終着駅 もしくは 希望(スペランツァ)の物語(2021)

ろんど087

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第3話 魔女 Maga

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「さて、他にお客さんもいないし、と――」

 マギカは云うとエプロンを外す。
 それからマスターに目をやり、ちょっと外すね、マスター、と声をかける。
 マスターは、相変わらず無言で、頷くともなしに首をかすかに動かしただけだったが、どうやらそれは承諾の合図だったのかも知れない。
 絵描きにはそのささやかな意思表示を理解することは出来なかったが、毎日のようにつきあっているマギカにはそれで十分だったらしい。
 いや、彼女にもわかっているかどうかは怪しいが、マイペースの彼女のことだからわかっていようがいまいが、そんなことは関係ないのだろう。
 いずれにしても彼女はそうしてカウンターから出てくると、絵描きに少しだけ照れた様子で向き合う。

 彼女は今日も初めて会った時と同じようなセーター姿である。ただ、今日はスカートでなく、ルーズなジーンズを穿いている。
 何気なくそれを眺める絵描きの視線に、彼女は気づいたようだ。

「何? あたしの美脚が見えなくてがっかりした?」

 いたずらっぽい目で彼を見つめる。
 絵描きは、やれやれ、と首を振ると、黙ったまま深いため息をつく。

「……で、これから何をするつもりだ?」
「え? 美脚のことは無視?」

 マギカは不満そうに頬を膨らませ、絵描きはそれに苦笑する。

「ま、いいけどね。絵描きさんがそんな奴だってことはわかってたし。……今日はこの前、話をしたアトリエに巨匠をご案内しようかな、と、思ってさ」
「アトリエ? 半地下の倉庫、と、云ったっけ?」
「うん。油絵の道具は持って来てくれた?」
「ああ」

 絵描きは床に置かれたバッグを、ちらりと見る。

「よしよし。イーゼルとキャンバスはあたしの方で用意しておいたからね。三メートル四方の特大キャンバスだよ」
「おい、君は駅前のポスターにでもなるつもりなのか?」
「冗談ですよぉ」

 彼女は舌を出す。

「よくわからないけど、8号サイズ、とか云うのにしたんだ。たぶん、スケッチブックと同じくらいだから描きやすいかな、と思って」
「ちょうどいいサイズかな。悪いな、そこまでしてもらって」
「あたしが頼んだんだからね。こう云うのって、クライアントが用意するものじゃないのかな?」
「さあ、ぼくもこんな依頼を受けたことがないので、よくわからない」

 絵描きは正直にそんなことを云う。
 しかしマギカの方は特に気にしている様子でもなく、絵描きの腕をとる。

「じゃ、行こうか」

 マギカは絵描きをカウンター横のせまっ苦しい扉に案内する。
 木製の扉は建てつけが悪く、素直に開いてくれなかったが、マギカが扉の下側を乱暴に蹴飛ばすと、ゆるやかに開く。
 絵描きは、そんな乱暴なことをして良いのだろうか、と、マスターの方へ目をやるが彼は気にしている様子もない。
 どうやらそんな行動も彼には織り込み済みなのだろう。無口なだけでなく、ある意味、心も広いと云うことのようだ。
 それにしても、つくづく、オンボロな店だ。

 扉の先は裸電球がぶら下がっているだけの狭い通路で、それにも関わらず片側に小物やら食材やらが置かれた棚が設置されているおかげで、人が通るには体を斜めにしなければならない。

「ごめんね、ちょっと狭いけど」

 マギカは先に立ってそこを進み、さらに奥にある扉を開く。
 その先は地下に向かう階段になっている。
 彼女はそれを降りて行く。
 絵描きもそれに続く。

 降りたところは、店の厨房の下になっている部屋で、天井には水道管やらスチーム管が剥き出しになっており、床にはいくつかの酒瓶のはいっていた木箱や麻袋、毛布、などが無造作に放置されている。
 どうやらマスターが仮眠にでも使っていたのか、部屋の隅には簡易ベッド、さらに古びたデスクと椅子がひとつずつ。
 また、彼女が云っていたように半地下になっているそこは、明かりとりの窓が天井近くにあり、外の光が差し込んでいる。

 そんな部屋の真ん中に、彼女が用意したと云うイーゼルとキャンバスがある。
 絵描きはそれに近づくとキャンバスの端をそっと撫でてみる。
 懐かしい感触だ。
 もうしばらくキャンバス布になど触れたこともなかった、と、思い出す。

