終着駅 もしくは 希望(スペランツァ)の物語(2021)

ろんど087

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第2話 フィドル弾きと踊り子 Violinista e Ballerina

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 ふたりがこの町に来たのはこの春くらいのことだっただろうか、と、絵描きは記憶を手繰る。
 確か前の冬が明けてしばらくして「大道芸人の広場」を囲む街路樹のニセアカシアが、いっせいに白い花をつけた頃のことだった。

 その時分の「大道芸人の広場」は、冬の間くすぶっていた大道芸人が一気に町に溢れ出す、そんな時期である。
 ご他聞に洩れず、絵描きも似顔絵描きの仕事に精を出していたが、そんなある日、フィドル弾きと踊り子は突然その広場に現れた。

 最初、その異色のふたりに周囲の者たちは、何者だ? と、訝しげな視線を浴びせるだけだったが、古びた楽器ケースから取り出したヴァイオリンをフィドル弾きが軽快に鳴らし出し、それにあわせて踊り子がまるで風のように踊り出すと、そこにはあっと云う間に人垣が出来た。
 すぐ近くにいた絵描きも、思わずちょうど描いていた似顔絵の手を止め、客の方もその素晴らしい演奏と踊りに、あんぐりと口を開けたまま見入っていたものだ。

 少しばかり年増の踊り子はその年齢とは思えないほどに、まさしく風のように舞い、くたびれた老人としか見えなかったフィドル弾きも、信じられない超絶テクニックの演奏で道行く人の足を止めさせた。
 それはどれくらいの時間だったのか?
 恐らく一○分くらいだっただろう。
 だが、その一○分の間に、そこには数十人の観客が集まり、踊り子の舞が終わると同時に、拍手喝采が巻き起こった。

 それがフィドル弾きと踊り子の「大道芸人の広場」での最初のステージだった。

「凄かったね」

 しばらく鳴り止まない拍手の後、絵描きの前にいた客の男が呟いたのを、彼は未だに憶えている。
 同時に、一瞬で人々を集めることが出来るフィドル弾きと踊り子に、嫉妬をさえ憶えたくらいであった。
 やがて集まっていた観客が少しずつ、再び町に散って行った後、絵描きはふたりに挨拶がてら声をかけた。
 それが最初の接点だった。

   *****

「ああ、そうだったっけね」

 踊り子は相変わらずビールを傾けながら、少しだけ濁った目で絵描きにそう云った。
 ウォッカを飲んでいたフィドル弾きが酔いつぶれて眠り込んでしまったと思ったら、踊り子がカウンターにいた絵描きをテーブルに呼んだのだった。

「あのときは驚きましたよ、踊り子さん」

「凄かったでしょ? まあ、最初のステージだったから、ちょっとばかり無理はしてたんだけどさ」

 にこり、と、彼女に似つかわしくないほどに屈託のない笑顔を見せる。
 そんな笑顔は無邪気な子供のそれにさえ見える。
 彼女はきっと心底、踊ることが好きなのだろう、と、絵描きはそう思った。

「あんたは、さ」と、踊り子。
「この町は長いのかい?」

 フィドル弾きに向かってやったように、ビールジョッキで絵描きを指して、訊ねた。
 絵描きは昔を思い返して見る。
 そう云えば、いつからここにいるんだろうな、と、思いながら、首を振って見せた。

「忘れてしまいましたよ」

「ふん」

 鼻を鳴らすと、踊り子はビールを一口飲んだ。
 さすがにあおるほど飲むには、飲みすぎたと自覚しているのだろう。

「忘れた、か。この町の奴らは忘れっぽいからね」

 そして鼾をかいて寝ているフィドル弾きに目をやる。

「このじいさんも、いろんなことを忘れちまったみたいだし」

「そうなんですか?」

「ああ。いい思い出も悪い思い出も、このじいさんの頭の中には、もう残っちゃいないんじゃないかしら」

 彼女はそんなことを云った。

 フィドル弾きを見つめている。
 その眼差しは限りなく優しい。

「おふたりは――」
 絵描きが訊ねた。
「長いんですか?」

「腐れ縁よ。ずっと、ずっと、昔から、あたしたちは一緒なのよ。お決まりのように、もう思い出せないくらいに昔っからね。そう云う意味じゃ、あたしたちもこの町に染まっちまったってことなのかしらね」

 そして、踊り子は笑う。
「ねえ、あんた、さ、絵描きさん?」

「はい?」

「あんたって冬の間はどうしてるの? 客なんかとれないでしょ?」

「見ての通りですよ」

「そうか。んじゃさ、ヒマだったら、今度、私たちの練習でも見に来ない?」

「練習?」

「うん。そこの角を曲がって突き当たりの空き倉庫があるでしょ? あそこで昼間は練習してるからさ」

「あの、ジプシーのたまり場になっている倉庫、ですか?」

 その場所は絵描きも知っていた。
 日がな一日、何もしないで蹲っているジプシーたちが、常に十人くらい寝泊りしている持ち主もわからない空き倉庫。

「あそこで?」

「ええ、そうよ。冬の冷たい風は当たらないし、ジプシーのおかげで一般人は来ないし、なかなか邪魔が入らなくていい練習場なのよ。まあ、ジプシーどもにいくら私たちの素晴らしいパフォーマンスを見せたところで、空ろな目で見ているだけで金にも何にもならないけどもね」

 云いながら踊り子はウインクをして見せる。

「ぼくも、金はないですよ」

「わかってるって。同じ芸人仲間から金なんかとりゃしないわよ。お互い、冬眠中の身だからね。そのうち、あんたに似顔絵でも描いてもらえりゃ、それでチャラでいいわよ」

「わかりました。今度、遊びに行きますよ」

「ああ」

 踊り子は、また、子供のような笑顔を見せた。
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