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第三章 国 まほろば
十一、閑話-淡海
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「臣大友、謹んでお受けいたします。これよりは、赤心偽りなくお仕えすることを誓います」
自分の口から発せられた言上。
自分で発したくせに、その言葉がズシリと重く体にのしかかる。
父の臣として生きる。
それはいい。長ずればいずれそうなることは予感していた。
だが。
(太政大臣……か)
漢の政を真似、設けられた役職。
臣下としての最高位。それがかつての“日嗣の御子”という言葉と同義であることは、ここにいる誰もが承知していること。
――帝は、皇太弟殿ではなく、自らの御子を後継にとお考えらしい。
――後継は、あの孫皇子ではなかったのか。この宮の名を与えるほど大事になさっていると聞いたぞ。
――あの孫皇子はまだ幼い。立太子させるにはあと数年必要だろう。
――となると、この皇子はそれまでの中継ぎか。
――だろうな。“日嗣の御子”とするには、母方の身分が低すぎる。たとえどれほど優秀であろうと、生まれが劣ることは否めない。
――あの孫皇子なら、皇太弟の御子でもある。いずれあの皇子が帝になるのであれば、皇太弟も納得されるであろう。
自分の周囲で囁かれる声。
己の出自が低いことは承知している。異母姉の忘れ形見である甥が、血筋でも資質でも優れていることも。
――大津皇子が無理なら、この大友殿の子、葛野皇子がいる。帝、皇太弟、どちらの血筋からみても孫にあたる。大津、葛野。この後どちらが“日嗣の御子”となっても、双方不満に思わないのではないか。
それは憶測に過ぎない。いや、憶測ですらない。そうであったらいいという「願望」だ。
父帝の第一皇子。皇太弟の娘を妻とし、子を成した自分。
自ら望んだ地位ではない。そうなりたいと願った立場ではない。気づけば流されるように、抗うこともできないままここにいた。
* * * *
「おめでとう、大友。お前が太政大臣となれば、兄上もさぞ安心なさるであろう」
「叔父上」
にこやかに祝辞を述べながら近づいてくる叔父、大海人。大柄な体格に似合わず、破顔すれば、人懐こい印象を与える。
「兄上は最近体調を崩していらっしゃるようだからな。御子であるお前がお支え申し上げれば、きっと良くおなりであろう」
「どうでしょう。私はまだまだ若輩者ですので。父上の支えとなるのは、やはり叔父上でなければ」
「何を言うか。一児の父となった者がそんな弱腰でどうする」
しっかりしろ。
にこやかに、豪快にバンバンと背中を叩かれた。
「そういえば、十市と葛野は元気に暮らしておるか?」
「ええ、つつがなく。と言いたいところですが、葛野はいたずらが増えて、十市と手を焼いております。この間は、木冊書の綴紐をすべて切ってしまい……直すのに苦労いたしました」
「ハハッ、そうか。それは難儀だな。だが、男子のいたずらはそれぐらいでは済まぬぞ? 覚悟しておけ。うちなど、忍壁に薪にしてくべられたわ。灯り取りに必要だったと申してな。叱っても数日後にはケロリとして、次は泊瀬部のおしゃぶりにされたぞ」
「それはそれは。では子育ての技を伝授ただくためにも、一度私どもの宮へお越しください。きっと十市も喜びます」
「そうか? だが、葛野は儂を見ると泣くからのう」
困った、困った。叔父が野太い顎に手をやり思案する。
「それは……、叔父上が大柄なせいでしょう。葛野はいたずらっ子ではありますが、少し臆病なところもあるのです」
「ふむ。では、このように背を丸めて遊びに行くか?」
ほれほれ。
身を小さく足音を忍ばせる叔父。
四十を過ぎた男。帝の弟。そのような者が孫の機嫌を取るため道化る姿に苦笑するしかない。
ともに笑いあい、語り合う。
そこにあるのは、仲のいい叔父と甥。岳父と婿。
豪快で愉快な叔父と、叔父の激励を受ける年若い甥。
父帝の思惑で、政争の渦中にいる間柄とは思えない姿。
互いの胸中は隠したまま、仲良きことを演じ続ける。
四十而不惑 五十而知天命
(四十にして惑わず 五十にして天命を知る)
父の体調がおもわしくない今。自分が太政大臣を拝命したことで、この男の志は決まったのかもしれない。天命を知るために。
* * * *
「あ、叔父上!!」
「異母兄上」
朝堂を出たところでかかった二つの呼び声。
一つは幼く、もう一つは年若い。
「大津、川島」
「叔父上も今、お帰りですか?」
駆け寄ってきた大津が問う。
「そうだが、お前たちは?」
「オレたちは、文書博士の元から帰ってきたところなんです」
川島が答えた。
「『尚書』を習ってきたんです。周の寧王のところを」
周の寧王。またの名を周の文王。
暴君であった殷の紂王に忠義を尽くし仁政を敷いた。最期まで紂王に従い続けた尊王、忠義の人物とされる。紂王の治世を憂いたせいで幽閉されても、人質とされていた長男伯邑考が煮殺され、その死肉を入れた羹を食べさせられても、最期まで決起しなかった。後に息子の武王が立ち、殷の紂王は滅ぼされた。
