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2話:というわけで洗礼を受けることにした

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 貧乏を絵に描いて、額縁にいれたような村。
 あるいは、貧乏という言葉のイデア。

 それが俺の住むナザレだ。
 ここに住んだら、人生終了だと感じさせるのに十分なインパクトのある村。
 まあ、俺の生まれ故郷だけどな。

 日干し煉瓦と木と泥で組み立てたあばら家が並んでいる。
 だいたい二階建てなんだが、一階は土間だ。そこで、動物飼っている奴も少しはいる。
 で、生活水準を端的に表すクソボロイ洗濯物が、貧相に揺れている。屋上でだ。
 
 風で砂埃が舞い上がる。陰気な人生終末の村だ。

「帰ったぞ」

 俺は家に入る。陰気な家。

「あ、お兄ちゃん、お帰りなさい」

 妹が言った。
 家には弟妹がいっぱいいる。一応、俺長男だけどな。
 なんか知らんが、オヤジが死んでからも兄弟が増えた。
 
 俺は日当を妹に渡した。
 この妹はしっかりしている。
 しかしだ――

「あああ、私の私のイエスが帰って来たのですね」

 母親だ。母親のマリアだ。ありふれた名前のユダヤ人のオバサンである。
 しかし、その中身は普通じゃねぇよ。全然、ありふれてない。

 だいたい、俺が生まれたのを「処女で受胎しました」とか言っていた女だ。
 で、オレのオヤジと結婚した。腹に俺がいる状態で。口車で生きてきた女。
 オヤジは身に覚えがなかったようだ。よく納得したわな…‥

「お兄ちゃん、顔? どうしたの」

「殴られた。ちと、現場で揉めた」

「え…… もう、無茶はしないでよ」

「ああ、分かってるよ、俺からは手を出してねェ」

 俺はそうって、土間の奥の部屋に上がった。
 そんで、座った。
 
 今日はもう貧乏くさい飯を食って寝るだけだ。
 で、起きてまた、労働にいそしむのである。
 これ死ぬまで繰り返す。

 それを考えると、気が遠くなってきた。 
 そこらを歩いている預言者が言っているように、審判の日がきて早く世界が滅びて、新たな神の国が来ればいいと思う。
 まあ、来ないと思うけど。

 そもそも、神の国ってなんだよ?
 俺の死んだオヤジは、無学な大工だった。俺と同じだ。
 でも、俺と違うのは、字が読めた。
 で、律法の巻物をよく読んでいたのを覚えている。
 しかし、あんだけ律法読んでいたくせに、嫁がこれだよ……
 
 俺は横目で母親のマリアを見た。
 とんでもない淫売なのだ。

「姦淫するなかれ」どころじゃない。
 存在そのものが「姦淫」みたいなものだ。
 まあ、それを言ったら、俺はその「姦淫」で生まれてきたわけだが。

「あああ、イエス…… 神様がまた、子どもを授けてくれそうです――」

「あああ! てめぇ! いい歳こいて何言ってんだ! まだ、上がってねーのか!」

「もうないわよ。イエス。でも、受胎するの。だって、神の子だから」

「処女受胎の次は、閉経受胎かよ! いい加減にしろよ! てめぇ!」

 このさびれた村のナザレの男たちをみんな兄弟にする勢いで姦淫しまくりの母親。
 それが、このマリアだ。共犯者が多すぎて問題にする事すらできないレベルだ。

 俺を生んだときに「神の子」で「処女受胎」という絵空事を周りが信じたので、コイツも調子にのったのだろう。

「くそ! くだらねぇ! 俺は寝る! 明日も早いんだ!」

 俺は二階に上がった。糞みたいな匂いのしみついたボロキレに包まれて寝るのだ。
 
 横になった俺は、怒りに満ちていたのだ。
 なんというか、今日の出来事を思いだしていた。
 なぜか、無性に腹が立った。

 夢かもしれんが、神にあった。で、人類を救済しろという。
 で、具体的になにをすればいいのかは、さっぱり分からん。
 つーか、他人より俺を救済すべきだろ。この状況。
 
