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第四章 祭り
6.美しき宝玉
しおりを挟むリノの大きな目が、見開かれる。
「……ミンネのためなの」
かすれるような声で返ってきたリノの言葉を、まったく理解できない。
ミンネは首を横に振った。
もう、無理にでもママに会いにいくしかない。
「待って!」
「止めるな!」
「話すから。ちゃんと話す。だから、座って」
寝台に座るよう、リノはうながした。
ミンネはひとつため息をついてから、寝台に腰を下ろす。リノは机の椅子に腰を下ろした。
「――ママが書いた、話なの」
リノは、また理解しがたいことを言い出した。
「意味がわからん」
「蒼の国。火竜の守る島。トトリ村。その長の娘、ミンネ」
「リノ。わかるように言ってくれ」
額をおさえ、ミンネは眉をよせた。
頭が痛い。
これは、ミンネが魔女の言葉が理解できないために起きていることではないはずだ。
互いに見えているものが違い過ぎている。
だから、言葉の意味がわからないのだろう。
「ママは作家なの。物語を書く仕事してる。……話を考えるのはママだけど、私もたまにアイディアだけ出すことがあるんだ。ミンネの名前は、私がつけた。庭のミントを見て」
「ミンネという名は、母が夢で火竜にさずかった名だ」
「私が考えたミンネって子は、王子様を待ってるお姫様じゃない。馬にも乗るし、弓も引く。強い戦士」
それは自分のことだ。『リノの考えた物語の人物』ではなく、ミンネ本人でしかない。
「馬も弓も、お兄さんが教えてくれた。お兄さんも強い戦士で……」
「リノ」
思わず、ミンネはとがめるような声を出していた。
「ミンネの背中には、傷がある。はじめて狩りに出た時、沢に落ちて転んだから」
そのリノの言葉を聞いた途端、ミンネの中でふくれあがったいらだちは、スッと悪寒に代わった。
「……そんなことを、なぜ知っている?」
「私、幼稚園の頃、大きな公園の沢で転んでケガしたことがあるの。それと同じ傷があるってことにした。ミンネの右足に傷があるのは、木から落ちたから、だよね? それ、私が鉄棒から落ちて怪我したことがあるのと同じにしたの」
リノは、浴衣のすそから右足を見せた。
ミンネも、袴のすそをまくり、自分の足を見る。
傷がある。
どちらの足にも、まったく同じ場所に。同じ形の。
「どういうことだ。これは……」
「腕にもあるよね? やけどのあと」
リノはさらに、左腕をまくって見せた。
ミンネも同じように左腕をまくる。
まただ。まったく、同じ場所に、やけどのあとがあった。
ぞわぞわと背筋が寒くなる。ミンネの呼吸はひどく浅くなり、背に冷や汗が浮く。
「私は物語の中の生き物ではない。生身の人間だ」
「わかってる。でも、今の話は本当。誰もミンネのこと知らないのは、まだママの話が本になってないからだと思う。パパはママの本が出たら、発売日にすぐ本屋さんで買って読むもの。ミンネって名前聞いたら、反応するはず。……でも、どうしてミンネがここに来たのかとか、私が臼山にいたのかとかは全然わかんない。とにかく、ママはミンネの話を書いてる人だから、ミンネには会わせられないの。どんなことが起きるか、想像がつかない」
物語を書いた人の前に、物語の中の人間が現れる。それが一体どんな意味を持つことなのか、ミンネにもわからない。
だが、リノはとても恐れていた。まるで炎竜の怒りを恐れるように。
「信じがたい話だ。だが、もし本当にママ殿が我らの世界に干渉しているならば、なおさら私は会うべきではないか」
「ダメ! 絶対にダメ! 危険だよ。せめて、ママが原稿出したあとにして」
「間に合わない。明日の夜までに、私は山を下りている必要がある。少なくとも、昼には魔女の街を出なければ。夜までは待てない」
あぁ、どうしよう、と言いながら、リノは頭を抱えた。
「本当に危険なの。ママはギリギリまで話をいじるから。今、ミンネが関わって、物語が変わっちゃったら困るもの。だから、お願い。ママには会わないで」
頭を抱えたいのは、ミンネも同じだ。
しかし、これだけの事柄を並べられると、ママと会うのは避けるべきなのかもしれない、とも思う。
運命を紡ぐ女神と、人の子が直接言葉を交わすことが禁忌であると言われれば、理解はできた。
ふぅ、といったんミンネは息を吐いた。
これ以上ミンネが言葉を重ねても、きっと意味はない。
「わかった。ママ殿に合わせろとは言わない。だが――宝玉が要る。私の目的はそれだけだ」
リノも、いったん息を吐いて、麦茶を飲んだ。「飲む?」と聞かれたので、もう一杯麦茶をもらった。
「そもそも、宝玉ってどんなの? 色とか、形とか」
問われて、ミンネは「わからない」としか答えようがなかった。
「もう我々はその宝玉を手放してしまって久しい。祖母の代には、もう失われていたのだ。私にとって重要なのは、『魔女が授けてくれた』宝玉だ、という点に尽きる」
