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第1章 風の悪戯、運命の始まり
第2話 「まだ誰のものでもない」奪われた扇
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「……ならば、これだけは答えろ。お前は既に、どこぞの男の妻(め)か?」
唐突で無遠慮な問いに、香子の肩がびくりと跳ねた。 門の外で恋人を待つという軽率な振る舞いを、この男は「夫を待つ女の姿」と見たのだろうか。
「……いいえ。……まだ、左様なことには……」
嘘をつくこともできず、香子はか細い声で事実を認めた。 その言葉を聞いた瞬間、若者の瞳の奥でギラリと、氷のような光が走るのを香子は見逃さなかった。
「……そうか。まだ、誰の物でもないというわけだ」
若者は掴んでいた香子の手首を離すと、手元に残っていた彼女の扇を、まるで愛しいものをなぞるように指先で辿った。 そして、勝ち誇ったような、残酷なほどに美しい微笑を浮かべる。
「決まっていないのだな。……ならば、まだ私のものだ」
「え……?」
香子が呆然と聞き返すより早く、若者はその場に扇をぽいと投げ捨てた。 彼は一度も振り返ることなく、風を孕んで翻る狩衣の裾をなびかせ、鮮やかな足取りで、夕闇が完全に塗り潰した通りへと、吸い込まれるように消えていく。
残されたのは、沈丁花の香りと、若者の指先が触れた手首に残る熱、そして、嵐の予感に震える香子の心だけだった。
「あの方は……一体……」
拾い上げた扇には、若者の体温が移っていた。
結局、その晩、待ちわびた恋人の牛車が門前に現れることはなかった。
「明日、明日こそ……」
届いた文には、近いうちに正式な契りを交わしたいと、切なる想いが綴られていた。 その夜、香子は几帳(きちょう)に守られた褥(しとね)の中で、なかなか寝付けずにいた。
乱れた心を鎮めようと高欄(こうらん)に寄りかかれば、薄雲の合間から顔を出した月が、彼女の白い肌をいっそう透明に透かし出している。
(明日、中将様がいらっしゃる……)
二年前、父が開いた和歌の会で、庭の隅にいた私に優しく声をかけてくださった頼嗣様。 「月が、お綺麗ですね」 その一言から始まった文のやり取り。香子の拙い歌にも、彼はいつも丁寧で、情愛の籠もった返歌をくれた。 あの方の妻になり、この邸に夜な夜な通っていただく。朝には、別れを惜しみながら後朝(きぬぎぬ)の文を待つ。そんな、水面のように静かで穏やかな幸せこそが、香子の望むすべてだった。
「……夫婦に、なるのね」
ぽつりと呟いた言葉が夜の静寂に溶け、香子の頬が熱く染まる。
けれど――。 目を閉じると、不意に、あの夕刻の衝撃が鮮明に蘇る。 顎を持ち上げた、あの男の指の熱。獲物を狩るような、ギラついた眼差し。
(あの方は、どこのどなただったのかしら……)
穏やかな恋しか知らなかった胸の奥が、中将様を想う時とは違う、鋭い痛みのような熱を帯びて疼いていた。
扇を奪い去り、自分の顎を掬い上げた、あの熱い指先。 中将の温もりとは質の違う、肌を焼くような、刺すような熱量。 その傲慢な振る舞いは、一歩間違えれば不敬ですらある。しかし、あの一切の躊躇(ためら)いを感じさせない立ち居振る舞いと、上質な織りの狩衣は、彼が凡百の貴族ではないことを物語っていた。
「……明日、中将様に伺ってみよう」
あのような、鷹のように鋭く、それでいてこの世のすべてを掌中に収めているかのような若き貴公子を、知らないはずがない。 自分を追い詰めるような視線の不気味さを、頼嗣の優しさで上書きしてしまいたかった。
