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第4話 殺し屋 Sicario
(4)
しおりを挟む「それからおれは心が折れてしまってね。つい最近まで入院していた」
殺し屋は絞り出すように云う。
「どう思うね、絵描きさん?」
「どう、と、云われても……」
俄かには信じられない話である。
つまり殺し屋は長い長い夢を見ていた、と云うことなのだろうか?
彼は存在しない妻と娘とずっと暮らし続けていた、と云うことなのだろうか?
「おれは、ね」と、殺し屋。
「この話が――おれの今までの人生が、実は何だったのか、夢でしかなかったのか、そんなことはどうでも良いんだ」
「と、云うのは?」
「謎解きは必要ない。ただ、もう一度、妻と娘に会いたい。それだけがおれが望んでいることだ」
殺し屋はそう云って、マギカに空になったロックグラスを差し出す。
マギカは、このときばかりはただ黙って、彼にもう一杯バーボン・オン・ザ・ロックを作ってカウンターに置く。
彼はそれにかすかに頷いただけで、じっと手許の写真を見つめる。
目を細めて、じっと見つめている。
「なあ、絵描きさん」
殺し屋はしばらくそうしていた後、絵描きに声をかける。
今まで絵描きが見たこともない優しい眼差しで、殺し屋は写真を見つめたまま指先で写真を撫でる。
「おれは妻と娘の顔をもうあまり思い出せないんだ。この通り写真に残っていないからね。……絵描きさん、あんた、似顔絵描きだ、と云っていたな? ふたりの顔を描いてくれないか?」
無茶な願いである。
絵描きは殺し屋の妻も娘も知らない。
モデルになる写真もない。
それでも殺し屋はそのふたりを描いて欲しい、と云う。
それが彼の願いだ、と云う。
「この写真にかつては写っていたんだ。あんたなら見えるだろう、絵描きさん?」
「でも、殺し屋さん」と、絵描き。
「それはさすがに……」
「よく見てくれ!」
殺し屋は写真を絵描きに差し出す。
絵描きはじっと写真を見つめるが、もちろん、そこに殺し屋の妻と娘の姿が見えるはずはない。
絵描きは救いを求めるように、カウンターの中のマギカに目をやる。
彼女は絵描きの手に、そっと自分の手を添える。
「大丈夫よ、絵描きさんなら。だってあなたには不思議な力があるんだし」
「不思議な力?」
「うん。それに――」
それからマギカは殺し屋に訊ねる。
「ね、殺し屋さん、奥さんってどんな人だったの?」
「――妻は、さっきも云ったように君に似ている。陽気でいつも太陽のような笑顔を絶やさず、それでいて繊細で……」
彼は遠くを見つめるように話し出す。
記憶の底を探るように、ひと言、ひと言、語り出す。
マギカは、今度は絵描きを見る。
わかるでしょ、絵描きさん?
と、その目はそんな風に絵描きに告げている。
そうだ。殺し屋の云うイメージを思い浮かべれば、もしかしたら描けるのかも知れない、と、絵描きは思い、スケッチブックを手にとる。
それからじっと目を閉じ、殺し屋とその妻と娘のイメージを思い浮かべる。
幸せな家族の姿を。
そして彼はスケッチブックに鉛筆を走らせ始めたのだった。
「出来た」
絵描きは呟くように云うと、ため息をつく。
それがどんな思いだったのかは、彼自身にもわからなかったが、だが彼はそれを成し遂げた達成感を感じる。
手許のスケッチブックには精緻な筆致で描かれた殺し屋と彼の家族の姿があり、それは絵描きが最近描いた絵の中でも最高の出来栄えであっただろう。
実際に彼の絵を覗き込んだマギカが、何故か不満そうな表情を見せている。
「素晴らしい絵なのはわかるけどさ」と、マギカ。
「あたしの絵もこれくらいには仕上げてくれるよね?」
どうやらこの絵に嫉妬しているようである。
絵の専門家でなくても素晴らしいことがわかるそんな絵に仕上がっていると云うことだろう。
絵描きも満足して、その絵を殺し屋に手渡す。
殺し屋はその絵を受け取ると、暗い眼差しでそれをじっと見つめる。
背景の教会。
その前に立つ殺し屋の――絵の中では優しい父親の姿。
その彼に肩を抱かれる妻、そして、娘。
殺し屋は目頭を押さえる。
涙が彼の頬を伝って落ちる。
「絵描きさん、ありがとう」
彼は、ぽつり、と、そう云う。
「そうだ。妻と娘。ちょうどこんなふたりだった。やはり絵描きさんには見えるのだね。本当にありがとう」
絵描きは照れ臭そうに、軽く会釈するが、正直なところ殺し屋の妻と娘の顔が見えていた訳ではないし、これはあくまでもイメージでしかない。
それでも殺し屋にとってはそれで十分だったのかも知れない。
彼はすでに妻の顔も娘の顔も、ぼんやりとしか記憶していない。
だからそこに描かれるのは、本当のふたりの姿である必要はなく、彼にとっての妻と娘の残像であればそれでよかったのだ。
「なあ、絵描きさん」と、殺し屋。
「この絵を描いてもらっている時にね、おれは思い出したんだ」
「思い出した? 何をですか?」
「ああ。昔、幼い頃近所に住んでいた同い歳くらいの娘がいてね。何、直接、話をしたことがある訳ではない。その頃のおれはいつもベッドに横たわって、窓から外を眺めていただけだったのだから」
殺し屋はまた遠い目をする。
遥かな故郷、遥かな昔に思いを馳せるように遠い目をする。
「その少女はいつも元気で、窓の外の草原を走り回っていたものだ。そしてその少女の名前が、妻の名前だったことを思い出したんだよ」
彼は、苦笑する。
そして絵描きが描いた絵をくるくると丸めると、それを大事そうに抱える。
絵描きとマギカに挨拶をすると、彼はゆっくりとした足取りで「スペランツァ」の狭いホールを横切り、店を出て行った。
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