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第1章 風の悪戯、運命の始まり
第1話 【略奪】婚約者を待つ夜、現れたのは
沈丁花の香りが、春の宵の湿った空気に溶けて、甘く漂っている。 大納言家の姫、香子は、邸の奥でじっとしていることができず、侍女の目を盗んで裏門のすぐ側まで足を進めていた。
脳裏に浮かぶのは、婚約者である中将・源頼嗣(みなもとのよりつぐ)の穏やかな微笑みだ。 彼は皇族の血を引きながらも、その立ち居振る舞いはどこまでも優しく、高貴そのもの。少しだけ垂れた慈愛に満ちた目元を思い出すたび、香子の心には春の日だまりのような温かさが灯る。 彼との文(ふみ)のやり取りは、引っ込み思案な香子にとって、唯一自分をさらけ出せる大切なひとときだった。
(中将様は、このような私をいつも慈しんでくださる……。今宵も、早くあの方にお会いしたい)
その時、一陣の風が吹き抜け、御簾の代わりをしていた柳の枝を大きく揺らした。 気が付くと、門の前の薄闇の中に、一人の男が立っている。
「――中将様?」
待ちわびた恋人だと疑わなかった香子が、期待に胸を膨らませて一歩踏み出した、その瞬間。 男がゆっくりと顔を上げた。
そこにいたのは、優雅な中将とは正反対の、肌を刺すような威圧感を放つ男だった。 粗末な直衣を纏っていても隠しきれぬ、圧倒的な存在感。そして、すべてを支配するかのような傲慢な眼差し。 春の宵の温もりを一瞬で凍りつかせるような、冷たくも激しい熱を帯びた瞳が、香子を真っ向から捉えた。
「…………」
香子の思考が白く染まる。沈みゆく陽光が、影を不気味に長く引き伸ばす。逃げ場を失った彼女の白い喉元を、薄闇が這うように照らし出していた。
艶やかな黒髪が風に乱れ、桃色の唇が驚きにわずかに開いている。 数秒、あるいは永遠にも感じられる沈黙。 若者の瞳の奥に、じりり、と熱い火が灯るのを香子は見た。
「……お前は、大納言の姫か」
低く、しかし鈴の音のように清澄な声が響く。 ハッと我に返った香子は、震える手で傍らの扇を掴み、顔を覆い隠した。心臓が、耳の裏側で早鐘を打っている。
「……し、失礼いたしました。どなたかは存じ上げませぬが、このような……」
「隠すな」
遮る声には、抗いがたい威厳があった。 香子が身をすくませる暇もなく、階段を駆け上がってきた足音が近づく。 次の瞬間、顔を隠していた扇が、強い力で、しかし迷いのない指先によって奪い去られた。
「あ……」
剥き出しになった視線の先で、若者は不敵な笑みを浮かべていた。 節くれだった大きな手が、香子の顎を強引に持ち上げる。 熱い。男の体温というものを、香子はこの時初めて知った。
「……そんなに必死な顔をして、誰を待っている。まさか、男を迎え入れる準備でもしていたのか?」
男の瞳に宿る、ぎらついた独占欲。 彼は香子が誰を待っているのかは知らない。だが、彼女から漂う「待ちわびる女」の空気に、理屈抜きの不快感を覚えているようだ。
香子は言葉を失い、ただ彼の熱に浮かされたように見上げることしかできなかった。 それは、穏やかな恋しか知らなかった彼女の日常が、根底から崩れ去る音のようだった。
奪われた扇の代わりに、香子はせめてもの抵抗として、着物の長い袖を顔の前に引き寄せた。
「お……おやめください。はしたない……」
震える声で訴えるが、若者は一歩も引こうとしない。むしろ、香子の細い手首を掴むと、その袖をゆっくりと、しかし抗いようのない力で引き下げた。 至近距離で交わる視線。 若者の瞳は、春の宵の闇を溶かし込んだように深く、それでいて底知れぬ熱を孕んでいる。
「何がはしたない。見目麗しいものを美しいと愛でて何が悪い」
傲岸不遜な物言いに、香子は息を詰める。中将・頼嗣ならば、決してこのような強引な真似はしない。彼はいつも三歩下がり、香子の心に土足で踏み込むような真似はしなかった。
「……そんな顔をして、誰を待っている。男か」
唐突な問いに、香子の肩がびくりと跳ねた。 なぜ、今日初めて会ったばかりのこの若者が、自分の心の奥底を見透かしたようなことを言うのか。問い返す勇気もなく、香子はただ、唇を噛んで俯く。
「「……な、何故そのようなことをお聞きになるのです」
「答えろ。お前のその熱い体温(ねつ)を、誰に捧げるつもりだ」
詰問する声は、先ほどよりも一段低く、重い。 若者の鋭い眼差しは、香子のわずかな動揺すら逃さじと、その顔にねっとりと絡みついている。 香子は逃げるように視線を泳がせた。
震える声で精一杯拒絶するが、顎を捉える若者の指先は微動だにしない。 香子は、目の前の男が放つ「抗えぬ支配者の気配」に気圧され、ただ身をすくめることしかできなかった。 若者は香子の瞳の奥を覗き込むように顔を近づけると、獲物を追い詰めるような低い声で囁いた。