やがて、まどろみが香子の意識を連れ去っていく。 香子はまだ知らない。 明日の晩、待ちわびているはずの「幸せな求婚」が、すでに無慈悲な権力によって、その根幹から塗り潰されていることを。
唐突で無遠慮な問いに、香子の肩がびくりと跳ねた。 門の外で恋人を待つという軽率な振る舞いを、この男は「夫を待つ女の姿」と見たのだろうか。
「……いいえ。……まだ、左様なことには……」
嘘をつくこともできず、香子はか細い声で事実を認めた。 その言葉を聞いた瞬間、若者の瞳の奥でギラリと、氷のような光が走るのを香子は見逃さなかった。
「……そうか。まだ、誰の物でもないというわけだ」
若者は掴んでいた香子の手首を離すと、手元に残っていた彼女の扇を、まるで愛しいものをなぞるように指先で辿った。 そして、勝ち誇ったような、残酷なほどに美しい微笑を浮かべる。
「決まっていないのだな。……ならば、まだ私のものだ」
「え……?」
香子が呆然と聞き返すより早く、若者はその場に扇をぽいと投げ捨てた。 彼は一度も振り返ることなく、風を孕んで翻る狩衣の裾をなびかせ、鮮やかな足取りで、夕闇が完全に塗り潰した通りへと、吸い込まれるように消えていく。
残されたのは、沈丁花の香りと、若者の指先が触れた手首に残る熱、そして、嵐の予感に震える香子の心だけだった。
「あの方は……一体……」
拾い上げた扇には、若者の体温が移っていた。
結局、その晩、待ちわびた恋人の牛車が門前に現れることはなかった。
「明日、明日こそ……」
届いた文には、近いうちに正式な契りを交わしたいと、切なる想いが綴られていた。 その夜、香子は几帳(きちょう)に守られた褥(しとね)の中で、なかなか寝付けずにいた。
乱れた心を鎮めようと高欄(こうらん)に寄りかかれば、薄雲の合間から顔を出した月が、彼女の白い肌をいっそう透明に透かし出している。
(明日、中将様がいらっしゃる……)
二年前、父が開いた和歌の会で、庭の隅にいた私に優しく声をかけてくださった頼嗣様。 「月が、お綺麗ですね」 その一言から始まった文のやり取り。香子の拙い歌にも、彼はいつも丁寧で、情愛の籠もった返歌をくれた。 あの方の妻になり、この邸に夜な夜な通っていただく。朝には、別れを惜しみながら後朝(きぬぎぬ)の文を待つ。そんな、水面のように静かで穏やかな幸せこそが、香子の望むすべてだった。
「……夫婦に、なるのね」
ぽつりと呟いた言葉が夜の静寂に溶け、香子の頬が熱く染まる。
けれど――。 目を閉じると、不意に、あの夕刻の衝撃が鮮明に蘇る。 顎を持ち上げた、あの男の指の熱。獲物を狩るような、ギラついた眼差し。
(あの方は、どこのどなただったのかしら……)
穏やかな恋しか知らなかった胸の奥が、中将様を想う時とは違う、鋭い痛みのような熱を帯びて疼いていた。
扇を奪い去り、自分の顎を掬い上げた、あの熱い指先。 中将の温もりとは質の違う、肌を焼くような、刺すような熱量。 その傲慢な振る舞いは、一歩間違えれば不敬ですらある。しかし、あの一切の躊躇(ためら)いを感じさせない立ち居振る舞いと、上質な織りの狩衣は、彼が凡百の貴族ではないことを物語っていた。
「……明日、中将様に伺ってみよう」
あのような、鷹のように鋭く、それでいてこの世のすべてを掌中に収めているかのような若き貴公子を、知らないはずがない。 自分を追い詰めるような視線の不気味さを、頼嗣の優しさで上書きしてしまいたかった。
やがて、まどろみが香子の意識を連れ去っていく。 香子はまだ知らない。 明日の晩、待ちわびているはずの「幸せな求婚」が、すでに無慈悲な権力によって、その根幹から塗り潰されていることを。
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