだ。記録も記憶も残すなと言われている。適当に処理しろ」
アオとエルの体は、粗末なブルーシートにひとまとめに包まれた。
彼らが命をかけて守ろうとした偽造パスポートは、靴で踏みにじられ、血に汚れたただの紙屑として、砂埃を被る。
煙突から昇る、一筋の灰色の煙。
それが、この世でたった二人、互いだけを神として生きた少年たちの最期だった。
彼らがかつて愛でた青い瞳も、その瞳が焦がれた本当の空も。
すべては熱の中に溶け、灰となり、名もなき風にさらわれて消えていく。
そこには救いも、奇跡も、後日談すらなかった。
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