「ああ、神の審判で罪人は全部、焼かれればいいのになぁ」

 俺はそんな思いを口に出していた。救うより滅ぼした方がいいと思う。
 とくに、金持ちだ。あのセッフォリスの街に住んでいるユダヤ人どもだ。
 ギリシャかぶれしやがって、金ばかり持ちやがって。
 なんで、こんなに世の中、腐ってんの?
 俺は真面目に働いても、一生、日雇いだよ。奴隷より少しマシな程度だよ。
 で、母親はあんなんだし。
 それでガキのころからいじめられまくったわけだ。

 30になっても嫁はいねーし。
 童貞だし。
 つーか、周囲で俺だけだよ。マジで30にもなって嫁がいないのは。
 貧乏だし、もてないし、童貞だし、底辺職だし――
 
「人生真っ暗闇じゃねーか!! 俺はずっと童貞か?」

 だんだん俺は興奮してきた。
 そもそも、なんなの諸悪の根源は?
 文字も読めないし、学もねぇ俺には分からねェ。
 でも、怒りはある。
 この世界に対する行き場のない怒りだ。

 俺はその夜、怒りでその身をパンパンにさせながら寝たのだった。
 少し枕を濡らしたけど。

        ◇◇◇◇◇◇

 ガリラヤ地方に日が昇る。
 風が砂塵を巻き上げて、空気を黄色く染めていく。
 今日も最悪な一日の始まる予感でいっぱいだ。呪われろ世界!

 そんな感じで俺は、仕事に向かう。
 ナザレの街は大工(テクトーン)ばかりだ。
 他に食っていく道が無いからだ。
 
 全く舗装されていない、荒れた道をテコテコと歩く俺。
 
「おい、オマエ、なにやってんの?」

 いきなり声をかけられた。
 おっさん。印象が不明瞭な平凡な顔をしたおっさんだった。

「誰だよ? オマエは?」

「わかんない?」

「わからねーよ」

「神だよ。神。で、オマエなにやってんだよ?」

「あ? これから仕事行くんですけど。神? 神って神?」

「アホウか! なんで、連呼するの? みだりに吾輩の名を唱えちゃダメって教わってないの?」

「そうっすか―― すんません」

 俺は謝った。神罰喰らったり、呪われたりするのは嫌だったし。

「で、仕事なんていいから、オマエは、大事な役目あるでしょ」

「人類の救済?」

「そう。それよ。早くやって」

 なんか、この下請感というか、丸投げ感はなんだろうと思う。
 神なら自分でやればいいんじゃねーかと思うけど。

「つーか、俺、大工(テクトーン)だし、童貞だし、貧乏人だし、母親は淫売だし。客観的に見て無理じゃないっすか?」

「なんでムリとかいうの? それ決めるの? オマエが? 神である吾輩を差し置いて…… ほぉぉ、エライねェ、ナザレのイエス様は」

 なんか、この男の周囲にどす黒く邪悪な気が満ちてきた気がした。
 ああ、確かにコイツは人間じゃねぇと思わせる雰囲気。
 つーか、人類の救済よりも、俺はどっちかつーと破滅の方を望んでいるんだけど。 
 この世界、クソだから。
 ただ、呪われるのはちょっと嫌だった。

「じゃあ、なにすればいいんっすか?」
 
 態度としてはふて腐れた感じで俺は訊いたわけだ。

「すぐに訊くのか…… まあ、最初はサービスでいいか」

 神と名乗った男はポリポリと頭をかいた。
 パラパラとフケが落ちた。

「あ~あ、ヨハネのとこ行って、洗礼(バプテスマ)受けろ」

「ヨハネ? 誰それ?」

「ヨルダン川で洗礼(バプテスマ)している。預言者な。とりあえず、弟子入りしてこい」

「ふーん……」

 ああ、ヨハネ…… 
 なんか、聞いたことあるような、無いような。
 裁きの日が近いとか、神の国が来るとか言っている預言者のひとりだよな。
 どーすっか……
 なんか面倒くさいなぁ。
 つーか、ヨルダン川って遠いんじゃね。

「このまま、日雇いやってても、ずっと童貞だよ。ナザレのイエス」

 腕を組んで考えている俺に神が言った。
 決定力のある言葉が俺の心のゴールネットに突き刺さる。

「え!! そうなの!」

「でな、吾輩の言うこと聞いていれば、脱童貞! 愛人ができる。これマジ」

 決まった。
 俺は、ヨハネに洗礼(バプテスマ)してもらうことに決めたのだった。
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