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四、妖狐、遊びをせんとや戯れるの語
(二)
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「――ですから、前に投げるのではなく、前に押し出すような感覚で石を飛ばすんです」
言いながら、拾った石を川面に投げる。
「おお」
「これはこれは」
パシャパシャパシャパシャパシャパシャパシャ。
七回跳ねて川に沈んだ石に、安積さまと中将さまが感嘆の声を上げる。
「これで良いのかな、女房どの」
「ええ。水面を石でなぞるように、払うように、です」
驚くだけじゃない。わたしの教えたように中将さまが石を川に投げる。
パシャパシャパシャパシャ。
四回。
「ふむ。意外と難しいな」
石の行く末を見終わり、姿勢を直した中将さま。
パシャパシャパシャ。
三回。
「そうですね。修練が必要なようです」
同じく投げ終えた安積さま。
「とすると、女房どのは、よほどの修練を積んでこられたのかな」
え、えーっと。
こんなのに、修練なんて必要なの?
中将さまの問いかけに戸惑う。
美濃なら、誰か子どもが水切りして遊んでることに気づいた大人が、面白半分に投げ方を教えてくれるものだけど。
貴族の子だからとか、百姓の子だからとか、そういうのは関係ない。誰もが自分の腕を自慢に思ってるし、それを教えて「スゴーイ!」って言われたくて仕方ない。
「石が川に沈まず、鳥のように飛んでいくとは。世の中には、まだまだ知らぬことがたくさんあるのですね、中将どの」
わたしが答えに困ってると、安積さまがニッコリ笑っておっしゃった。
「そうですな。これを都の女性に披露して見せたら、どんな顔をするのか。楽しみですな」
女性に見せる前提なのか。
まあ、そういう話をネタに宮中の女房たちと語り合うのも、公達の嗜みなんだろうけど。
――というか、わたし、こっち側にいていいの?
ハタと、思い至る。
普通なら、「この間行ってきた宇治で、このような遊びを覚えたのですよ」とか言って披露される水切りに、「まあ、すごいですわ」とか驚き扇で顔を隠す側なんじゃないの? 女房なんだから、「技を伝授する側」じゃなくて、「技を見せてもらう側」だと思うんだけど。
間違ってる気しかしない、自分の立ち位置。
「兄ちゃんたち、まだまだだな」
それまで黙っていた孤太が口を挟む。
「ソイツに水切りの技を教えたのは、オレだぜ? 技を披露したかったら、オレに習うのが一ば――フゴフガフゴッ!」
あわてて孤太の口をふさぐ。
いくらなんでも「兄ちゃん」はないでしょう、「兄ちゃん」は!
敬語もなにもあったもんじゃない。
「まあまあ、女房どの」
「それより、きみはそんなに達者なのかい?」
「おう! オレより上手に投げられるヤツは他にいないぜ!」
中将さまと安積さまが、無礼を気にしていらっしゃらないことで、調子に乗った孤太。口をふさぐわたしの手を払うなり、得意げに「エッヘン!」と胸を反らす。
――エッヘンじゃないわよ、エッヘンじゃ。
「いいか、石を投げるには、まず、いい石を選ぶことが大事なんだ。少し尖った角を持つ平らな石を選ぶんだ。で、腰をひねって押し出すように投げる――っと!」
ヒュッと風を切って飛んでいく孤太の石。
パシャパシャパシャパシャパシャパシャパシャパシャパシャパシャパシャパシャ。
十二回。
「おお」
「すごいな」
お二人の感嘆に、孤太が鼻の下をこすりながら胸を反らした。反らしすぎて後ろにひっくり返りそうなぐらい。
でも。
(アンタ、ズルしたでしょ)
力使ったわよね? 七回跳ねた後、ちょっとだけおかしな動きをしたもん。
ジロリと睨むと、ニシシッと歯を見せて笑い返された。やっぱり力を使ったんだ。
「――中将さま」
割り込むように聞こえた呼びかけ。その声に、孤太も胸を反らすのをやめ、誰もが一斉にそちらを見る。
「都より早馬が参っております」
石の散らばる河原に膝をついた舎人。うやうやしく書状を中将さまに差し出す。
「……フム。宮さま。申し訳ありませんが、私は一足先に都に戻らせていただきます」
書状に目を通した中将さまがおっしゃった。
「いや、ね、私の母が風邪をひいたみたいで。陰陽師が言うには方違えしたほうが良いとのことで。北嵯峨の荘に向かうらしいのですが、そうなると男手がおらぬのは寂しいとか、恐ろしいとか。いやはや、わがままな母で困ったものです」
説明を終えて、大きく息を吐き出した中将さま。
