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第1章 風の悪戯、運命の始まり
第4話 逃げられない。宣耀殿へ
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遠のいていた意識が、冷たい水に浮上するようにゆっくりと戻ってくる。 必死に現実を拒もうとしても、耳に飛び込んできたのは、さらに激しさを増した両親の言い争う声だった。
「……あなた、もう一度よくお考えください! 添臥といえば、本来はお乳母(めのと)のような、経験のある年上の女性がひっそりと務める儀式ではございませんか。それを、あえて年若く未熟な香子を指名するなんて……!」
母、可乃子の必死の訴えだった。
「それに、最初の女御(正妻)の座は、左大臣家の麗子様で決まっていたはずです。あのようなお美しく誇り高い方を差し置いて、儀式の相手に香子を据えれば……左大臣家の恨みを買い、我が家の立場が危うくなります!」
娘を想う一心で、普段は控えめな母が、必死に家格の差という現実を盾に父へ反論している。
「バカ者が! 左大臣家の機嫌を恐れて、どうする!」
父の怒鳴り声が響く。
「左大臣家の不興など、後でいくらでも取り繕える。だが、次期帝となられる東宮様の不興を買う方が、よほど恐ろしいとは思わんのか! あの御方は一度決められたら、誰の言葉にも耳を貸さぬと評判なのだぞ。勅命を覆すなど、死を賜るも同然だ!」
「お乳母が務めるはずの慣習を壊してまで、東宮様は『香子を寄こせ』と仰っているのだぞ。これは単なる儀式ではない。麗子様を差し置いてでも、香子を一番近くに置きたいという、東宮様からの強引な愛の宣告なのだ!」
大納言の怒声が、響いた。
父の言葉は、冷酷なまでに正論だった。この国において、東宮の意志は天の意志。逆らう術など、この邸のどこにも存在しない。
「ですが、香子には荷が重すぎます……。あの子は、中将殿のような優しい方と添い遂げることだけを夢見ていたのです……」
「……東宮殿下は、あのお若さで容姿端麗、学業は優秀。剣技も並ぶ者なしと聞く。少し年上の麗子姫より、香子とは歳もぴったりだ。さすれば、睦み合うのも早かろう。御子の誕生も……それほど遠い話ではあるまい」
大納言は、もはや妻の言葉など聞いていなかった。独り言のようにぶつぶつと、指を折って損得を数えている。その声には、香子を「娘」ではなく、最高級の「献上品」として扱うような冷え冷えとした打算が混じっていた。
(ああ…………)
香子は、畳に落ちた自分の涙が、じわりと生地に染み込んでいくのをぼんやりと見つめていた。 昨日までは、中将・頼嗣と共に歩む、陽だまりのような未来があったはずだった。 二人で歌を詠み、季節の移ろいを愛で、穏やかに老いていく。そんなささやかな幸せが、たった一昼夜で、嵐に毟り取られる花びらのように散ってしまった。
(東宮様……。あの方は、私の心を壊してまで、
何を手に入れたいとおっしゃるの……?)
