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第1章 風の悪戯、運命の始まり
第3話 冷徹な次期帝からの「強引な勅命」
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翌朝、香子は小鳥のさえずりと共に、心地よい緊張感の中で目を覚ました。 今夜、頼嗣がやってくる。そのことで頭がいっぱいだった香子は、朝の洗面を済ませた後も、どこか浮ついた足取りで身支度を整えていた。
しかし、その静寂を破ったのは、激しい足音だった。
「香子! 香子はどこだ!」
御簾を荒々しく撥ね退け、部屋に飛び込んできたのは、父・大納言であった。 いつもは泰然自若としている父の顔が、今は見たこともないほど真っ赤に上気し、額には脂汗さえ浮かんでいる。
「お父様……? まあ、そんなに慌てて。何事ですの?」
香子が首を傾げて問いかけると、大納言は娘の肩を掴まんばかりに身を乗り出した。
「中将どころではない! おぬし、香子……一体どこで、東宮様と接点を持ったのだ! 何か不敬な真似でもしたのか、それとも……何らかの形で、その御目に留まったのか!?」
「……東宮、様……?」
香子はぽかんと口を開けた。その、あまりにも浮世離れした尊い御名。自分のような引っ込み思案な姫が、一生関わることもないはずの、遥か雲の上の存在。
「お父様、何を仰っているのです。私のような者が、東宮様にお目にかかれるはずがございませんわ。」
「そうだとしたら、なぜこんなことが……。この文のどこを読んでも、お前を名指ししておいでなのだ!」
大納言が言葉に詰まり、震える手で持っていた文を見つめる。 そこへ、騒ぎを聞きつけた実母・可乃子(かのこ)が、幾重にも重なる衣の擦れる音をせわしなく立てて入ってきた。
「香子……落ち着いてお聞きなさい。これほどまでに激しい文、私も今まで見たことがございませんわ」
可乃子の表情は、夫である大納言よりもさらに切迫していた。 その手に握られていたのは、金泥で縁取られた、極めて格式高い文。しかし、そこに記された筆跡は、流麗ながらも紙を突き破らんばかりの力強さと、隠しきれぬ独占欲を孕んでいた。可乃子は香子の前に座ると、その震える声を抑えるようにして、文の内容を告げた。
「東宮様が……『今宵、お前を迎えに行く』と仰せなのです」
「先ほど、東宮殿より直々に仰せが下りました。近く行われる殿下の『元服の儀』――その儀式における、添臥(そいぶし)の役に、大納言家の姫・香子を指名する、と」
「……添臥……?」
香子の頭から血の気が引いていく。 それは、成人となる東宮の傍らに一夜寄り添い、その肌で「大人の契り」を教える極めて秘めやかな大役。
「そんな……。私は、中将様と……」
「中将殿との縁談など、この勅命の前では塵に等しい!」
大納言が悲鳴に近い声を上げた。
「東宮様は『あの大納言の娘でなければ、儀式には出ぬ』と駄々を……いえ、強いご意志を示されているのだ。これがどういう意味か分かるか? 拒めば、我が家は朝敵も同然。中将殿との話は、たった今、白紙になったのだ!」
「白紙……? 中将様との、約束が……?」
香子の脳裏に、昨日の庭先で出会ったあの若者の顔が閃光のように過った。
『決まっていないのだな。……ならば、まだ私のものだ』
あの不敵な笑み。獲物を狩るような眼差し。 香子の身体が、ガタガタと震え出した。まさか、あの無礼な若者が、この国の次なる主――東宮様だったというのか。
「存じ上げませぬ……私は、あのような方、存じ上げませぬ……!」
香子の悲痛な叫びも虚しく、邸の外では、東宮の使いが既に香子を迎え入れる準備を始めていた。
「……お母様、嫌……嫌でございます……」
香子は母、可乃子の膝に顔を埋め、幼子のように泣きじゃくった。可乃子の手も、娘の背を撫でながら微かに震えている。母親として、大切に育ててきた我が子が、本人の意思も無視され、牙を剥く虎のような権力の中枢へ放り込まれることに、言葉もないほどの恐怖を感じていた。
「あなた……なんとかなりませぬか。香子はこの通り、おとなしすぎる子にございます。内裏の激しい女の争いなど、耐えられるはずが……」
可乃子が縋るような視線を夫へ向ける。しかし、大納言の瞳に宿っていたのは、家族を案じる憂いではなく、ぎらぎらとした野心の灯火だった。
「何を泣いているのだ、香子! 泣いて済む話ではないと言っているだろう!」
大納言は、唾が飛ぶのも構わず声を荒らげ、畳を激しく叩いた。
「中将殿との話など、まだ内々のものに過ぎん。
それに比べて相手は東宮様だぞ!? 次代の帝だ!
