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第2話 フィドル弾きと踊り子 Violinista e Ballerina
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***
踊り子はそこで口を閉ざした。
いつも陽気な彼女らしくない沈鬱な表情を見せて、膝の上に組んだ手を慄わせて、次に何を語るべきか考えているように、口を閉ざしていた。
その横で相変わらずフィドル弾きは愛器を磨いていた。
今までの踊り子の話など、まるで耳に入っていないかのように、一心不乱に愛器を磨いていた。
絵描きはそんなふたりを黙って見つめていた。
彼もまた何も口に出すことが出来なかった。
やがて――。
「それで、さ」と、踊り子。
彼女は皮肉っぽく笑って見せた。
自嘲的な笑顔を作って見せた。
「心中したんだよ、このじいさんと、ね」
「心中……」
「そう。心中。もっともこんなじいさんとあたしが恋仲になったって訳じゃ、もちろんないんだけどさ」
踊り子は可笑しそうに続ける。
「まあ、それでも現にこうしているんだから、未遂だったんだけどね。ふたりで仲良く体を紐で結んで、川に身を投げたんだ。橋から飛び降りて。運よく、なのか、それとも運悪くなのかはわからないけど、結局は助かった。助かったと思ったら、もう死ぬ気にはなれなかった」
そして、ふっと、ため息をつく。
「……川の中でさ、ふたりしてもがいている時の恐怖ったらなかったよ。もう二度とごめんだね、あんな思いをするのは」
絵描きもつられてため息をついた。
「そう、ですか」
「ああ。そうさ。あんたもこれから辛い目にあったとしても、変な気は起こさない方がいいよ」
「憶えておきます」
「それが賢明だよ。――で、さ。そんな訳でもう死ぬ気も失せちまって、それでこんな旅を始めたのさ。大道芸人になって町から町へ旅をするそんな生活」
踊り子はちらりとフィドル弾きを見た。
その目には、先ほども見たような慈愛に満ちた表情が浮かんでいた。
「このじいさんが呆けちまったのも、その時からかな。それから十年以上、あたしたちはこんなふうに一緒にいるんだよね。あたしもヤキが回ったってもんさ」
彼女は云うと、さて、と、云いながら立ち上がる。
「もうワンセット、練習するかな。歳のせいか、ちょっとサボるとダメなんだよ」
「歳、なんて。まだ若いじゃないですか」と、絵描き。
「若い? はん、嬉しいこと云ってくれるわね、絵描きさん。でもバレリーナとしちゃ、もう十分に引退していい歳だからね。――じいさん、やるよ」
その声にフィドル弾きは愛器を磨いていた手を止めた。
それからぼんやりと目を上げる。
「なんじゃ、もう次のセットかい?」
「十分、休んだでしょ?」
「ああ。そうさな」
彼はゆったりとヴァイオリンを構えた。
「あの……」
絵描きが二人に向かって声をかけた。
「絵を描いてもいいですか?」
彼が唐突にそんな申し出をした。
その言葉に踊り子は意外そうな顔を見せて、絵描きを見つめた。
「ん? 絵って?」
「フィドル弾きさんと踊り子さんの絵を描きたいんです。踊り子さん、写真が一枚もないって云ってましたよね?」
「ああ。そうだけど……」と、踊り子。
「でもあたしたちの絵を描いたって面白くもないんじゃないの?」
「そんなことはありませんよ」
絵描きはスケッチブックを用意しながら答えた。
その様子に絵描きが本気でそんなことを云っているのだと、踊り子は気づいた。
「物好きだね。まあ、いいけど。でも金は払わないわよ」
「同じ大道芸人から金はとりません」
その台詞に、踊り子が唇を歪めて見せた。
「いい心がけね」
「恐縮です」
絵描きの言葉を合図に、フィドル弾きがヴァイオリンを奏で始めた。
絵描きはふたりの絵を描いた。
その間、踊り子は踊り続ける。
フィドル弾きの奏でる物悲しげな演奏に合わせて――。
彼女にとって、ジプシーたちがたむろしている薄暗く汚れた倉庫は、パリのオペラ座の舞台へと変貌していた。
踊り子は見ていた。
満場の拍手喝采。
踊り子は満足して深々と頭を下げ、バレリーナの礼をする。
その顔には満足げな笑みが浮かんでいた。
絵描きは描き上げた絵を踊り終わった踊り子に手渡した。
「……上手ね、絵描きさん。嬉しい」
彼女は絵描きに渡された絵を見て、絵描きに向かってそう告げた。
その目がかすかに潤んでいた。
