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二、女一の宮、新な女房と猫を愛でるの語

(一)

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 目の前に、コロコロ転がる鮮やかな毬。
 元々は、蹴鞠用の毬だったんだけど、それに色鮮やかな糸の巻かれている。
 ただの毬なら糸なんて必要ない。蹴鞠に必要なのは毬と、履き慣れたちょっと古びた鴨沓。真新しい沓は鞠を蹴りにくい。
 じゃあ、なんで糸を巻いてるのかって?
 それは簡単。

 「ほうら、コハク」

 宮さまが毬を独楽のようにクルクル回してやると、目の前で退屈そうに寝そべっていた猫のコハクがムクリと起き上がった。
 起き上がるだけじゃない。回る毬にいつ手を出そうか。その機会を、虎視眈々とうかがい始める。虎視眈々? ううん。猫視眈々。

 タシッ。

 コハクの茶色い前脚が、毬を押さえる。毬に糸が巻いてあるのは、華やかな色にすることで、コハクの興味を引くためと、コハクの爪が引っかかりやすいようにするため。軽く、ツルンとした毬のままでは、押さえた途端に、どっかにコロンと転がっちゃうから。
 でも。

 コロン。

 押さえられることに我慢できなくなった毬が、コハクの脚から逃れて転がる。一瞬、「あれ?」って顔をしたコハク。すぐに、毬を追いかけていく。

 「かわいいでしょう、猫って」

 「はあ……。そう、ですね……」

 かわいいんだろうか。
 よくわからないまま、宮さまの言葉に相づちを打っておく。
 かわいい……のかな?

 「ああやってじゃれてるコハクを見ていると、時が経つのを忘れてしまうの」

 そうかな? そうなのかな?

 「美濃は、そう思わない?」

 「そうですね。愛らしいと思います」

 ――宮さまが。
 転がる毬に戯れるコハクより、それを見て喜んでる宮さまのがおかわいらしくって。
 そもそもわたし、「猫」ってのを見るのが初めてだから、毬と追いかけっこをしてるコハクがかわいいのかどうか、判断に悩む。
 遠く唐国からくにから、仏典を鼠に齧られないように守るため、ついてきたという生き物、猫。
 都では普通に飼われているのかもしれないけど、地方の、美濃では見たこと無い生き物。美濃で見ることができるのは、猿や鹿、犬、それに狐。猫はいない。
 だからこうして目の前にしても、「よくも飽きずに毬を追いかけられるなあ」ぐらいにしか思わない。
 宮さまが「かわいい」とおっしゃるのなら、きっとコハクは、猫の中でも「かわいい」部類なんだろう。うん。
 その「かわいい」コハクを見て楽しまれる宮さまは、もっと「かわいい」。
 白い肌を、少しだけ桃色に染めてコハクを見つめる宮さま。口元を緩められて、コハクと目が合うたびに、「ん? どうしたの?」みたいな感じで小首をかしげる。白い肌に流れるように黒髪がかかって――ああ、お人形みたい。「愛らしい」「かわいい」って言葉は、宮さまのために存在してるんだなって思えてしまうぐらいに。
 
 (『源氏物語』に出てくる紫の上も、きっとこんな感じの少女だったんだろうな)

 源氏の君が愛する藤壺の宮に似た面差しだったという、紫の上。とっても愛らしい少女で、身寄りのないところを源氏が引き取り、そのまま愛くしんで育て寵愛したという。
 誰かに似てるとかそういうのは置いといて、こんな愛らしい女の子が、祖母を亡くして心細く暮らしてたら、誰だってお持ち帰りしちゃうわよね、きっと。

 「どうかしたの? 美濃」

 「あ、いえ。……なんでもありません」

 宮さまの愛らしさに見とれてましたなんて言えない。あわてて取り繕おうと、近くにあったものに視線を動かす――って、なにこれ。
 宮さまのそばに置かれていた、不思議な棒。棒の先には、几帳にくっつける野筋みたいな細い紐のようなものが、いくつも束ねてあって。埃取るハタキ? いや、それにしては色鮮やかすぎ。

 「それ、紐が蛇のようにうねるよう、動かしてご覧なさいな」

 「蛇?」

 よくわからないけど、棒のほうを持って、床の上に蛇の動きを再現。
 こんな感じ? 紐が左右にうねるように、棒を動かす。

 「ニャア」

 それまで毬と一匹戯れていたコハクが近づいてきた。

 ニョロニョロニョロニョロ~。

 タシッ、タシッ、タシッ!

 コハクの目が紐を追いかけ、コハクの前脚が紐を捉えようと、何度も床を叩く。

 「山鳥の尾のように垂らして揺らしても面白くてよ」

 「山鳥の尾?」

 言われるままに、じゃあと、今度は棒を持ち上げ、紐を垂らす。ちょっとだけ上下に振ってみる。

 ユラユラユラユラ~。

 テイッ、テイッ、テイッ!