香子はおとなしく心優しいゆえ、女御は務まるまいと、私が中将との縁談を進めていたが……東宮様が、わざわざお前を所望しておられるのだ。これほど名誉なことがあろうか!」
「名誉、だなんて……私は……」
「香子! 『添臥』の役を仰せつかったということは、つまり東宮様が大人になられるその瞬間に、最も近くにいるのはお前だということだ。一番古い女御として、そのまま入内し、御子(みこ)を授かる可能性が極めて高い!」
父の口から次々と飛び出す、生々しく、そして重圧に満ちた言葉の数々。
「まして、その御子が男児……東宮殿下にとっての第一皇子ともなれば、我が大納言家は未来永劫、栄華を極めることになるのだ! お前の腹一つに、この家の命運がかかっているのだぞ!」
女御。 懐妊。 男児。
それは十九歳の香子にとって、あまりにも生々しく、暴力的な響きを持って迫ってきた。あの若者の、熱を帯びた、そして冷徹な瞳を思い出す。 あの方に、抱かれる? あの方の、子を、私が……?
「……っ……」
目の前が、ぐにゃりと歪んだ。 父の鼻息荒い声が遠ざかり、代わりに、昨日の庭先で感じたあの沈丁花の香りが、肺の奥を締め付けるように蘇る。
「香子! 香子、しっかりなさい!」
可乃子の悲鳴のような声が響く。香子の意識は、逃げるように深い闇の底へと沈んでいった。
しかし、その静寂を破ったのは、激しい足音だった。
「香子! 香子はどこだ!」
御簾を荒々しく撥ね退け、部屋に飛び込んできたのは、父・大納言であった。 いつもは泰然自若としている父の顔が、今は見たこともないほど真っ赤に上気し、額には脂汗さえ浮かんでいる。
「お父様……? まあ、そんなに慌てて。何事ですの?」
香子が首を傾げて問いかけると、大納言は娘の肩を掴まんばかりに身を乗り出した。
「中将どころではない! おぬし、香子……一体どこで、東宮様と接点を持ったのだ! 何か不敬な真似でもしたのか、それとも……何らかの形で、その御目に留まったのか!?」
「……東宮、様……?」
香子はぽかんと口を開けた。その、あまりにも浮世離れした尊い御名。自分のような引っ込み思案な姫が、一生関わることもないはずの、遥か雲の上の存在。
「お父様、何を仰っているのです。私のような者が、東宮様にお目にかかれるはずがございませんわ。」
「そうだとしたら、なぜこんなことが……。この文のどこを読んでも、お前を名指ししておいでなのだ!」
大納言が言葉に詰まり、震える手で持っていた文を見つめる。 そこへ、騒ぎを聞きつけた実母・可乃子(かのこ)が、幾重にも重なる衣の擦れる音をせわしなく立てて入ってきた。
「香子……落ち着いてお聞きなさい。これほどまでに激しい文、私も今まで見たことがございませんわ」
可乃子の表情は、夫である大納言よりもさらに切迫していた。 その手に握られていたのは、金泥で縁取られた、極めて格式高い文。しかし、そこに記された筆跡は、流麗ながらも紙を突き破らんばかりの力強さと、隠しきれぬ独占欲を孕んでいた。可乃子は香子の前に座ると、その震える声を抑えるようにして、文の内容を告げた。
「東宮様が……『今宵、お前を迎えに行く』と仰せなのです」
「先ほど、東宮殿より直々に仰せが下りました。近く行われる殿下の『元服の儀』――その儀式における、添臥(そいぶし)の役に、大納言家の姫・香子を指名する、と」
「……添臥……?」
