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第3話 魔女 Maga
(4)
しおりを挟む居酒屋「スペランツァ」の重厚な木製の扉を押し開くと、そこはいつものように酒と煙草の匂いで噎せ返りそうなほどである。
冬でもそれは変わらない。
その日も客はいなかったが、それでもその店独特の匂いは変わらないし、食べこぼされた食べ物で木製の床が汚れたままなのもいつも通りである。
それがこの店の、と云うより、この町の居酒屋(バル)の当たり前の姿だ。
ただこの「スペランツァ」が一般のバルと違うのは、夜専門で営業しているところである。
昼間は喫茶中心、夜は酒を出す立ち飲み、と云うのがこの町のバルの一般的な形式なのである。
それについては初老のマスターの営業方針、と、云うか趣味なので、何故、そうしているのかはわからないが、少なくともその店の造りは見るからに、薄暗く、いかがわしく、退廃的で、虚無的で、罰当たりで、一癖二癖ありそうな酔っ払い相手専門の、そんな雰囲気を醸し出している。
そう云う意味では異色のバルであり、それが常連客のお気に入りでもある。
そんな店に絵描きは入って行く。
入り口の扉についているカウベルは今日も無言だ。
以前はカラカラと、安っぽいながらも軽快な音で客の到来を告げていた気がするが、最近ではカウベルのご機嫌次第で無言の時が多い。
そう云えば、ここしばらくあの音を聞いていないな、いい加減、修理すれば良いのに、と、絵描きは考えながら初老のマスターに声をかけるが、これまた本当に客商売をする気があるのかどうか疑わしいほどに無愛想な彼は、かすかに目を細めただけでカウンターの中でグラスを拭く手を止めようともしていない。
絵描きはマスターのその様子に苦笑すると、いつものようにカウンターの一番奥に陣取る。
そこへ奥から若い娘が出てきて、笑顔で出迎えてくれる。
マギカ、である。
無口なマスターはほとんどの客相手をマギカに任せきりなのだ。
「やあ、マギカ」
絵描きは挨拶をしながら、グラスワインを注文する。
これもいつも通りである。
「一番安い白ワイン」
「いらっしゃいませ、絵描きさん。今日も一番安い白ワイン? そんなにしみったれた客ばっかりだから、ちっともあたしのバイト代が上がらないんだよね」
笑顔と嫌味とグラスワインとつまみのブルスケッタが、マギカの慣れた手際で同時に絵描きの前に提供される。
「悪かったね」
グラスワインと一緒にマギカが出してくれたブルスケッタを齧りながら、絵描きが苦々しく答える。
「もう少し高いワインを頼んでくれたら、ブルスケッタにトッピングをサービスしちゃうのになあ」
「それは魅力的だけど、冬場は仕事もないし、持ち合わせがなくってね」
「そう? いつも持ち合わせがないような気がするけども」
「違いないな。訂正する。年がら年中、貧乏人だよ、ぼくは」
絵描きはグラスワインに口をつける。
彼が美味しそうにワインを飲むのを、マギカはカウンターに頬杖をついて、満足そうに眺めている。
「美味しい?」
「いつも通りさ」
「いつも通りか」
いつも通り。それは誰もが愛していて、そして、誰もが憎んでいるものだ。
決して手放したくないくせに、いつかはその檻から逃れようと、誰もが虎視眈々とそんなことを考えている。
果たして、自分はどうなのだろうか、と、絵描きは自問する。
この生活は嫌いじゃない。
むしろ、居心地が良い。
けれども――。
「なあ、マギカ」と、絵描き。
「君は今、しあわせか?」
その突然の問いに、マギカは目を丸くする。
絵描きの云っている意味を図りかねている、と、そんな表情である。
「しあわせ? どうかなぁ……」
それからちょっとの間、マギカは考える素振りを見せるが、すぐに肩を竦めて首を振って見せる。
「あんまり考えたことない、かな。でもこんな生活を楽しんではいるよ。それと――」
彼女は絵描きに顔を近づける。
「絵描きさんと友達になれたから、少しだけしあわせかもね」
ウインクをして見せる。
絵描きは微笑しながら、ワイングラスを持ち上げる。
「ある意味、しあわせそうだな」
「え? それって」
彼女は少しだけ唇を尖らせる。
「バカにしてるでしょ?」
「そんなことはないさ」
「やっぱり意地悪だね、絵描きさんは――ワイン、おかわり?」
「ああ」
絵描きが頷くと、マギカはちらりとマスターの方へ目をやる。
マスターは相変わらず、バカ丁寧にグラスを拭う作業を続けている。
「サービスだよ、これ」
マギカは絵描きが注文したよりも上物のワインボトルを手にとると、新しいワイングラスにそれを注ぐ。
「いいのか?」
「うん。大丈夫。それに――」と、マギカ。
「絵を描いてくれるんでしょ? そのお礼。ヌードを見せる以外のお礼」
マギカはもうひとつ、自分用にワイングラスをとると、それにも同じワインを注ぐ。
「乾杯、しよ?」
「好き放題だな、バイトなのに」
「いいんだよ。もうすぐクリスマスだし」
「関係なさそうだけどね」
「いいから、いいから」
そう云って、自分のワイングラスを絵描きのそれに当てる。
甲高い音がして、グラスの中でワインが揺らめいた。
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