ようは、中将さまの母君が北嵯峨で療養されるのに、寂しいから息子について来てほしい。どうせ宇治で遊んでるならヒマでしょ? ってことなんだろう。
(宇治に北嵯峨かあ……)
先の左大臣家なら、ここ以外に荘を持っていてもおかしくないけど。
(そのうち、北山に~とか、山科に~とかもありそうよね。東西南北どこにだって荘はありましてよ、ホホホ……みたいな)
それでもって、どこの荘も贅の限りと風趣を凝らしてあるんだ、きっと。
「お母上も病を得られて、心細くおなりなのでしょう。早く行ってお顔を見せて安心させてあげてください」
安積さまがおっしゃった。
まあ、病気の時って、誰かにそばにいてほしいよね。それが血の繋がった息子なら、よけいに安心すると思うし。
「では、一足先に都に戻らせていただきます。ああ、宮さま方は、予定通りこのまま宇治でお過ごしください」
「いや、でも……」
「大丈夫ですよ。こちらでのことは、万事家司に命じておきます。至らぬこともあるかもしれませんが、精いっぱい饗させていただきますので、このまま宇治を楽しんでください。でないと、せっかくお誘いしたのに申し訳なくて、私の気がすまないのですよ」
軽く口の端を上げた中将さま。
「わかりました。では、このままご厚情に甘えて、宇治に留まらせていただきます」
「ええ。そうなさっていただけると、気が楽です」
「それでは」と、軽く安積さまに一礼なさった中将さま。
「ああ、そうだ女房どの」
そのまま立ち去るかと思ったのに、なぜか近づいてきた中将さま。
「今宵が絶好の機会ですよ。私が出立すれば、荘の人目も減りますので」
え? へ?
絶好の機会? 人目が減ってお得なことって?
耳打ちされた内容が、理解できない。
「――箏の次は、琵琶でもご指南いただいては? ああ、それより、恋のいろはを手取り足取りご指南いただいたほうがいいかな?」
「うえっ!?」
驚いた声がひっくり返った。
「ハッハッハッハッ」
目を白黒させるわたしを笑う中将さま。そのまま悠然と歩いて行かれるけど。
(なにが、〝恋のいろは〟よ、ふざけんなっ!)
からかって遊んでるだけでしょ、アンタ!
というか、箏の次は琵琶って。あの夜のこと、見られてたのっ!?
箏を教えてもらってたこととか、わたしが指を切って、安積さまがちちち、チュ、チュッて――!
「どうした?」
わたしの異変に気づいた孤太。
だけど、説明なんかできなくて、ひたすら熱くなった頬を手で包んで冷やすことに専念する。
(それでなくても、今のわたし、ちょっとおかしいってのに――!!)
河原で水切り遊びをしてたのだって、元はと言えば、安積さまのことばっかり考えて、気持ちがモヤモヤしてたから。
この宇治に来てからというもの、安積さまのことが気になるっていうのか、落ち着かないっていうのか。
今だって、こうしてそばにいらっしゃると、どうにも目が離せなくて、ついジッと見てしまうというのか、心臓がバクバクするというのか、血の巡りがものすごく早いというのか。
とにかくわたしが、すっごく変な状態になってるっていうのに。あんなふうにからかわれたりしたら、したら――。
「美濃どの」
「ピャイッ!!」
「ぴゃい?」
「あ、なんでもありません!!」
驚いて舌を噛んだだけです。プクッて、笑いをこらえ切れなかった孤太が笑い始めたけど、気にしないでください、安積さま!
「……美濃どのの故郷はどんな所なんだい?」
「へ?」
「美濃は、山深く川の多い地だと聞いているけれど。ここに似ていたりするの?」
「え、ああ。そうですね。似ていると思います」
安積さまの質問に、徐々に気持ちが落ち着いてくる。恋が云々とか言われると、頭がおかしくなりそうだけど、美濃のことを話すのなら全く問題ない。
「故郷が恋しくなる?」
「まあ、それなりには。でも――」
ちょっとだけ思案する。
美濃にいる父さまと母さま。会いたくないと言えば嘘になる。「懐かしくない」はただの虚勢。
「ここには桜花さまがいらっしゃいますから。わたし、桜花さまのために一生懸命頑張ろうって思ってるんです」
言ってから、〝桜花さま〟じゃなくて、〝宮さま〟って言うべきだったかなと反省する。いくら、桜花さまご自身がそう呼べっておっしゃったからって、兄君にまで、それを通してはダメだよね。無礼すぎるもん。
「そうか」
でも安積さまは、咎めたりなさらなかった。それどころか、下を向き、大きく息を吐く。息を吐くことで、体の力を抜いた感じ。 ――どうしたんだろ?
