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第1章 風の悪戯、運命の始まり
第8話 元婚約者からの手紙
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東宮御所から邸へと戻った香子を待っていたのは、静まり返った夜の静寂と、浮かれきった父の笑い声、そして――母の深い慈しみだった。
「香子、こちらへ……」
父・大納言が東宮からの下賜品を検分するのに夢中になっている隙を突き、母・可乃子は香子をそっと奥の離れへと招き入れた。母の目は赤く腫れており、その手には一枚の懐紙が、まるで守るべき宝物のように握りしめられていた。
「これ……中将殿の使いが、門の外で必死に私に託していかれたのです。お父様に見つかっては、それこそ命に関わります。今すぐ、ここでお読みなさい」
香子は震える手でそれを受け取った。 指先に触れる紙の感触だけで、それが誰からのものか分かってしまう。頼嗣がいつも好んで使う、静かな月の光のような薄香色の料紙だ。
行灯の心細い光の下、香子は一文字一文字を追い始めた。
一枚目には、整った、迷いのない美しい筆致で、形式通りの文言が並んでいた。
『この度の東宮殿下との御縁、心よりお祝い申し上げます。大納言殿の御喜びも、さぞや深いことと拝察いたします。私、源頼嗣、これからは一臣下として、殿下と新しき女御様(あなた)を陰ながらお守りし、いっそう公務に励む所存にございます……』
(……ああ、そんな……)
読み進める香子の瞳から、大粒の涙が溢れ、料紙に小さな染みを作った。 「お守りする」という言葉の裏にある、彼の絶望。東宮という絶対的な太陽の前で、月である彼は、その光を飲み込まれ、影に徹するしかない。その無念さが、形式ばった言葉の端々から突き刺さるように伝わってきた。
しかし、その一枚目の下に、さらに小さく折り畳まれた二枚目の紙が隠されていた。
そこには、先ほどまでの整った筆致とは打って変わった、乱れ、震え、むせび泣くような、彼本来の直筆が綴られていた。
『……本当は、祝う言葉など一行も持ち合わせてはいません。 君の指先にも、その清らかな髪にも、もう二度と触れることは叶わぬのだと、この胸を掻き毟る想いでおる。 けれど、せめて……。夜ごとに昇るあの月を、君もどこかで見上げていると信じたい。 たとえ誰の妻となろうとも、私は月を見るたびに、君を、君だけを想い続けるだろう。 香子様……どうか、お健やかに……』
「……っ……あああ……!」
香子は声を押し殺し、その文を胸に抱きしめて泣き崩れた。 東宮が刻んだ唇の熱、無理やり抉り取られた純潔な期待、そして父の強欲。 それらすべてから自分を救い出してくれるはずだった、たった一つの、優しい場所。
(中将様……頼嗣様……! 私も、私もお慕いしておりました……!)
けれど、どれほど叫んでも、もうこの文に返歌を出すことは許されない。 香子の心は、頼嗣への募る想いと、東宮の放つ逃れられぬ支配の狭間で、ズタズタに引き裂かれていた。
「香子、こちらへ……」
父・大納言が東宮からの下賜品を検分するのに夢中になっている隙を突き、母・可乃子は香子をそっと奥の離れへと招き入れた。母の目は赤く腫れており、その手には一枚の懐紙が、まるで守るべき宝物のように握りしめられていた。
「これ……中将殿の使いが、門の外で必死に私に託していかれたのです。お父様に見つかっては、それこそ命に関わります。今すぐ、ここでお読みなさい」
香子は震える手でそれを受け取った。 指先に触れる紙の感触だけで、それが誰からのものか分かってしまう。頼嗣がいつも好んで使う、静かな月の光のような薄香色の料紙だ。
行灯の心細い光の下、香子は一文字一文字を追い始めた。
一枚目には、整った、迷いのない美しい筆致で、形式通りの文言が並んでいた。
『この度の東宮殿下との御縁、心よりお祝い申し上げます。大納言殿の御喜びも、さぞや深いことと拝察いたします。私、源頼嗣、これからは一臣下として、殿下と新しき女御様(あなた)を陰ながらお守りし、いっそう公務に励む所存にございます……』
(……ああ、そんな……)
読み進める香子の瞳から、大粒の涙が溢れ、料紙に小さな染みを作った。 「お守りする」という言葉の裏にある、彼の絶望。東宮という絶対的な太陽の前で、月である彼は、その光を飲み込まれ、影に徹するしかない。その無念さが、形式ばった言葉の端々から突き刺さるように伝わってきた。
しかし、その一枚目の下に、さらに小さく折り畳まれた二枚目の紙が隠されていた。
そこには、先ほどまでの整った筆致とは打って変わった、乱れ、震え、むせび泣くような、彼本来の直筆が綴られていた。
『……本当は、祝う言葉など一行も持ち合わせてはいません。 君の指先にも、その清らかな髪にも、もう二度と触れることは叶わぬのだと、この胸を掻き毟る想いでおる。 けれど、せめて……。夜ごとに昇るあの月を、君もどこかで見上げていると信じたい。 たとえ誰の妻となろうとも、私は月を見るたびに、君を、君だけを想い続けるだろう。 香子様……どうか、お健やかに……』
「……っ……あああ……!」
香子は声を押し殺し、その文を胸に抱きしめて泣き崩れた。 東宮が刻んだ唇の熱、無理やり抉り取られた純潔な期待、そして父の強欲。 それらすべてから自分を救い出してくれるはずだった、たった一つの、優しい場所。
(中将様……頼嗣様……! 私も、私もお慕いしておりました……!)
けれど、どれほど叫んでも、もうこの文に返歌を出すことは許されない。 香子の心は、頼嗣への募る想いと、東宮の放つ逃れられぬ支配の狭間で、ズタズタに引き裂かれていた。
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