香子の頭から血の気が引いていく。 それは、成人となる東宮の傍らに一夜寄り添い、その肌で「大人の契り」を教える極めて秘めやかな大役。
「そんな……。私は、中将様と……」
「中将殿との縁談など、この勅命の前では塵に等しい!」
大納言が悲鳴に近い声を上げた。
「東宮様は『あの大納言の娘でなければ、儀式には出ぬ』と駄々を……いえ、強いご意志を示されているのだ。これがどういう意味か分かるか? 拒めば、我が家は朝敵も同然。中将殿との話は、たった今、白紙になったのだ!」
「白紙……? 中将様との、約束が……?」
香子の脳裏に、昨日の庭先で出会ったあの若者の顔が閃光のように過った。
『決まっていないのだな。……ならば、まだ私のものだ』
あの不敵な笑み。獲物を狩るような眼差し。 香子の身体が、ガタガタと震え出した。まさか、あの無礼な若者が、この国の次なる主――東宮様だったというのか。
「存じ上げませぬ……私は、あのような方、存じ上げませぬ……!」
香子の悲痛な叫びも虚しく、邸の外では、東宮の使いが既に香子を迎え入れる準備を始めていた。
「……お母様、嫌……嫌でございます……」
香子は母、可乃子の膝に顔を埋め、幼子のように泣きじゃくった。可乃子の手も、娘の背を撫でながら微かに震えている。母親として、大切に育ててきた我が子が、本人の意思も無視され、牙を剥く虎のような権力の中枢へ放り込まれることに、言葉もないほどの恐怖を感じていた。
「あなた……なんとかなりませぬか。香子はこの通り、おとなしすぎる子にございます。内裏の激しい女の争いなど、耐えられるはずが……」
可乃子が縋るような視線を夫へ向ける。しかし、大納言の瞳に宿っていたのは、家族を案じる憂いではなく、ぎらぎらとした野心の灯火だった。
「何を泣いているのだ、香子! 泣いて済む話ではないと言っているだろう!」
大納言は、唾が飛ぶのも構わず声を荒らげ、畳を激しく叩いた。
「中将殿との話など、まだ内々のものに過ぎん。
それに比べて相手は東宮様だぞ!? 次代の帝だ!
香子はおとなしく心優しいゆえ、女御は務まるまいと、私が中将との縁談を進めていたが……東宮様が、わざわざお前を所望しておられるのだ。これほど名誉なことがあろうか!」
「名誉、だなんて……私は……」
「香子! 『添臥』の役を仰せつかったということは、つまり東宮様が大人になられるその瞬間に、最も近くにいるのはお前だということだ。一番古い女御として、そのまま入内し、御子(みこ)を授かる可能性が極めて高い!」
父の口から次々と飛び出す、生々しく、そして重圧に満ちた言葉の数々。
「まして、その御子が男児……東宮殿下にとっての第一皇子ともなれば、我が大納言家は未来永劫、栄華を極めることになるのだ! お前の腹一つに、この家の命運がかかっているのだぞ!」
女御。 懐妊。 男児。
それは十九歳の香子にとって、あまりにも生々しく、暴力的な響きを持って迫ってきた。あの若者の、熱を帯びた、そして冷徹な瞳を思い出す。 あの方に、抱かれる? あの方の、子を、私が……?
「……っ……」
目の前が、ぐにゃりと歪んだ。 父の鼻息荒い声が遠ざかり、代わりに、昨日の庭先で感じたあの沈丁花の香りが、肺の奥を締め付けるように蘇る。
「香子! 香子、しっかりなさい!」
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