脳裏に浮かぶのは、婚約者である中将・源頼嗣(みなもとのよりつぐ)の穏やかな微笑みだ。 彼は皇族の血を引きながらも、その立ち居振る舞いはどこまでも優しく、高貴そのもの。少しだけ垂れた慈愛に満ちた目元を思い出すたび、香子の心には春の日だまりのような温かさが灯る。 彼との文(ふみ)のやり取りは、引っ込み思案な香子にとって、唯一自分をさらけ出せる大切なひとときだった。
(中将様は、このような私をいつも慈しんでくださる……。今宵も、早くあの方にお会いしたい)
その時、一陣の風が吹き抜け、御簾の代わりをしていた柳の枝を大きく揺らした。 気が付くと、門の前の薄闇の中に、一人の男が立っている。
「――中将様?」
待ちわびた恋人だと疑わなかった香子が、期待に胸を膨らませて一歩踏み出した、その瞬間。 男がゆっくりと顔を上げた。
そこにいたのは、優雅な中将とは正反対の、肌を刺すような威圧感を放つ男だった。 粗末な直衣を纏っていても隠しきれぬ、圧倒的な存在感。そして、すべてを支配するかのような傲慢な眼差し。 春の宵の温もりを一瞬で凍りつかせるような、冷たくも激しい熱を帯びた瞳が、香子を真っ向から捉えた。
「…………」
香子の思考が白く染まる。沈みゆく陽光が、影を不気味に長く引き伸ばす。逃げ場を失った彼女の白い喉元を、薄闇が這うように照らし出していた。
艶やかな黒髪が風に乱れ、桃色の唇が驚きにわずかに開いている。 数秒、あるいは永遠にも感じられる沈黙。 若者の瞳の奥に、じりり、と熱い火が灯るのを香子は見た。
「……お前は、大納言の姫か」
低く、しかし鈴の音のように清澄な声が響く。 ハッと我に返った香子は、震える手で傍らの扇を掴み、顔を覆い隠した。心臓が、耳の裏側で早鐘を打っている。
「……し、失礼いたしました。どなたかは存じ上げませぬが、このような……」
「隠すな」
遮る声には、抗いがたい威厳があった。 香子が身をすくませる暇もなく、階段を駆け上がってきた足音が近づく。 次の瞬間、顔を隠していた扇が、強い力で、しかし迷いのない指先によって奪い去られた。
「あ……」
剥き出しになった視線の先で、若者は不敵な笑みを浮かべていた。 節くれだった大きな手が、香子の顎を強引に持ち上げる。 熱い。男の体温というものを、香子はこの時初めて知った。
「……そんなに必死な顔をして、誰を待っている。まさか、男を迎え入れる準備でもしていたのか?」
男の瞳に宿る、ぎらついた独占欲。 彼は香子が誰を待っているのかは知らない。だが、彼女から漂う「待ちわびる女」の空気に、理屈抜きの不快感を覚えているようだ。
香子は言葉を失い、ただ彼の熱に浮かされたように見上げることしかできなかった。 それは、穏やかな恋しか知らなかった彼女の日常が、根底から崩れ去る音のようだった。
奪われた扇の代わりに、香子はせめてもの抵抗として、着物の長い袖を顔の前に引き寄せた。
「お……おやめください。はしたない……」
震える声で訴えるが、若者は一歩も引こうとしない。むしろ、香子の細い手首を掴むと、その袖をゆっくりと、しかし抗いようのない力で引き下げた。 至近距離で交わる視線。 若者の瞳は、春の宵の闇を溶かし込んだように深く、それでいて底知れぬ熱を孕んでいる。
「何がはしたない。見目麗しいものを美しいと愛でて何が悪い」
傲岸不遜な物言いに、香子は息を詰める。中将・頼嗣ならば、決してこのような強引な真似はしない。彼はいつも三歩下がり、香子の心に土足で踏み込むような真似はしなかった。
「……そんな顔をして、誰を待っている。男か」
唐突な問いに、香子の肩がびくりと跳ねた。 なぜ、今日初めて会ったばかりのこの若者が、自分の心の奥底を見透かしたようなことを言うのか。問い返す勇気もなく、香子はただ、唇を噛んで俯く。
「「……な、何故そのようなことをお聞きになるのです」
「答えろ。お前のその熱い体温(ねつ)を、誰に捧げるつもりだ」
詰問する声は、先ほどよりも一段低く、重い。 若者の鋭い眼差しは、香子のわずかな動揺すら逃さじと、その顔にねっとりと絡みついている。 香子は逃げるように視線を泳がせた。
震える声で精一杯拒絶するが、顎を捉える若者の指先は微動だにしない。 香子は、目の前の男が放つ「抗えぬ支配者の気配」に気圧され、ただ身をすくめることしかできなかった。 若者は香子の瞳の奥を覗き込むように顔を近づけると、獲物を追い詰めるような低い声で囁いた。
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