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第1話 絵描き Dipintore
(3)
しおりを挟む「あれから彼女には会っていないな」
と、絵描きは呟くと、あの時殴られた頭にそっと手をやる。
もちろんすでにその時の傷はないのだが、何故かそこに手を触れると、今でも傷口が痛むような気がする。
未だに彼女が何故、あんなに激昂したのかは彼にはわからないが、何となくこんな生活をしている自分に、そして彼女をないがしろにしていた自分に、無性に怒りを憶えたのだろう。
すでに終わってしまったことであるが、頭の傷は癒えても心の傷の方は少しも癒えていないようだ。
特にこの季節になるとそれを思い出す。
あれが冬に起こったことなのかどうかは、もはや記憶にはないが、この季節はそんな嫌な思い出を呼び覚ますにはもってこいの季節なのだろう。
彼は広場をぶらぶらと歩きながら、そんなことを思う。
風が冷たい。
広場の周辺には誰もいない。
午後ではあるが、まだ夕方にも早い時間であるはずなのに――。
彼は何処か重い足取りで広場を横切ると、特に目的もなく、広場の隅にぽっかりと口を開いた地下鉄の階段を見つけ、そこを降りはじめる。
地下鉄に乗る気はなかったが、冷たい風に体を晒しているのが、少しばかり辛く感じ始めていたのだ。
無機質な剥き出しのコンクリートの壁に囲まれた階段を下りる。
靴音だけが不愉快なほど響く。そこにも人影はない。ただ、薄汚れた壁に誰かが描いた薄汚い落書きと、破れかけたポスターが貼ってあるだけの通路が続いている。
彼はそんな薄暗い地下道を歩く。
通路の奥に無人改札が見え、自動券売機が並んでいる。
その先にささやかな広場が見える。
かつては売店があったそこは、今はだだの無機質で無駄な空間でしかなく、同時に家を持たないジプシーたちの恰好の住処となっている。
今日もそこには数人のジプシーが疲れ切った表情で、たむろしている。
老人がふたり、若い男がひとり、そして――。
女がいる。ぼろきれのような毛布をまとった女だ。
その腕にはどうやら赤ん坊を抱えている。
赤ん坊――生気のない赤ん坊は、ぐったりとして女に抱かれている。
女の方も生気のない表情である。
うつろな眼差しは濁りきっており、そこには何も映っていない。
彼が女の前に立ってみても、女は何の反応も見せはしない。
もっともジプシーなどは誰も彼もそんなもので、生き生きとした表情を見せるような者は決してジプシーなどにはならないものだったが、それにしても彼女の表情はさながら死者を思わせるようなそんな表情である。
赤ん坊は息をしていない。
絵描きはそう直感する。
この寒さのせいなのか、それとも栄養不足なのか、病気なのか、ともかくその赤ん坊が息をしていないのは確かである。
彼は目を細める。言葉は出ない。ただ、黙ってその母子をじっと見つめる。
そしてその母親の前に彼は膝をつく。
彼女は相変わらず空ろな目で彼を見ているだけだ。
いや、恐らく見てはいないのだろう。彼女の目は宙をぼんやりと眺めているに過ぎない。
絵描きは彼女をじっと見つめる。
見たことのある顔だ、と、思う。
そしてそれがあのときの彼女、彼がしばらく同じアパルトメントで暮らしたあの女性であることに気づく。
そうか、あの後、彼女はこんなふうに生活していたのか、と、絵描きは感慨深い思いに囚われる。
それが自分のせいなのかどうかはわからないが、無関係であるとは思えない。
しかし、いずれにしても彼女の方は自分を見てはいない。それだけははっきりとわかる。
絵描きはスケッチブックを開く。
バッグから鉛筆を取り出すと、スケッチブックの上に手馴れた様子で絵をつむぎ出す。
今、このときの彼女をそうして留めておくべきなのだろう、と、そんな使命感で彼は鉛筆を走らせる。
周囲にいた他のジプシーたちも、特に彼に興味を示してはいない。彼らは皆、生きる気力さえ持ってはいないのだろう。
邪魔が入らないのは絵描きにとっては歓迎すべきことである。
彼は一心不乱に彼女の絵を描く。
やがて小一時間後――。
スケッチブックにはその母子の姿が写し取られる。
絵描きは満足そうに頷くと、最後に絵の中の赤ん坊の頬に色鉛筆でほんのりと朱を入れる。
そうすることで赤ん坊は絵の中で息を吹き返した。
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