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第2話 フィドル弾きと踊り子 Violinista e Ballerina
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フィドル弾きがまだフィドル弾きとは呼ばれていなかった昔。
彼は一流のヴァイオリニストとして、数々のクラシック・コンサートでその演奏の腕を披露し、喝采を浴び、そして、世界中で名声を手にしていた。
彼はとある交響楽団のファースト・ヴァイオリニストであった。
まだ学生の頃から彼は一流のヴァイオリニストとしてずっと生きてきて、四〇歳を越えた頃には円熟期を迎えていた。
彼と彼の交響楽団は演奏旅行に行く先々で、満場の拍手を浴び続ける。
彼はいつもその中心にいた。
そんな生活を長い間続けていた。
だからそんな生活が永遠に続くものと、彼は信じていた。
しかしそんな彼の前にその青年は現れた。
まだ二〇歳をそれほど越えてはいない青年ではあったが、その青年はヴァイオリンの天才であった。
青年の演奏は聴く者を魅了した。
年齢のためか、まだまだ荒削りな演奏ではあったものの、青年の演奏にはそれに余りある不思議な魅力があった。
感動、と、云う言葉が一番しっくり行く。そんな音色をその若いヴァイオリニストの青年は奏でることが出来た。
円熟期を迎えた彼が驚嘆し認めざるを得ないほど、青年の演奏は卓越した表現力と芸術性を秘めていたし、同時にそのことは彼のポジションが青年に奪われることが誰の目にも明らかに思えるほどのものでもあった。
彼は焦った。
ずっと永遠に続くと思っていたファースト・ヴァイオリニストの地位がその青年に奪われてしまう、と、彼は意識し、青年に対して敵愾心を燃やしたが、いかにそんな思いを抱こうとも、天性の魅力を持つ青年に自分の技量で対することが出来ないであろうことは、彼が一番よくわかっていた。
良かれ悪しかれ、それだけの「耳」を彼は持っており、彼我の才能の差を見誤るには彼もまた音楽を、演奏を、よく理解したアーティストでもあったからだ。
必然。彼は自暴自棄となる。
一度、崩れたアーティストの繊細な心は、崩れ始めれば際限がないものであった。
いつしか彼は酒に溺れた。
いつしか彼は薬に溺れた。
酒場で日がな一日を過ごし、いつも虚ろな濁った目で、楽器に触れることさえなくなった。
彼は交響楽団から追われる。
演奏しない演奏家は翼を失った鳥でしかない。
彼はいつからか、自分の所属していた交響楽団のポスターの中心で微笑する青年を眺めながら、酒と薬漬けの生活の中にいた。
彼はいつからか、様々な町を彷徨い歩くようになり、場末の酒場から酒場へと入り浸るジプシーに身をやつしていた。
青年に対する恨みなどは毛頭ない。
ただ、彼は青年の才能をうらやんでいた。
もしも自分にあの才能があれば、それに自分の築き上げて来た技量があれば、今頃は本当に世界トップレベルのアーティストとなれていたのだろう、と、そんなことを朦朧とした頭の中で考える日々の中で堕ちて行くだけであった。
そうしてかれの周りで時はゆっくりと過ぎて行った。
「ねえ、あんた」
何処かの町のくたびれた酒場で、彼に声をかけて来たのは若い女であった。
「あんた、フィドル弾きなの、じいさん?」
女は彼の傍らのヴァイオリンケースに目をやって、そんなことを訊ねた。
彼女にしても別に興味があった訳ではない。
ただ、暇つぶしに声をかけただけでしかなかった。
彼――フィドル弾きはぼんやりとした眼差しで女を見た。
ひと目で彼女がバレエダンサーであることがわかった。
バレエダンサー特有のプロポーションとその立ち居振る舞い――彼女も酔っていたので、それは決して優雅で隙がないものではなかったものの――が、バレエ・ステージで生演奏を行ったことのあるフィドル弾きに、彼女がそんな踊り子であることを知らせてくれた。
「おまえは踊り子か?」
「まあね。もう、踊ってはいないけど」
皮肉っぽい笑顔で、踊り子は答えた。
「そうか。わしも、もう、弾いてはいないがな」
「なるほど」
それから彼女はロックグラスのウイスキーを飲み干した。
「何故、踊らないんだ? まだ若いのに」
「踊れないのよ」
フィドル弾きはそこで初めて、彼女の顔に大きな傷があることに気づいた。
踊り子はその視線に、また苦笑する。
「傷? これのせいじゃないわよ、踊れないのは。脚のせいよ」
「そうか。お互い、昔が懐かしいな」
「あたしは懐かしくもないけどね。それより、あんた……」
今度は踊り子がフィドル弾きの右手を見た。
彼の右手は指が三本しかない。
「ああ、これか? 別にわしが弾かないのはこの指のせいじゃない」
彼は安酒をちびちびと飲みながら、無表情で呟くように云う。
「薬を手に入れようと思って、チンピラからちょろまかしたんだが、それがバレちまってな。指を二本、とられた」
「薬?」
「ああ。ほんのはした金で買える薬だったんだがね。ちょうと持ち合わせがなかったんで、この様さ」
フィドル弾きは、くくっ、と笑った。自嘲的な声で――。
踊り子もそれに笑顔を返す。
酒場の店内には自動ピアノの演奏が鳴り響いていた。
古ぼけた柱時計の時を刻む音が聞こえていた。
煙草の煙と安酒の匂い。
しばらくふたりは無言のまま、そんな酒場で酒を飲み続けていた。
「ねえ、じいさん?」
踊り子が再び口を開く。
フィドル弾きは目を上げて彼女を見た。
どんよりと曇った目と目が合った。
「なんだ?」
「今、楽しい?」
「そう見えるかの?」
「いいえ。見えないわ」
踊り子の笑顔。
屈託のない笑顔。
「死のうか、じいさん?」
突然の台詞であったが、フィドル弾きは何事もなかったかのように答えた。
「それもいい」
「気が合うわね」
ふたりは、そして、連れ立ってその名も知らぬ街に彷徨い出た。
季節は冬。
粉雪が散り始めていた。
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