軍国商売

中七七三

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12.マタギの教えと美貌の萌芽

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 一九三九年、上海の夜。
 昭和通商の事務所に、百瀬彩子は静かに佇む。
 既に片桐は退勤していた。書類仕事をしていた山田は何処かに行ったがどうでもよかった。

 窓の外では、戦火の匂いが漂う。
 彼女の手には、愛銃モーゼルC九六が光る。
 その銃身を磨く指先は、まるで恋人を愛でるように繊細だ。
 片桐の姿が、彼女の心に浮かぶ。

「片桐様……貴方の戦場で、私の銃は歌う」

 その呟きは、上海の闇の中に溶けていく。
 彼女の瞳は遠くを見やる。上海の街並みよりも遥か遠く。

 日本の北国、秋田の山奥。
 マタギの祖父との記憶が、鮮やかに蘇るのだった。

        ◇◇◇◇◇◇

 百瀬彩子、十五歳の夏。
 秋田の深い山々が、彼女の故郷だ。
 鬱蒼と茂る様々な木々の生えた森。それは緑色をした海底のようであった。

 清流が岩を削る音が響く。
 それは山の精霊が、風に囁くようだった。

 祖父、百瀬鉄蔵は、マタギの名手だった。伝説と言ってもいい。
 古希を過ぎても、眼光は鷹の如く鋭い。
 彼の手に握られる村田銃は、古びていたが精悍だった。まるで持ち主のように。

 鉄蔵は、彩子を山に連れ出す。

「彩子、銃は山の魂だ」

「撃つは獲物にあらず、心だ」

 その言葉は、岩のように重く、風のように柔らかだった。

 彩子は、祖父の言葉に耳を傾ける。
 彼女の黒髪は、陽光に輝く。
 その美貌は、既に村の噂だった。
 透き通る肌、切れ長の瞳。
 山の精霊が宿ったような顔立ち。
 村の若者が、彼女に恋心を抱くのは当たり前だった。

 だが、彩子の心は、銃と山にのみ向かう。
 鉄蔵が、彩子に銃を握らせる。

「この村田銃、古いが魂がある」

「握れ、感じろ、撃て」

 彩子が、銃を構える。
 重い銃身が、少女の肩に食い込む。
 二〇〇メートル先に、木の的が立つ。
 鉄蔵が、静かに教える。

「風を読め。山の息を聞け」

「心を静め、的と一つになれ」

 彩子が、息を整える。
 風が、頬を撫でる。
 右から左へ、そよぐ。
 彼女の瞳が、標的を捉える。
 照門と照星が、星を結ぶ。
 引き金を、羽の如く引く。

 パン!
 弾丸が、二〇〇メートルを疾走する。
 的の中心を、雷の如く貫く。
 鉄蔵が、目を細める。

「良いぞ、彩子。山がお前を選んだ」

 彩子が、笑みを浮かべる。

「祖父様、私、もっと撃ちたい! 山と一緒に、強くなりたい!」

 鉄蔵が、頷く。

「銃は、命を守る刃だ」

「だが、撃つは己の心を試す」

「彩子、お前は特別だ」

「その姿、その腕、山の神の贈り物だ」

 彩子が、首をかしげる。

「姿? 姿は関係ないですよ」

「銃が撃てれば、それでいい!」

 鉄蔵が、笑う。

「ハハ、良い娘だ」

「だが、彩子、その美貌は武器だ」

「男を惑わし、敵を油断させる」

「銃と顔、両方で戦うんだ」

 彩子が、頬を膨らませる。

「祖父様、からかわないで! 私は、銃だけで十分です!」

 鉄蔵が、優しく頭を撫でる。

「お前は、俺の誇りだ」

「いつか、大きな戦場で撃つ日が来る」

        ◇◇◇◇◇◇

 夏が過ぎ、秋が深まる。
 彩子は、鉄蔵と山を駆ける。熊、鹿、兎。獲物を追う日々が続く。
 鉄蔵が、様々な銃を教える。
 村田銃、三〇年式小銃。

「銃はどれも魂を持つ」

「不良品でも、心で撃て」

 彩子が、銃を握る。
 どんな銃でも、彼女の手で歌う。
 錆びた銃身、重いボルト。
 それらを、彼女は意に介さない。
 二〇〇メートル、三〇〇メートル。
 どんな距離も、的を射抜く。

 鉄蔵が、驚嘆する。

「彩子、お前の腕は神業だ」

「マタギの血が、こうも花開くとは」

 ある日、彩子がモーゼルC九六を手に取る。
 鉄蔵が、目を輝かせる。

「そのモーゼル、俺の宝だ」

「彩子、お前にやる」

 彩子が、銃を抱きしめる。

「祖父様、ありがとう!。この銃、私の相棒です!」

 彼女が、モーゼルC九六で撃つ。
 三〇メートルの的を、瞬時に射抜く。反動の強い大型拳銃でこの距離は驚異的だった。
 鉄蔵が、笑う。

「ハハ、お前、俺を超えたな」

「これから、どんな戦場でも生きろ」

 彩子が、頷く。

「祖父様の教え、忘れません。銃で、心で、強くなります」

        ◇◇◇◇◇◇

 昭和通商の上海の事務所だった。
 百瀬が、モーゼルを手に、微笑む。
 祖父の教えが、彼女の銃を導く。
 マタギの血が、彼女の射撃を極めた。
 美貌は、彼女のもう一つの武器。
 片桐の姿が、脳裏に浮かぶ。

「片桐様、貴方は私の戦場。私の銃と心、貴方に捧げます」

 彼女の美貌が、事務所の薄暗さに輝くが、精神性はちょっと闇よりだった。いや病みか。

 山田が、書類を抱えて叫ぶ。

「百瀬さん、なにぼーっとしてるんですか!?」

「山田いたの?」

「せめてさん付けしてくれよ。一応先輩なんだが……あ、その銃をしまってお願いですから……」

 武装している人間に強気にでれるほど、山田は愚かではなかった。勇敢でもないのであるが。
 上海の夜は戦火の残り香が漂っていた。
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