 しゃがんだコハク。紐を仰いで、前脚で紐を捉えようと必死。

 「かわいいでしょ」

 「そうですね。面白いです」

 なんか、このまま猫が釣れそう。
 餌はここだよ。食らいついておいで。

 「このコハクはね、兄さまが、わたくしが寂しくないようにって、贈ってくださった子なの」

 「へえ。そうだったんですね」

 ニョロニョロ、ユラユラ。コハクで遊びながら話を聞く。
 チョイチョイ、ニョイニョイ。コハクに捕まらないように、それで興味を引くように棒をふるの、意外と楽しいわ。

 「実際連れてきたのは、真成まさなりなのだけど。彼の里にいた猫が子を産んだのでって、譲ってくれたのよ」

 「真成?」

 「兄さまの帯刀たちはきよ。そばにいたでしょ? 兄さまの乳兄弟なの」

 「え、ああ」

 あの「女房どの、これを」で、瓜の汁を拭く布を差し出してくれた男ね。そして、安積さまの使いで扇と文を届けに来た若い男。
 口を真一文字に引き結んだ、実直で寡黙な感じで。扇を届けに来たときだって、用を果たすとサッサと帰ってしまったし――。

 ミシ。

 おっと。つい指に力が。
 もう少しで棒を圧し折っちゃうところだった。
 自分の扇はともかくとして、これまで折ったらダメだよね。

 ――夏の夜の さやけき月に 風そよぐ 手ならす乙女 笑みておもほゆ

 夏の夜、明るくきれいな月に合わせてそよぐ涼しい夜風。扇をあおいで夜風をそよがせる乙女(天女)を、思い起こして微笑んでおります。

 悪かったわね。強力、おもしろ天女で。
 「笑みて思ほゆ」じゃないわよ! 「笑みて思ほゆ」じゃ! こっちは「怒り思ほゆ」なんだからねっ!?
 思い出すだけで、こう、フツフツと湧いてくる怒り。人の失敗を笑うだなんて、いくらカッコよくても許されることじゃないんだからね?

 ミシミシ。

 「美濃?」

 怪訝な宮さまの声。
 戯れてたコハクも、ビクッと動きを止める。

 「ああ、えと。なんでもありません」

 あぶない、あぶない。
 もう少しでポッキリだったわよ。
 棒が少し、すこぉし曲がった気がするけど、もとからこういう棒だったのだと思うことにする。

 「わたくしね、あなたがここに来てくれて、とってもうれしく思ってるのよ」

 「え?」

 わたしが来て? うれしい?

 「だって、今まで命婦とか、ずっと年上の者ばかりだったんだもの。なにかあるとすぐに、『いけません、宮』みたいなこと言われるし」

 「はあ……」

 「兄さまがいらしてくだされば、『まあまあ』ってとりなしてくださるけど、兄さまもそう簡単に、ここへいらっしゃることのできないご身分になられたから」

 スッと、コハクを抱いて立ち上がられた宮さま。そのまま上げたままの御簾をくぐって、簀子の縁に出た。

 「美濃なら、こうしてわたくしがここまで来ても怒らないでしょ?」

 「えっと、まあ……。はい」

 命婦さまとかなら、「宮さまの肌が焼けてしまいます!」とか、「誰かに見られでもしたら」とか怒るんだろうけど。
 普通の姫といったら、肌を日に晒さず、人目から隠れてお過ごしになるものだし。それも姫のなかの姫、内親王さまともなれば、室の奥で多くの女房に囲まれて、一日中座ってるのが当たり前だろうし。
 でも。

 「わたくしね、本当はこうして外に出るのが大好きなの。暗い室の中から眺めるより、とっても色鮮やかに景色が見えるんですもの」

 簀子の縁。その勾欄こうらんに腰を掛けた宮さま。コハクを抱いたまま、庭にある桐の木を見上げる。薄紫の花を咲かせる桐の木。その濃い緑の葉から差し込む明るい初夏の日差しにつやめく宮さまの黒髪。光沢を放つ夏の「卯の花」の襲袿。

 宮さまの後を追って、外に出ようとしたわたしの足が止まる。
 
 (天女よ、天女がいるわ……)

 嘘でもなければ、お世辞でもない。
 初夏の日差しに輝く天女。「天つ乙女」ってのは、こういう方のことを指す言葉なのよ。
 風にそよぐ桐の葉と、宮さまの髪。腕のなかのコハクを見つめて微笑まれる宮さま。
 宮さまのお肌が焼けるのは気になるけど、でも、ずっと見ていたいぐらい美しい。

 「美濃」

 「え、はい!」

 「わたくし、あなたには、ずっとそばにいて欲しいと思っているの。女房と主ではなく、わたくしを友か妹のように思ってくださって結構よ」

 「い、妹っ!?」

 わたしにこんな美人の妹なんていたら……。
 友だちだったら、絶対みんなに自慢するし、妹だったら、それこそ猫のようにかわいがるわ。

 「そうね、二人だけの時は、〝美濃〟ではなく〝菫野〟と呼んでもいいかしら?」

 「はい! 喜んで!」

 思わず、前のめりに返事をしてしまう。
 そんな鈴の音のような声で名前を呼ばれたら。わたしの地味な名前すら愛らしいものに思えちゃう。

 「まあ。では、二人だけの時はわたくしのことも〝桜花〟と呼んでくださいな」

 「え、いや、それは……」

 いくらなんでも図々しい、厚かましすぎない?
 のぼせ上がりかけた頭が一気に冷まされる。

 「いいのよ。あなたは、わたくしの友であり姉なのですから。二人だけの時は……ね?」

 「わっ、わかりました!」

 小首をかしげ、いたずらっぽい目で笑った宮さま。
 この笑顔に、この愛らしさに「いけません」と言える者などいるだろうか。いやいない。
 
 (そういや、自分のお仕えした主を好きすぎたって人いたなあ)

 確か、清少納言とか呼ばれてた人。
 あの人も、今のわたしみたいに、お仕えした皇后さまにべた惚れしてたんだろうなあ。だとしたら、わたしもこの先、あの人みたいにつれづれに日記みたいなもの、書いちゃう?
 いやいや、この美しさ、愛らしさを残すのに、わたしの文章では力不足よ。誰か、素晴らしい腕利きの絵師を呼んできて、後の世に残せるだけの絵巻にしてもらわなきゃ。

 「菫野? どうしたの?」

 「いえ、なんでもありません」

 今すぐ絵師を手配できませんので、とりあえずはこの光景を、わたしの瞼の裏にしっかり留めおきます。
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