「にしても、きみは桜花のことを名で呼んでるんだね」
あ、ここで叱られる?
「申し訳ありませ――」
「違うよ。怒ってるんじゃないんだ。謝らないでくれ」
そうなの? 咎められたりしないの?
「それよりも。僕のことも同じように、名で呼んでくれるとうれしいんだけど?」
「へあっ!?」
変な声出た。
「僕のことも〝安積〟と。僕もきみのことを〝菫野〟と呼ばせてもらうよ。美濃や宮では堅苦しくて仕方ない」
いやいやいやいや。
桜花さまは女同士だし、誰の目もないときは問題ないけど。
安積さまとわたしが、そんな風に呼び合ってたら、その……、えと……、なんていうのか、あの……。
「きみに名を呼ばれる、きみの名を呼ぶ権利を僕にもくれないか、菫野」
え、は、えっと、えっと……。
――今宵が絶好の機会ですよ。
――恋のいろはを手取り足取りご指南いただいたほうがいいかな?
なぜか頭の中で、中将さまの残した言葉がグルングルンと渦巻く。
何が、絶好の機会よ! 恋のいろはってなんなのさ!
そんな機会はいらないし、「い」も「ろ」も「は」も知りたくないっての!
「ダメかい? 菫野」
戸惑うわたしの手を包むようにして握る安積さま。そのまま上目遣いでこちらを見てくる。
「わ、わかりましたから! ててて、手をっ、手を離してください!」
でないと、わたし、わたしっ!
それでなくても、安積さまのことで、心がモヤモヤモジャモジャしてたってのに。
「――おっと」
涼しい川の風でも冷えない、のぼせきった頭。ひっくり返った体を孤太が受け止めた。
「まったく。だから、からかい過ぎなんだよ、お前は」
孤太。少しは宮さまを敬うってことを覚えなさい。アンタが妖狐だからって、礼儀知らずじゃいられないのよ。
遠のく意識で、そんなことを思った。
言いながら、拾った石を川面に投げる。
「おお」
「これはこれは」
パシャパシャパシャパシャパシャパシャパシャ。
七回跳ねて川に沈んだ石に、安積さまと中将さまが感嘆の声を上げる。
「これで良いのかな、女房どの」
「ええ。水面を石でなぞるように、払うように、です」
驚くだけじゃない。わたしの教えたように中将さまが石を川に投げる。
パシャパシャパシャパシャ。
四回。
「ふむ。意外と難しいな」
石の行く末を見終わり、姿勢を直した中将さま。
パシャパシャパシャ。
三回。
「そうですね。修練が必要なようです」
同じく投げ終えた安積さま。
「とすると、女房どのは、よほどの修練を積んでこられたのかな」
え、えーっと。
こんなのに、修練なんて必要なの?
中将さまの問いかけに戸惑う。
美濃なら、誰か子どもが水切りして遊んでることに気づいた大人が、面白半分に投げ方を教えてくれるものだけど。
貴族の子だからとか、百姓の子だからとか、そういうのは関係ない。誰もが自分の腕を自慢に思ってるし、それを教えて「スゴーイ!」って言われたくて仕方ない。
「石が川に沈まず、鳥のように飛んでいくとは。世の中には、まだまだ知らぬことがたくさんあるのですね、中将どの」
わたしが答えに困ってると、安積さまがニッコリ笑っておっしゃった。
「そうですな。これを都の女性に披露して見せたら、どんな顔をするのか。楽しみですな」
女性に見せる前提なのか。
まあ、そういう話をネタに宮中の女房たちと語り合うのも、公達の嗜みなんだろうけど。
――というか、わたし、こっち側にいていいの?
ハタと、思い至る。
普通なら、「この間行ってきた宇治で、このような遊びを覚えたのですよ」とか言って披露される水切りに、「まあ、すごいですわ」とか驚き扇で顔を隠す側なんじゃないの? 女房なんだから、「技を伝授する側」じゃなくて、「技を見せてもらう側」だと思うんだけど。
間違ってる気しかしない、自分の立ち位置。
「兄ちゃんたち、まだまだだな」
それまで黙っていた孤太が口を挟む。
「ソイツに水切りの技を教えたのは、オレだぜ? 技を披露したかったら、オレに習うのが一ば――フゴフガフゴッ!」
あわてて孤太の口をふさぐ。
いくらなんでも「兄ちゃん」はないでしょう、「兄ちゃん」は!