「よかった。今まで踊り続けていて」
踊り子はそんなふうに呟くと、その絵をぎゅっと胸に抱いた。
踊り子はそこで口を閉ざした。
いつも陽気な彼女らしくない沈鬱な表情を見せて、膝の上に組んだ手を慄わせて、次に何を語るべきか考えているように、口を閉ざしていた。
その横で相変わらずフィドル弾きは愛器を磨いていた。
今までの踊り子の話など、まるで耳に入っていないかのように、一心不乱に愛器を磨いていた。
絵描きはそんなふたりを黙って見つめていた。
彼もまた何も口に出すことが出来なかった。
やがて――。
「それで、さ」と、踊り子。
彼女は皮肉っぽく笑って見せた。
自嘲的な笑顔を作って見せた。
「心中したんだよ、このじいさんと、ね」
「心中……」
「そう。心中。もっともこんなじいさんとあたしが恋仲になったって訳じゃ、もちろんないんだけどさ」
踊り子は可笑しそうに続ける。
「まあ、それでも現にこうしているんだから、未遂だったんだけどね。ふたりで仲良く体を紐で結んで、川に身を投げたんだ。橋から飛び降りて。運よく、なのか、それとも運悪くなのかはわからないけど、結局は助かった。助かったと思ったら、もう死ぬ気にはなれなかった」
そして、ふっと、ため息をつく。
「……川の中でさ、ふたりしてもがいている時の恐怖ったらなかったよ。もう二度とごめんだね、あんな思いをするのは」
絵描きもつられてため息をついた。
「そう、ですか」
「ああ。そうさ。あんたもこれから辛い目にあったとしても、変な気は起こさない方がいいよ」
「憶えておきます」
「それが賢明だよ。――で、さ。そんな訳でもう死ぬ気も失せちまって、それでこんな旅を始めたのさ。大道芸人になって町から町へ旅をするそんな生活」
踊り子はちらりとフィドル弾きを見た。
その目には、先ほども見たような慈愛に満ちた表情が浮かんでいた。
「このじいさんが呆けちまったのも、その時からかな。それから十年以上、あたしたちはこんなふうに一緒にいるんだよね。あたしもヤキが回ったってもんさ」
彼女は云うと、さて、と、云いながら立ち上がる。
「もうワンセット、練習するかな。歳のせいか、ちょっとサボるとダメなんだよ」
「歳、なんて。まだ若いじゃないですか」と、絵描き。
「若い? はん、嬉しいこと云ってくれるわね、絵描きさん。でもバレリーナとしちゃ、もう十分に引退していい歳だからね。――じいさん、やるよ」
その声にフィドル弾きは愛器を磨いていた手を止めた。
それからぼんやりと目を上げる。
「なんじゃ、もう次のセットかい?」
「十分、休んだでしょ?」
「ああ。そうさな」
彼はゆったりとヴァイオリンを構えた。
「あの……」
絵描きが二人に向かって声をかけた。
「絵を描いてもいいですか?」
彼が唐突にそんな申し出をした。
その言葉に踊り子は意外そうな顔を見せて、絵描きを見つめた。
「ん? 絵って?」
「フィドル弾きさんと踊り子さんの絵を描きたいんです。踊り子さん、写真が一枚もないって云ってましたよね?」
「ああ。そうだけど……」と、踊り子。
「でもあたしたちの絵を描いたって面白くもないんじゃないの?」
「そんなことはありませんよ」
絵描きはスケッチブックを用意しながら答えた。
その様子に絵描きが本気でそんなことを云っているのだと、踊り子は気づいた。
「物好きだね。まあ、いいけど。でも金は払わないわよ」
「同じ大道芸人から金はとりません」
その台詞に、踊り子が唇を歪めて見せた。
「いい心がけね」
「恐縮です」
絵描きの言葉を合図に、フィドル弾きがヴァイオリンを奏で始めた。
絵描きはふたりの絵を描いた。
その間、踊り子は踊り続ける。
フィドル弾きの奏でる物悲しげな演奏に合わせて――。
彼女にとって、ジプシーたちがたむろしている薄暗く汚れた倉庫は、パリのオペラ座の舞台へと変貌していた。
踊り子は見ていた。
満場の拍手喝采。
踊り子は満足して深々と頭を下げ、バレリーナの礼をする。
その顔には満足げな笑みが浮かんでいた。
絵描きは描き上げた絵を踊り終わった踊り子に手渡した。
「……上手ね、絵描きさん。嬉しい」
彼女は絵描きに渡された絵を見て、絵描きに向かってそう告げた。
その目がかすかに潤んでいた。
「よかった。今まで踊り続けていて」
踊り子はそんなふうに呟くと、その絵をぎゅっと胸に抱いた。
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