「どう、絵描きさん? 素敵なアトリエでしょ?」

 満足げにマギカは口にする。一応、一通り掃除はしておいたんだけど、と。

「ああ、十分だ。予想以上にいい環境だな」
「ほんと? よかった」

 彼女は胸を撫で下ろす。

「それにここならば人も来ないよ。普段は使ってないからね」
「邪魔されないのはそれに越したことはないけど、ぼくは絵に集中する方だから、別に人が来ても大丈夫だよ」
「そうなの? でもあたしが困るよ。恥ずかしいし」

 絵のモデルをする、と云うのは、確かに素人には恥ずかしいものかも知れないな、と、絵描きは頷く。

「それにさ」と、マギカ。
「こんな狭くて薄暗い一室に、男女がふたりきりなんて――うふ、うふふふ」

 絵描きはその言葉に、マギカの頭に手をやって髪をくしゃくしゃとかき回す。

「な、何よぉ?」 
「云っただろ? 絵描きがモデルを見る目は、静物画を描いているときにリンゴを見る目と同じだって」

 それに対して何事か文句を云いたそうにしているマギカを無視して、絵描きはもう一度室内を見渡す。
 光の加減がやはり不足しているように思え、彼は椅子を明かりとりの窓の下に持って行くと、その上に乗って窓の様子を調べ始める。
 窓はかなり汚れていて、その向こうの路地を行く人々の足許がぼんやりと見える程度である。これでは明らかに光量不足だ。
 彼は腕組みをして考える素振りを見せた後、マギカに振り向く。

「何?」
「ここには他に明かりがないのか? さすがにちょっと光が足りない」
「『光の画家』でもダメ?」
「『光の画家』は自分が光る訳じゃないぞ。と、云うよりその称号は勘弁してくれよ。――ともかく、もう少し明かりがないと」

 云いかけたところで、絵描きは部屋の片隅にあった古めかしいランプに気づいて、椅子を下りるとそれを手にとる。
 古いオイル式のランプだ。

「これは使えそうだな」
「また、随分、古風なランプだね。どうやって使うの?」
「ここにオイルを入れるみたいだ」

 絵描きが周囲を物色すると、積み上げられた荷物の中に古びたオイル缶があり、どうやらそれが使えそうである。
 彼はそのオイルをランプに補充すると、火をつけてみる。
 ぼんやりとした、それでいて何処か心を和ませるような暖かい光が灯る。

「へ~、素敵だね」
「ああ。古い物ってのはあったかくていいな」
「ほほう。なかなか粋な台詞だね、絵描きさん」
「からかうんじゃない。どうかな? これでもちょっと暗いかも知れないけど、外からの光だけよりはかなりいいんじゃないか?」

 彼は簡易ベッドの横にあった机の上にそれを置く。
 オイルランプの淡い炎。
 炎が揺れると、光が揺れる。
 光が揺れると、影が揺れる。

「うん。いい。いいよ、絵描きさん。創作意欲が湧いてくるね」
「モデルに創作意欲が湧いてもなぁ」
「ええ? 絵描きさんはそうでもないの?」
「いや、そんなことはない。ぐっとやる気が出てきた」

 そう云ってウインクをして見せる。

「よかった」

 マギカは嬉しそう微笑すると、ふと何かを思いついたように部屋の隅にあった麻袋をずるずると引き摺って来て、ベッドの前に置く。

「こんなところかな」
「何をしてるんだ?」

 彼女は麻袋に腰掛けると、絵描きの方を向いて、麻袋をぽんぽんと叩く。

「座って、絵描きさん」

 何のつもりだろうか、と、思いながらも絵描きは彼女の横に腰掛ける。

「ここからならベッドが見えて、いい感じだね。あたしがあのベッドに横たわっているところを描いてくれないかな?」
「肖像画じゃないのか? てっきり椅子に腰掛けて、と、思ったんだが」
「せっかくだから全身を描いてほしいからね」

 まあ、彼女の云うことはわからないでもないが、と、絵描き。

「それで」と、マギカ。
「絵を描く前にあたしの話、聞いてくれる?」
「話?」
「モデルはリンゴと一緒、ってのはわかったけどさ、リンゴの気持ちがわかればリンゴへの『愛情』ももっともっと湧いてくるでしょ? そう云うことだよ」

 そしてマギカは麻袋に座ったまま膝を抱える。

「……そう云うこと、なんだよね」

 彼女は繰り返す。
 一瞬前までの陽気な彼女とは一変し、その顔に奇妙なほど真剣な表情を浮かべている。
 絵描きはマギカの様子の変化に戸惑いを感じながらも、彼女が何か重要なことを語ろうとしていることに気づく。
 それが何かはわからないが、決していつものような楽しい会話にはならなそうな予感がして、絵描きは彼女の言葉を聞くためにただ黙って頷いた。
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