終着駅 もしくは 希望(スペランツァ)の物語(2021)

ろんど087

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第2話 フィドル弾きと踊り子 Violinista e Ballerina

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     ***


 踊り子はそこで口を閉ざした。
 いつも陽気な彼女らしくない沈鬱な表情を見せて、膝の上に組んだ手を慄わせて、次に何を語るべきか考えているように、口を閉ざしていた。

 その横で相変わらずフィドル弾きは愛器を磨いていた。
 今までの踊り子の話など、まるで耳に入っていないかのように、一心不乱に愛器を磨いていた。
 絵描きはそんなふたりを黙って見つめていた。
 彼もまた何も口に出すことが出来なかった。

 やがて――。

「それで、さ」と、踊り子。
 彼女は皮肉っぽく笑って見せた。
 自嘲的な笑顔を作って見せた。

「心中したんだよ、このじいさんと、ね」

「心中……」

「そう。心中。もっともこんなじいさんとあたしが恋仲になったって訳じゃ、もちろんないんだけどさ」

 踊り子は可笑しそうに続ける。

「まあ、それでも現にこうしているんだから、未遂だったんだけどね。ふたりで仲良く体を紐で結んで、川に身を投げたんだ。橋から飛び降りて。運よく、なのか、それとも運悪くなのかはわからないけど、結局は助かった。助かったと思ったら、もう死ぬ気にはなれなかった」

 そして、ふっと、ため息をつく。

「……川の中でさ、ふたりしてもがいている時の恐怖ったらなかったよ。もう二度とごめんだね、あんな思いをするのは」

 絵描きもつられてため息をついた。

「そう、ですか」

「ああ。そうさ。あんたもこれから辛い目にあったとしても、変な気は起こさない方がいいよ」

「憶えておきます」

「それが賢明だよ。――で、さ。そんな訳でもう死ぬ気も失せちまって、それでこんな旅を始めたのさ。大道芸人になって町から町へ旅をするそんな生活」

 踊り子はちらりとフィドル弾きを見た。
 その目には、先ほども見たような慈愛に満ちた表情が浮かんでいた。

「このじいさんが呆けちまったのも、その時からかな。それから十年以上、あたしたちはこんなふうに一緒にいるんだよね。あたしもヤキが回ったってもんさ」

 彼女は云うと、さて、と、云いながら立ち上がる。

「もうワンセット、練習するかな。歳のせいか、ちょっとサボるとダメなんだよ」

「歳、なんて。まだ若いじゃないですか」と、絵描き。

「若い? はん、嬉しいこと云ってくれるわね、絵描きさん。でもバレリーナとしちゃ、もう十分に引退していい歳だからね。――じいさん、やるよ」

 その声にフィドル弾きは愛器を磨いていた手を止めた。
 それからぼんやりと目を上げる。

「なんじゃ、もう次のセットかい?」

「十分、休んだでしょ?」

「ああ。そうさな」

 彼はゆったりとヴァイオリンを構えた。

「あの……」

 絵描きが二人に向かって声をかけた。

「絵を描いてもいいですか?」

 彼が唐突にそんな申し出をした。
 その言葉に踊り子は意外そうな顔を見せて、絵描きを見つめた。

「ん? 絵って?」

「フィドル弾きさんと踊り子さんの絵を描きたいんです。踊り子さん、写真が一枚もないって云ってましたよね?」

「ああ。そうだけど……」と、踊り子。
「でもあたしたちの絵を描いたって面白くもないんじゃないの?」

「そんなことはありませんよ」

 絵描きはスケッチブックを用意しながら答えた。
 その様子に絵描きが本気でそんなことを云っているのだと、踊り子は気づいた。

「物好きだね。まあ、いいけど。でも金は払わないわよ」

「同じ大道芸人から金はとりません」

 その台詞に、踊り子が唇を歪めて見せた。

「いい心がけね」

「恐縮です」

 絵描きの言葉を合図に、フィドル弾きがヴァイオリンを奏で始めた。 


 絵描きはふたりの絵を描いた。
 その間、踊り子は踊り続ける。
 フィドル弾きの奏でる物悲しげな演奏に合わせて――。
 彼女にとって、ジプシーたちがたむろしている薄暗く汚れた倉庫は、パリのオペラ座の舞台へと変貌していた。

 踊り子は見ていた。
 満場の拍手喝采。
 踊り子は満足して深々と頭を下げ、バレリーナの礼をする。
 その顔には満足げな笑みが浮かんでいた。

 絵描きは描き上げた絵を踊り終わった踊り子に手渡した。

「……上手ね、絵描きさん。嬉しい」

 彼女は絵描きに渡された絵を見て、絵描きに向かってそう告げた。
 その目がかすかに潤んでいた。

「よかった。今まで踊り続けていて」

 踊り子はそんなふうに呟くと、その絵をぎゅっと胸に抱いた。 
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