終着駅 もしくは 希望(スペランツァ)の物語(2021)

ろんど087

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第4話 殺し屋 Sicario

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 妻の実家を訪問するまでに、彼の体はかなり衰弱していた。
 列車の中でたまたま乗り合わせたドクターの世話になり、寝台で発作に見舞われて車掌を慌てさせたり、他の乗客に様々な迷惑をかけながらも、それでも彼はようやく妻の実家のある小さな町の無人駅へ辿り着き、それから田舎道をゆっくりと歩いて、その古ぼけた小さな家の玄関のベルを鳴らすことが出来た。
 ややあって玄関に見知った顔が現れた。
 妻の母である。
 彼女は、しかし、彼の顔を見て怪訝そうに首を傾げて見せた。

「どちら様ですか?」
「え? いえ、お義母さん、おれです」
「何か間違っていませんか?」
「いえ、あなたの娘の夫ですよ」
「娘? ウチには娘はいませんが?」
「た、確かに数ヶ月前に亡くなりましたが、しかし――」
「数ヶ月前? あなたは何を云っているんですか? 娘……?」

 そこで彼女は一度言葉を切り、目を伏せると何事かを考えているようだった。
 そして次にゆっくりと顔を上げた時には、先ほどの怪訝そうな表情から痛みを伴った表情へと変わっていた。

「あなたのおっしゃる通り、確かにウチには娘がいましたが、子供の頃に亡くなりました。もう何十年も前のことです。あなた、何者ですか?」

 バカな、と、彼は思った。
 その老女の娘は子供の頃に亡くなっていた。
 その娘の写真を無理に見せてもらったが、それは果たして、妻が見せてくれた子供の頃の写真であった。

 老女に教わった墓地には、彼女の云うように墓標があった。
 妻の名前が刻まれた墓標があった。

 落ち着くんだ、と、彼は自分に云い聞かせた。
 疲れているのだ。自分は妻の死をうまく頭の中で整理できておらずに、記憶が混乱しているのだ、と。
 彼の記憶の中には、老女の住む家も明確に残っていた。
 何度か妻と一緒に訪れて、家族で食事をし、近所の湖までピクニックをしたり、釣りをしたことが記憶に残っている。
 しかし、老女――妻の母である彼女は、彼のことをまったく憶えてさえいなかった。

 彼は途方に暮れた思いで、再び帰路についた。
 列車での帰路。二日間の旅の間中、食べ物は喉を通らず、頭の中は混乱したままであった。
 自分の頭がおかしくなってしまったのか、老女がおかしいのか――。
 だが、妻の墓標はそこにあり、あの田舎町の墓地にあり、それはもう何十年も前から厳然としてそこにあったのは確かであり――。
 混乱したまま、彼は家に帰り着いた。
 列車の中で、娘の記憶さえ、ただの夢物語なのではないか、と云う恐怖を感じながらようやく帰り着いた自分の家で、しかし彼を娘は優しく出迎えてくれた。


「お父さん、どこに行ってたの? 心配させないでよ」
 玄関に現れた娘は、開口一番、そう叫んだ。
 いかにも心配していたらしく、半べそ状態であり、彼が家を出た日の彼女に較べて、げっそりと痩せてしまっているように見えた。

 だが彼は娘のそんな有様を心配している余裕はなかった。
 彼はそこに娘がいたことに、安堵していた。
 おれの娘。可愛いおれの娘――。
 彼は娘を思い切り抱きしめた。

「ちょっと、お父さん、苦しい……。どうしたの?」
「何でもない。何でもないんだ。ただ――」
 父親のただならぬ様子を感じてか、娘は彼に文句を云うのは後回しにして、彼の抱擁を黙って受け入れることにしたようだった。

 しばらく父子は玄関先でそうして抱き合っていた。
 やがて、彼が落ち着いてくると、娘が、何があったのかわからないけれども、まずは部屋に入ってゆっくりして、と、告げた。
 それは妻の彼に対する様子とよく似ていた。
 ふたりは家に入ると、リビングで向き合って座った。

 娘が入れてくれた紅茶を前に置いて、彼はこの旅のことを話し始めた。
 ひと通りの話を聞いた後、娘は笑った。
 妻の陽気さをそのまま受け継いだ彼女は、妻と同じようにケセラセラと笑って見せた。

「そんなはずないじゃない、お父さんったら」
「しかし……」
「う~ん、そうね。まあ、お婆様も歳だし、少し呆けてしまったのかも知れないじゃないの? お爺様はいなかったの?」
「ああ。いなかった。だが、墓標があったんだよ。もう何十年も前に建てられた墓標が」
「本当に、おかあさんの名前だったの?」
「ああ」
「おかしいわね……。おかあさんのお墓はこちらにあると云うのに」

 そうだ。妻の墓はこちらにある。
 こちら? そう云えば、墓はどこだ?

 彼は気づいた。

 いや、それよりも……。
 彼はリビングの暖炉の上にあった写真に目をやった。
 以前、旅行した時に写した家族の写真である。
 だが、何かがおかしい、と、思った。
 彼は立ち上がるとその写真を手にとった。
 親子三人で写した写真。

 しかし、そこには――妻の姿がなかった。
 彼は戦慄した。
 親子三人の写真は、彼と娘だけの写真だった。

「そんなバカな、おい、これを見てみろ――」

 彼は叫んで、娘の名を呼ぶ。
 いや、呼ぼうとして凍りついた。

 娘の名前? 娘? 何と云う名前だ?

 蒼白な顔で彼は娘を見る。
 娘は立ち上がって微笑していた。
 その顔は妻に似ている。生き写しであった。

「おかあさんは、子供の頃に亡くなっていた」
 娘は囁くように云った。
「そうすると、きっと私も存在してはいけないはずなんだよね」

 彼女の目から涙が流れ出した。
 その娘の姿を彼は茫然と眺めているだけだった。
 娘の名を呼びたかったが、その名前がわからなかった。

「さようなら、おとうさん」

 娘の姿がぼんやりとかすんで見えた。
 泣いている娘の姿がぼんやりとかすんで見えた。

 そのまま彼女は、彼の目の前で消えた。

 手にしていた写真を見ると、そこには妻の姿も娘の姿もなく、ふたりが写っていたはずの不自然なスペースのある彼ひとりが写った写真になっていた。
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