「うーん……私があげられるのって、アメとか麦茶くらいだよ。宝玉なんて、子供が持つものじゃないし……もしママが持ってたとしても、宝石みたいな高価なもの、私の友達に渡したりしない。……ちょ、待って。ミンネ、隠れて!」
リノはミンネを寝台の下に隠れるように指さした。ミンネは素早く下に隠れる。
ガチャ
「どうしたの? リノ」
――ママだ。
鼻を、かいだことのある香りがくすぐった。『タツロー』の匂いだ。コーヒーの香り。ママはコーヒー持っているようだ。
今、飛び出せば、ママに会うことができる。
だが――身体は動かなかった。
ミンネが物語の中の人物だという、リノの話をすべて信じたわけではない。だが、ミンネの本能が、動いてはいけない、と告げている。
恐怖に近い。
禁忌を前にした者の恐れを、ミンネは感じていた。
「大丈夫。ごめん。あの、ちょっと練習してて」
「練習って?」
「学習発表会の。夏休み明けに、配役のオーディションがあるから。うるさかった?」
「うるさくはないけど、心配するじゃないの。夜中に騒がしかったら。……浴衣、まだ脱いでなかったの?」
「あ、うん。名残惜しくて」
「手伝う?」
「うぅん、平気。そろそろ宿題しなきゃ。じゃ、お仕事がんばって」
パタン
扉が閉まる。
足音が遠ざかっていき、離れた場所でまたパタン、と扉の音がした。
ミンネはベッドの下からはって出る。
「あー、びっくりした。ちょっと、先に着替えるね。ミンネの浴衣もかけとかないと。後ろ向いてて」
わかった、と言ってミンネは身体の向きを変えた。
しゅるしゅる、と浴衣を脱ぐ音に交じって「その宝玉って、ほんとに全然情報ないの?」とリノが聞いてきた。
伝説にも、魔女が授けた宝玉、とあるだけで、何色をしているとも書かれてはいない。ミンネは首をひねりつつ、考えを述べた。
「火竜は、虹色の瞳をしている。だから、宝玉は虹色かもしれない。赤い鱗を持っているから、赤色かもしれない。イシュテムを表す蒼色という可能性もあるな」
「あー、なるほど。なんか、一目で見てこれ! って感じじゃないと盛り上がらないよね」
「まぁ、そうだな。見てわかるだろうとは思っているが……」
もう終わったよ、と言われて、ミンネは振り向いた。リノは下着のような部屋着になっている。
「それは――」
ミンネの目は、リノの首元に注がれた。
「それは……なんだ?」
「ネックレス……だけど」
リノが身に着けている首飾りには、きらきらと宝玉が輝いている。
「え? これ、富良野のおばあちゃんにもらったヤツだよ。お土産屋さんで買ってもらったの。八百円くらい」
ミンネは首飾りをよく見たくて、リノに近づいた。
紫色の、トーブテの形をした、宝玉だ。
「これだ」
ミンネは、そう言い切った。
「これだ。リノ。蒼き血の女神イシュテムと、赤い炎の竜との絆を示すのに、これほどふさわしい色はない。これだ!」
「いや、これ富良野のラベンダー色だし。まずいって、さすがに」
「授けてくれ。私に、この宝玉を」
ミンネはリノの前に、ひざまずく。
この瞬間を、待っていた。今ミンネは、己の目的を果たそうとしている。声が震えそうになった。
「お土産屋さんで買った、全然不思議じゃないネックレスだけど……これでミンネが助かるなら。どうぞ。おばあちゃんも許してくれると思う」
リノがかかんで、ミンネの首に首飾りをかける。
「ありがとう、魔女よ」
ミンネは立ち上がり、矢筒と弓を背負った。
石刀を懐にいれ、靴をはく。するとミンネはすっかり蒼の国の少女の姿へと戻った。姿だけでなく、心の中も。
「ミンネ。頑張って。応援してる」
「……あなたも。きっとあなたが、いつでも懸命に励んでいると信じている」
リノの目に、涙が浮かんでいる。
ミンネはリノの頭ひとつ小さな身体を、そっと抱きしめた。
「あのね、ママの話は、いつもハッピーエンドなの」
「ハッピーエンド?」
「物語が、幸せに終わるってこと。最後のページを閉じたとき、きっとこの物語に出てきた人たちは、それからも幸せに暮らすだろうって安心できるのが、ハッピーエンド」
ミンネはリノを見て思った。きっとリノはよい魔女になるだろう、と。
だから、きっとミンネの中のリノの物語はハッピーエンドだ。
「ならば、信じていてくれ。あなたが宝玉を授けた者は、きっと蒼の国を救うと」
身体を離す。
ミンネは麦茶の残りを飲み「世話になった! 皆によろしく伝えてくれ!」と手を振ると、扉に手をかけた。今度はごく簡単に開く。
来たときと同じように、ためらわず身体を投げ出す。そこには闇があるだけだ。
ぐわっと身体が持ち上がる。
「うわぁッ!」
落ちてきたのだから、今度は上がるのが自然かもしれない。
ミンネの身体は、嵐の中の木の葉のように持ち上げられ、ひたすらに上へ上へと上がっていった。
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