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巻の十八 後宮からの大脱出。

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 「じゃあ、さっそく出かけよう」

 「え? 今すぐに、ですか?」

 「そうじゃ」

 いや、「そうじゃ」って。
 急すぎない?

 「善は急げ、じゃ。明日にでもなれば、輿入れの準備とか始まってしまうからの」

 まあ、それはそうだろうけど。

 「今なら、小うるさい官女たちもおらぬ。抜け出しにはちょうどよい頃合いじゃ」

 あわてて朝一番に訪れたせいで、いつもの四阿のまわりには誰もいなかった。わたしも急いでたから、香鈴こうりんすら連れてきていない。

 「さあ、行こう。午後には輿入れを伝える異母兄上あにうえの使者が来てしまうだろうからの」

 立ち上がった公主さまに、半ば強引に手を引かれる。
 意外と力強い手。
 それだけ、切望されてるってことなのかな。
 花の咲き乱れる庭を抜け、パックリ開いてるという土塀に近づく。

 「このまま出て行くわけにはいかぬからの。着替えるぞ」

 ええええっ!!

 驚く間もなく、近くにあった物置きのような部屋に連れこまれ、着替えさせられた。
 ――こんな衣装、いつの間に用意してたんだろ。

*     *     *     *

 (やはり、落ち込んでいたな……)

 昨夜の、「寵妃」と巷でウワサされる少女の浮かない顔を思い出す。
 突然決まった公主の結婚。
 自分がさし向けたとはいえ、異母妹いもうとと仲良くしていた彼女にとって、それはちょっとした衝撃だっただろう。

 (自分は深く考えもせずに後宮に上がったくせに)

 父親のこさえた借金五百五十貫を返済するために、アッサリと後宮に上がった彼女。
 自分なら、見劣りするから皇帝に見染められる心配はない、とか考えていたのだろうか。
 ありえなくもない。
 他の妃候補たちと違って、彼女は自分を着飾ることに興味がない。化粧もほとんどしない。初めて会った時は、宴席だったので、それなりの衣装と化粧をしていたが、それでも、他の候補に比べたら、地味。自分を少しでも良く見せようと着飾るのではなく、その場に合わせるために着飾っただけというあんばい。
 
 (寵妃となっても、無欲だしな)

 見せかけ、形だけであっても、妃に選ばれたのならもう少し欲を出す。そう思っていたが、彼女は違った。
 自分の連れてきた侍女と二人で宮のことをやってしまう。大勢にかしずかれずに不満というようでもない。衣装も宝石も、特に新しいものを求めない。
 そもそもに、「ねだる」ことをしない。
 日中は、侍女とキャアキャア言いながら本を読んで過ごしているか、異母妹いもうとのところを訪れているか。もしくは宮の掃除か片づけか。
 まるで街の良家の新妻。後宮で暮らす妃のすることではない。
 
 (あつものまで用意していたし)

 夜遅くまで政務をこなす自分のために用意したと言っていた羹。
 手をつけなかったことを残念に思ってたみたいだが、それについて文句を言ってくることはなかった。
 どうして手をつけなかったか。その本当の理由になんて、気づくことはないのだろう。

 (幸せに育ってきたのだろう)

 その裏に隠された真意など、気づかないばかりか、真意があることすら考えたことがないのだろう。
 簡単にポロッと騙される人のいい父親と、夢見がちで本好きな母親と、家族のことを語っていたが、本人も相当のお人よしだ。
 後宮からの雑音を止めてくれる堰になってほしいと願ったのは自分だが、それがどういう立場になるのか。どういう目に遭う危険があるのか。あの少女は欠片も考えたことがないのだろう。
 菫青宮きんせいきゅうの人員を減らしたのは、見せかけであることが露見する危険を避けるためではなく、彼女が殺されることを避けるため。室の少ない菫青宮きんせいきゅうなら、刺客が潜むことのできる場所も減る。
 彼女の用意した羹を食べなかったのは、気づかなかったからではなく、そこに毒が仕込まれてないか用心したため。井戸で冷やしたという荔枝ライチも、毒見として、彼女が食べるのを見てから自分も口にしようとしていた。
 異母妹いもうとのところに行かせたのだって、別に異母妹をかわいそうに思ってではなく、彼女を行かせることであちらの内情を探るべく、お付きと称して誰かを潜入させることができる機会が生まれるから。実際、彼女の養父である啓騎けいきに、ご機嫌伺いとしてあちらに向かわせている。
 
 (まったく。自分はなにをしているんだろうな)

 疑うということを全く知らない彼女。
 その彼女と一緒にいると、己の醜さを否が応でも突きつけられ、暗澹たる気分におちいる。猜疑心が強く、欺瞞に満ちた自分が嫌になる。
 後宮に足を踏み入れたくないのだって、面倒とか煩わしいとかではなく――。

 「陛下」

 重く思考に沈んでいた自分を呼び戻す声。

 「啓騎か。どうした」

 「菫青宮きんせいきゅうから報告が」

 菫青宮きんせいきゅう? 彼女の身に何かあったのか?

 「菫青妃きんせいひが、宮に戻っておりません。供を連れず黒曜宮こくようきゅうに向かったようなのですが、そちらも公主が不在となっております。そして……」

 コクリと軽く喉が鳴る。
 琉花りゅうか異母妹いもうとが、消えた――?

 「……顕寧門けんねいもんから、一組の若い男女が街に出たとの報告がありました」
 
*     *     *     *

 「あ、あの~、公主さま?」

 「なんだ? 琉花りゅうか

 「どうして、こんな格好を?」

 顕寧門けんねいもんを出てしばらく。
 怪しまれなかったとはいえ、自分の格好、そして公主さまの装いに驚き戸惑うしかない。
 だって。

 「このほうが身軽に動けるだろう?」

 「……それはそうですけど」

 身軽になったからか。クルンと、公主さまが回ってみせた。
 
 (身軽っちゃあ、身軽よね)

 だって。

 (髪、切っちゃったんだもん~~~~っ!!)

 用意されてた衣装に戸惑ってる間に、腰まで届いてた髪をコッソリ、ジョッキン、バッサリと。
 あまりの衝撃に卒倒しそうになった。
 それだけじゃない。
 公主さまが選んだ衣装は、男性の衣袍。まげを結われ、冠をかぶられてしまえば、どこからどう見ても若い官吏。
 そして、皇帝陛下によく似た面差し。
 さすが兄妹、キレイな人は変装しても美人がカッコいいになるだけなのね……って、感心してる場合じゃないのよ。

 (どうしよ、これ、絶対怒られるわよね)
 
 公主さまの発案ですって言ったって、それについていったのはわたしだし。お諫めしなくちゃいけない立場だったのはわたしなんだし。
 結婚前だけど、遊びに行きたくて、髪、切っちゃいました。テヘ。
 許されることじゃないわよ。
 許されるわけないわよ。
 無事に帰っても、無事にすまされないわよ。
 お咎め、わたしだけで済めばいいなあ。

 「琉花りゅうか、こっちだ、早く!!」

 どんより落ち込むわたしとは真逆、公主さまはメチャクチャウキウキしていらっしゃる。

 あーもう!!
 こうなったら、ヤケよ、ヤケ。
 どーとでもなれってのよ!!
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