あの若々しくも残酷な瞳。 獲物を追い詰めることを楽しむような、あの不敵な笑み。 香子の頬を、再び熱い涙が伝い落ちる。
逃げられない。 もう、あの鷹の爪からは。
その時、邸の門の外から、大勢の足音と、牛車の軋む音が聞こえてきた。迎えが――東宮からの、逃れられぬ「招き」が到着したのだ。
「……香子、見なさい。これが、東宮様の『力』というものですよ」
母・可乃子の震える声に促され、香子は重い瞼を持ち上げた。 部屋の広間には、溢れんばかりの品々が並べられていた。 透き通るような白磁の器、異国の匂いがする沈香、そして、目が眩むほど鮮やかな紅梅匂(こうばいにおい)の織物。それら一つひとつが、大納言家の一年分の暮らしを容易く凌駕するほどの価値を放っている。
「おお、これは素晴らしい。左大臣家の姫を差し置いて、これほどの厚遇……。香子、お前は我が家の救世主だ!」
父・大納言は、もはや香子の涙など目に入らぬ様子で、贈り物の目録を指でなぞり、弾むような足取りで自身の正装を整えに下がっていった。 残された香子は、届けられた品々の中に、一際異彩を放つ一通の結び文を見つけた。
(……中将様の文とは、何もかもが違う……)
頼嗣の文は、いつも薄い香を焚き染めた上品な料紙に、控えめな筆致で綴られていた。 だが、目の前にあるのは、燃えるような紅(くれない)の紙。手に取れば、体温を奪われるような錯覚に陥るほど、強い龍脳(りゅうのう)の香りが立ち込める。
香子は震える指先で、その文を解いた。
『忍びかね 露の命の 絶えぬ間に 我が物となれ 雲の上人』 (あなたの美しさに、私の命は今にも絶えそうだ。露のように消えてしまう前に、私のものになれ、雲の上の人よ)
「……っ……」
香子は思わず文を落としそうになった。 それは、平安の世の奥ゆかしさなど微塵も感じられない、あまりに直接的で、暴力的なまでの求愛だった。 「あなたのことを想っています」という愛(め)でる言葉ではない。 「我が物となれ」という、剥き出しの独占欲。
(昨日、一度お会いしたばかりですのに……。どうして、これほどまでに、私を……)
心臓が、耳元で激しく脈打つ。 頼嗣と育んできた二年間という長い月日が、この一通の情熱的な歌によって、無惨に踏みにじられていくような感覚。
「姫様、お車のご用意が整いました」
使いの者の、冷徹なほどに落ち着いた声が響く。 もはや、香子に拒む権利はない。彼女は侍女たちに抱えられるようにして立ち上がり、着飾らされ、まるで生贄のように牛車へと押し込められた。
車輪が軋みを上げ、邸を離れる。 御簾の隙間から見える住み慣れた景色が遠ざかるにつれ、香子の動悸は激しさを増していった。 向かう先は、あの鷹のような瞳を持つ主が待つ、東宮御所・宣耀殿(せんようでん)。
香子は、手の中で握りしめた紅の恋文を、まるで恐ろしい呪いであるかのように見つめ、ただ一人、震えを抑えることができなかった。
「……あなた、もう一度よくお考えください! 添臥といえば、本来はお乳母(めのと)のような、経験のある年上の女性がひっそりと務める儀式ではございませんか。それを、あえて年若く未熟な香子を指名するなんて……!」
母、可乃子の必死の訴えだった。
「それに、最初の女御(正妻)の座は、左大臣家の麗子様で決まっていたはずです。あのようなお美しく誇り高い方を差し置いて、儀式の相手に香子を据えれば……左大臣家の恨みを買い、我が家の立場が危うくなります!」
娘を想う一心で、普段は控えめな母が、必死に家格の差という現実を盾に父へ反論している。
「バカ者が! 左大臣家の機嫌を恐れて、どうする!」
父の怒鳴り声が響く。
「左大臣家の不興など、後でいくらでも取り繕える。だが、次期帝となられる東宮様の不興を買う方が、よほど恐ろしいとは思わんのか! あの御方は一度決められたら、誰の言葉にも耳を貸さぬと評判なのだぞ。勅命を覆すなど、死を賜るも同然だ!」
「お乳母が務めるはずの慣習を壊してまで、東宮様は『香子を寄こせ』と仰っているのだぞ。これは単なる儀式ではない。麗子様を差し置いてでも、香子を一番近くに置きたいという、東宮様からの強引な愛の宣告なのだ!」
大納言の怒声が、響いた。
父の言葉は、冷酷なまでに正論だった。この国において、東宮の意志は天の意志。逆らう術など、この邸のどこにも存在しない。
「ですが、香子には荷が重すぎます……。あの子は、中将殿のような優しい方と添い遂げることだけを夢見ていたのです……」
「……東宮殿下は、あのお若さで容姿端麗、学業は優秀。剣技も並ぶ者なしと聞く。少し年上の麗子姫より、香子とは歳もぴったりだ。さすれば、睦み合うのも早かろう。御子の誕生も……それほど遠い話ではあるまい」
大納言は、もはや妻の言葉など聞いていなかった。独り言のようにぶつぶつと、指を折って損得を数えている。その声には、香子を「娘」ではなく、最高級の「献上品」として扱うような冷え冷えとした打算が混じっていた。
(ああ…………)
香子は、畳に落ちた自分の涙が、じわりと生地に染み込んでいくのをぼんやりと見つめていた。 昨日までは、中将・頼嗣と共に歩む、陽だまりのような未来があったはずだった。 二人で歌を詠み、季節の移ろいを愛で、穏やかに老いていく。そんなささやかな幸せが、たった一昼夜で、嵐に毟り取られる花びらのように散ってしまった。
(東宮様……。あの方は、私の心を壊してまで、
何を手に入れたいとおっしゃるの……?)