敬語もなにもあったもんじゃない。
「まあまあ、女房どの」
「それより、きみはそんなに達者なのかい?」
「おう! オレより上手に投げられるヤツは他にいないぜ!」
中将さまと安積さまが、無礼を気にしていらっしゃらないことで、調子に乗った孤太。口をふさぐわたしの手を払うなり、得意げに「エッヘン!」と胸を反らす。
――エッヘンじゃないわよ、エッヘンじゃ。
「いいか、石を投げるには、まず、いい石を選ぶことが大事なんだ。少し尖った角を持つ平らな石を選ぶんだ。で、腰をひねって押し出すように投げる――っと!」
ヒュッと風を切って飛んでいく孤太の石。
パシャパシャパシャパシャパシャパシャパシャパシャパシャパシャパシャパシャ。
十二回。
「おお」
「すごいな」
お二人の感嘆に、孤太が鼻の下をこすりながら胸を反らした。反らしすぎて後ろにひっくり返りそうなぐらい。
でも。
(アンタ、ズルしたでしょ)
力使ったわよね? 七回跳ねた後、ちょっとだけおかしな動きをしたもん。
ジロリと睨むと、ニシシッと歯を見せて笑い返された。やっぱり力を使ったんだ。
「――中将さま」
割り込むように聞こえた呼びかけ。その声に、孤太も胸を反らすのをやめ、誰もが一斉にそちらを見る。
「都より早馬が参っております」
石の散らばる河原に膝をついた舎人。うやうやしく書状を中将さまに差し出す。
「……フム。宮さま。申し訳ありませんが、私は一足先に都に戻らせていただきます」
書状に目を通した中将さまがおっしゃった。
「いや、ね、私の母が風邪をひいたみたいで。陰陽師が言うには方違えしたほうが良いとのことで。北嵯峨の荘に向かうらしいのですが、そうなると男手がおらぬのは寂しいとか、恐ろしいとか。いやはや、わがままな母で困ったものです」
説明を終えて、大きく息を吐き出した中将さま。
ようは、中将さまの母君が北嵯峨で療養されるのに、寂しいから息子について来てほしい。どうせ宇治で遊んでるならヒマでしょ? ってことなんだろう。
(宇治に北嵯峨かあ……)
先の左大臣家なら、ここ以外に荘を持っていてもおかしくないけど。
(そのうち、北山に~とか、山科に~とかもありそうよね。東西南北どこにだって荘はありましてよ、ホホホ……みたいな)
それでもって、どこの荘も贅の限りと風趣を凝らしてあるんだ、きっと。
「お母上も病を得られて、心細くおなりなのでしょう。早く行ってお顔を見せて安心させてあげてください」
安積さまがおっしゃった。
まあ、病気の時って、誰かにそばにいてほしいよね。それが血の繋がった息子なら、よけいに安心すると思うし。
「では、一足先に都に戻らせていただきます。ああ、宮さま方は、予定通りこのまま宇治でお過ごしください」
「いや、でも……」
「大丈夫ですよ。こちらでのことは、万事家司に命じておきます。至らぬこともあるかもしれませんが、精いっぱい饗させていただきますので、このまま宇治を楽しんでください。でないと、せっかくお誘いしたのに申し訳なくて、私の気がすまないのですよ」
軽く口の端を上げた中将さま。
「わかりました。では、このままご厚情に甘えて、宇治に留まらせていただきます」
「ええ。そうなさっていただけると、気が楽です」
「それでは」と、軽く安積さまに一礼なさった中将さま。
「ああ、そうだ女房どの」
そのまま立ち去るかと思ったのに、なぜか近づいてきた中将さま。
「今宵が絶好の機会ですよ。私が出立すれば、荘の人目も減りますので」
え? へ?
絶好の機会? 人目が減ってお得なことって?
耳打ちされた内容が、理解できない。
「――箏の次は、琵琶でもご指南いただいては? ああ、それより、恋のいろはを手取り足取りご指南いただいたほうがいいかな?」
「うえっ!?」
驚いた声がひっくり返った。
「ハッハッハッハッ」
目を白黒させるわたしを笑う中将さま。そのまま悠然と歩いて行かれるけど。
(なにが、〝恋のいろは〟よ、ふざけんなっ!)
