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第2話 フィドル弾きと踊り子 Violinista e Ballerina
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しおりを挟む踊り子はその頃、将来を嘱望されたバレリーナであった。
とあるバレエ・コンクールでスカラーシップを取得して、世界的にも有名なバレエ団に奨学生として入団したのが三年前。
それからめきめきと頭角を現し、その頃にはエトワールとして主役クラスにキャスティングされ始め、おそらく一、二年後にはバレエ団の顔になるであろうと云う評判であった。
周囲はそう思っていたし、彼女もそう思っていた。
順風満帆のバレエ人生。
それが当時の踊り子であった。
若くしてそんなふうに周囲からも見られていた彼女が、だから多少なりとも鼻を高くしてしまったとしても、それは仕方がなかったのかも知れない。
実際彼女は、周りのダンサーたちに対して誠に高慢ちきな態度をとることもしばしばであったし、そうすることが当然だとも思っていた。
それがエトワールであり、主役であることだと、固く信じていた。
そのことが周囲との軋轢になるとは少しも考えなかったのは、彼女が若かったから、と云うだけではなく、彼女の元来の性格であったのかも知れないが。
ともかく、彼女は周りから見れば、本当に嫌な人間であった。
バレエの実力は確かに群を抜いていたが、その高慢な性格も群を抜いていた、と云えただろう。
やがて彼女は自分のお気に召さない配役では舞台に上がらなくなり、またそうでなくても相手役が気に入らない時にはあからさまにそんな者たちを排除した。
それは相手役にとってみればほとほと迷惑なことであり、彼女の気紛れでしかない些細な理由でバレエ団を追われた人間も少なからずいたものだったが、それに対して彼女は特に気にも留めることはなかった。
彼女は女王であった。
気紛れで我侭な女王。
そんな日々の中で、彼女はますます高慢さを増し、それを隠そうともしてはいなかった。
そして。
そんな彼女に報いが訪れたのは、エトワールとしてパリのオペラ座のステージに上がったその日のことだった。
その日も彼女はいつものように女王様のふるまいで周囲を閉口させており、午後の舞台のほんの直前まで共演者たちに難癖をつけていた。
中にひとり、今回の舞台で初めてオペラ座の舞台に立つことになった若いダンサーがいた。
その娘は主役級ではなく、単なるコールドバレエ(群舞)ダンサーのひとりであり、だから彼女が文句や難癖をつけるほどの者ではなかったが、何故かその時に限って不幸にもその娘が彼女のお眼鏡に叶ってしまったのである。
彼女はその娘の踊りに文句を云い、娘の群舞の無様さを並べ立てそれを嘲笑した。
それは彼女にとってみれば、これからの舞台の前にちょっとした緊張をほぐす程度の軽い悪態であったし、周囲もそれはよくわかっていた。
だから周囲の者たちはいつものように女王様の悪い癖が始まった、と云う程度にしか考えずに、適当に距離を置いて、しかしながら当の若い娘は災難だった、と、そんな思いで遠巻きに眺めているだけであった。
だが、娘の方は違っていた。
娘は彼女と同じ舞台に上がるのはこの日が初めてで、だから彼女のそうした性癖を理解してはいなかった。
娘は彼女に何か云われるたびに、顔面を蒼白にし、必死にその悪態に耐えていたが、ついには我慢できなくなり、泣きながら彼女の前から走り去った。
彼女にしてもそんなことはよくあることだったので、それをいつもの意地悪そうな顔で眺めているだけだった。
そこまでは彼女の周囲では、それほど珍しくないことであった。
とりあえず、娘が逃げてしまったことで、この一幕は終焉を迎えた。
そのはずだった――。
やがてまもなく舞台の幕が開く、と云う時に、娘が彼女の前に戻って来た。
彼女は、不敵な笑顔で娘を見た。
が、帰って来た娘の様子を見て、彼女の顔から笑いが消え、見る見る顔が強張っていった。
娘は出て行った時と同じように蒼白な顔をしていたが、それは彼女の強張った表情とは違う緊迫感を孕んだ表情であった。
なぜなら娘の手には何処から持って来たものか、ナイフが握られていたのだ。
娘が何事か叫んだ。
周囲で悲鳴が上がった。
彼女は自分が襲われたことを知った。
顔に、まるで火に炙られたかのような痛みが走った。
反射的に顔を押さえた指の間から、鮮血が床に滴り落ちていた。
彼女がへなへなとその場に座り込むと、今度は娘がそんな彼女のふくらはぎにナイフを突き立てた。
激痛が襲い、彼女はそのまま意識を失った。
病院で目を醒ました時、彼女は自分に何が起きたのか理解することが出来なかった。
いや、そこが病院であることさえ、咄嗟にはわからなかった。
ただ消毒液の匂いと白い天井と白いカーテンが目に入り、そこが楽屋ではないことだけをぼんやりと知っただけであった。
何が起こったのかを思い出し、慄える手で顔を確認する。
顔半分を覆うように包帯が巻かれていた。
それからシーツをめくり、脚に目をやった。
そこにも包帯が巻かれていた。
自分に何が起こったのかを改めて知り、彼女は唇を噛んだ。
だが、それだけだった。
やがて医者が入って来ると、彼は残念そうな顔で彼女に、頬の傷は深く、恐らく痕が残るであろうこと、そして、ふくらはぎの腱が切断されており、手術で歩ける程度には回復するだろうが、今後踊ることは出来ないであろうこと、を、淡々と告げた。
涙は出なかった。
後悔もなかった。
自分のバレリーナとしての人生が終わったことだけを彼女は理解した。
***
「まったく、ざまあないわよね」
踊り子は苦笑して見せた。
絵描きはそれに対してどう反応して良いかわからず、黙って彼女を見つめていた。
「結局、それなりに……あんたが見たくらいの間は踊れるくらいには回復したんだけど、もちろんバレエのステージなんて無理。せいぜいが数分間踊るだけで精一杯さ」
踊り子は奇妙に明るい声でそんなことを云った。
それがどんな感情からなのかは、絵描きにはわからない。
自嘲的な思いだったのか、それとも、本当に吹っ切れた思いだったのか。
「残念だったのは、あの頃の写真が一枚もあたしの手許にないことかしらね。写真はたくさん撮ったんだけど、あたしはそれなりに完璧主義者だったから、ちょっとでも気に入らないと捨てちゃったんだよね。まあ、バカと云えばバカなんだけどさ」
それから踊り子は立ち上がると、その場でくるくると回って見せる。
「その後はお決まりだけど、あたし、腐っちゃってさ。そんな時なんだよね、このじいさんに出会ったのは……」
絵描きはフィドル弾きに目をやった。
彼は相変わらず、自分のヴァイオリンを一心不乱に磨いていた。
踊り子はひとしきり踊って見せた後、再び椅子に腰掛けた。
「あたしが二十五歳、このじいさんはたぶん五〇歳くらいの渋い中年って感じだったかしらねえ。まあ、あたしはまだまだ若かったけど、フィドル弾きは――」
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