あの若々しくも残酷な瞳。 獲物を追い詰めることを楽しむような、あの不敵な笑み。 香子の頬を、再び熱い涙が伝い落ちる。
逃げられない。 もう、あの鷹の爪からは。
その時、邸の門の外から、大勢の足音と、牛車の軋む音が聞こえてきた。迎えが――東宮からの、逃れられぬ「招き」が到着したのだ。
「……香子、見なさい。これが、東宮様の『力』というものですよ」
母・可乃子の震える声に促され、香子は重い瞼を持ち上げた。 部屋の広間には、溢れんばかりの品々が並べられていた。 透き通るような白磁の器、異国の匂いがする沈香、そして、目が眩むほど鮮やかな紅梅匂(こうばいにおい)の織物。それら一つひとつが、大納言家の一年分の暮らしを容易く凌駕するほどの価値を放っている。
「おお、これは素晴らしい。左大臣家の姫を差し置いて、これほどの厚遇……。香子、お前は我が家の救世主だ!」
父・大納言は、もはや香子の涙など目に入らぬ様子で、贈り物の目録を指でなぞり、弾むような足取りで自身の正装を整えに下がっていった。 残された香子は、届けられた品々の中に、一際異彩を放つ一通の結び文を見つけた。
(……中将様の文とは、何もかもが違う……)
頼嗣の文は、いつも薄い香を焚き染めた上品な料紙に、控えめな筆致で綴られていた。 だが、目の前にあるのは、燃えるような紅(くれない)の紙。手に取れば、体温を奪われるような錯覚に陥るほど、強い龍脳(りゅうのう)の香りが立ち込める。
香子は震える指先で、その文を解いた。
『忍びかね 露の命の 絶えぬ間に 我が物となれ 雲の上人』 (あなたの美しさに、私の命は今にも絶えそうだ。露のように消えてしまう前に、私のものになれ、雲の上の人よ)
「……っ……」
香子は思わず文を落としそうになった。 それは、平安の世の奥ゆかしさなど微塵も感じられない、あまりに直接的で、暴力的なまでの求愛だった。 「あなたのことを想っています」という愛(め)でる言葉ではない。 「我が物となれ」という、剥き出しの独占欲。
(昨日、一度お会いしたばかりですのに……。どうして、これほどまでに、私を……)
心臓が、耳元で激しく脈打つ。 頼嗣と育んできた二年間という長い月日が、この一通の情熱的な歌によって、無惨に踏みにじられていくような感覚。
「姫様、お車のご用意が整いました」
使いの者の、冷徹なほどに落ち着いた声が響く。 もはや、香子に拒む権利はない。彼女は侍女たちに抱えられるようにして立ち上がり、着飾らされ、まるで生贄のように牛車へと押し込められた。
車輪が軋みを上げ、邸を離れる。 御簾の隙間から見える住み慣れた景色が遠ざかるにつれ、香子の動悸は激しさを増していった。 向かう先は、あの鷹のような瞳を持つ主が待つ、東宮御所・宣耀殿(せんようでん)。
香子は、手の中で握りしめた紅の恋文を、まるで恐ろしい呪いであるかのように見つめ、ただ一人、震えを抑えることができなかった。
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