からかって遊んでるだけでしょ、アンタ!
というか、箏の次は琵琶って。あの夜のこと、見られてたのっ!?
箏を教えてもらってたこととか、わたしが指を切って、安積さまがちちち、チュ、チュッて――!
「どうした?」
わたしの異変に気づいた孤太。
だけど、説明なんかできなくて、ひたすら熱くなった頬を手で包んで冷やすことに専念する。
(それでなくても、今のわたし、ちょっとおかしいってのに――!!)
河原で水切り遊びをしてたのだって、元はと言えば、安積さまのことばっかり考えて、気持ちがモヤモヤしてたから。
この宇治に来てからというもの、安積さまのことが気になるっていうのか、落ち着かないっていうのか。
今だって、こうしてそばにいらっしゃると、どうにも目が離せなくて、ついジッと見てしまうというのか、心臓がバクバクするというのか、血の巡りがものすごく早いというのか。
とにかくわたしが、すっごく変な状態になってるっていうのに。あんなふうにからかわれたりしたら、したら――。
「美濃どの」
「ピャイッ!!」
「ぴゃい?」
「あ、なんでもありません!!」
驚いて舌を噛んだだけです。プクッて、笑いをこらえ切れなかった孤太が笑い始めたけど、気にしないでください、安積さま!
「……美濃どのの故郷はどんな所なんだい?」
「へ?」
「美濃は、山深く川の多い地だと聞いているけれど。ここに似ていたりするの?」
「え、ああ。そうですね。似ていると思います」
安積さまの質問に、徐々に気持ちが落ち着いてくる。恋が云々とか言われると、頭がおかしくなりそうだけど、美濃のことを話すのなら全く問題ない。
「故郷が恋しくなる?」
「まあ、それなりには。でも――」
ちょっとだけ思案する。
美濃にいる父さまと母さま。会いたくないと言えば嘘になる。「懐かしくない」はただの虚勢。
「ここには桜花さまがいらっしゃいますから。わたし、桜花さまのために一生懸命頑張ろうって思ってるんです」
言ってから、〝桜花さま〟じゃなくて、〝宮さま〟って言うべきだったかなと反省する。いくら、桜花さまご自身がそう呼べっておっしゃったからって、兄君にまで、それを通してはダメだよね。無礼すぎるもん。
「そうか」
でも安積さまは、咎めたりなさらなかった。それどころか、下を向き、大きく息を吐く。息を吐くことで、体の力を抜いた感じ。 ――どうしたんだろ?
「にしても、きみは桜花のことを名で呼んでるんだね」
あ、ここで叱られる?
「申し訳ありませ――」
「違うよ。怒ってるんじゃないんだ。謝らないでくれ」
そうなの? 咎められたりしないの?
「それよりも。僕のことも同じように、名で呼んでくれるとうれしいんだけど?」
「へあっ!?」
変な声出た。
「僕のことも〝安積〟と。僕もきみのことを〝菫野〟と呼ばせてもらうよ。美濃や宮では堅苦しくて仕方ない」
いやいやいやいや。
桜花さまは女同士だし、誰の目もないときは問題ないけど。
安積さまとわたしが、そんな風に呼び合ってたら、その……、えと……、なんていうのか、あの……。
「きみに名を呼ばれる、きみの名を呼ぶ権利を僕にもくれないか、菫野」
え、は、えっと、えっと……。
――今宵が絶好の機会ですよ。
――恋のいろはを手取り足取りご指南いただいたほうがいいかな?
なぜか頭の中で、中将さまの残した言葉がグルングルンと渦巻く。
何が、絶好の機会よ! 恋のいろはってなんなのさ!
そんな機会はいらないし、「い」も「ろ」も「は」も知りたくないっての!
「ダメかい? 菫野」
戸惑うわたしの手を包むようにして握る安積さま。そのまま上目遣いでこちらを見てくる。
「わ、わかりましたから! ててて、手をっ、手を離してください!」
でないと、わたし、わたしっ!
それでなくても、安積さまのことで、心がモヤモヤモジャモジャしてたってのに。
「――おっと」
涼しい川の風でも冷えない、のぼせきった頭。ひっくり返った体を孤太が受け止めた。
「まったく。だから、からかい過ぎなんだよ、お前は」
孤太。少しは宮さまを敬うってことを覚えなさい。アンタが妖狐だからって、礼儀知らずじゃいられないのよ。
遠のく意識で、そんなことを思った。
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