息子の死肉を食させられた寧王の心境はどのようなものだったのか。そこまでされても決起しなかったのはなぜなのか。胸中は計り知れない。
「そうか。で、しっかり学んできたんだろうな」
「それがね叔父上、川島ったら何度も間違えるんですよ。殷の湯王と周の武王と、こんがらがっちゃって」
「だって、似てるだろ」
川島が反論した。
「似てるからって、まぜこぜにしちゃダメだろ。殷の湯王が倒したのが夏の桀王、周の武王が殷の紂王。寧王は湯王と同じように仁政を敷いたけど、決起したのは息子の武王のほうだよ」
「よく知ってるな、大津」
大津が美豆良髪を揺らし、ヘヘンと幼い胸を反らした。褒められることがうれしいらしい。
「川島も大津を見習ってしっかり学んでくれよ。お前もあと数年したら、政に参与することになるんだからな」
げ。
異母弟が顔をしかめた。
今年十四になるこの異母弟は、努力すること、煩わしいことが苦手なようだ。兄として贔屓目で見ても、どこか凡庸で、ほどほどに生きている感がある。
いつかは、自分と同じ運命であるのに。
父帝の体調がおもわしくないのは本当だ。父があと何年治世を続けられるかわからないが、いつか、あの叔父と決着をつける時が来る。叔父は寧王たらず。周の武王となるだろう。
その時になれば、父の第三皇子でもある川島は自分の側に立って戦うことになる。
そして、この幼い甥、大津は果たしてどちらに着くことになるのだろうか。仲良く学ぶ川島と決別し、叔父側に着くのだろうか。それとも、大事に育ててくれた祖父の恩を忘れず、こちら側に着くのだろうか。
「――叔父上?」
「ああ、すまない」
考えることをやめる。考えたところでどうしようもない、詮無きことだ。
父はまだ生きている。存命中に何か起こることはあるまい。
「ねえ、叔父上。もしよかったら、これから叔父上の宮に伺ってもよろしいですか?」
「別に構わないが――どうした?」
この子が遊びに来たいと言い出すのは少し珍しい。
「いえ、ちょっと……」
チラリと向けられた視線。その先にあったのは宮と宮をつなぐ回廊。回廊には悠然と舎人を引き連れて歩く叔父の姿。こちらに気づくことなくそのまま角を曲がっていった。
(ああ、あちらに行きたかったのか)
本当は自分にではなく、滅多に会えない父親の元に駆け寄りたかったのだろう。『尚書』を学んだことも、本当は父親に褒めてもらいたかったのだろう。先程の、自分と会話していた時の叔父なら、きっと「よくやった」「頑張ってるな」とこの子の頭を撫でただろう。
だが、あの回廊にいた叔父は違う。
にこやかで豪快、快活な男ではない。心に一物抱く男。
豪快に笑った口は固く閉ざされ、目尻は緩むことなく、険しく先を見つめている。冷厳で険相。厳然たる姿。近寄りがたい雰囲気を漂わせている。
叔父にこの子は見えていない。目の前にいたとしても見ようとしない。叔父にとって、この子は我が子であって、我が子ではない。父帝が名を付け大事にする、敵の手駒。近づくことなど許さない。
幼いながら、それを無意識に感じ取ったのだろう。だからこうしてこちらに駆け寄ってきた。
「いいよ。十市も葛野もきっと喜ぶ」
叔父の代わりに甥の頭を撫でてやる。それだけで、嬉しそうに破顔する幼子に胸が締め付けられる。
自分とは違う。生まれた時から政争の具とされてきた幼い命。
「川島も来い。俺のところで、しっかり学び直させてやる」
「え、いや、それは……」
「ハハッ、冗談だ。だが、お前も来い。賑やかなほうが、きっと十市も喜ぶ。やんちゃすぎる葛野の相手をしてやってくれ」
「うええ、オレは子守ですかぁ異母兄上~」
「ちょうどいい使い所だろ」
自分が笑うと、つられて大津と川島も笑う。
賑やかに。楽しく。呑気に。朗らかに。
ふざけあって、今を楽しめばいい。
それが、明日にでも崩れ去ってしまう、もろく淡い時の上であっても。
自分の口から発せられた言上。
自分で発したくせに、その言葉がズシリと重く体にのしかかる。
父の臣として生きる。
それはいい。長ずればいずれそうなることは予感していた。
だが。
(太政大臣……か)
漢の政を真似、設けられた役職。
臣下としての最高位。それがかつての“日嗣の御子”という言葉と同義であることは、ここにいる誰もが承知していること。
――帝は、皇太弟殿ではなく、自らの御子を後継にとお考えらしい。
――後継は、あの孫皇子ではなかったのか。この宮の名を与えるほど大事になさっていると聞いたぞ。
――あの孫皇子はまだ幼い。立太子させるにはあと数年必要だろう。
――となると、この皇子はそれまでの中継ぎか。
――だろうな。“日嗣の御子”とするには、母方の身分が低すぎる。たとえどれほど優秀であろうと、生まれが劣ることは否めない。
――あの孫皇子なら、皇太弟の御子でもある。いずれあの皇子が帝になるのであれば、皇太弟も納得されるであろう。
自分の周囲で囁かれる声。
己の出自が低いことは承知している。異母姉の忘れ形見である甥が、血筋でも資質でも優れていることも。
――大津皇子が無理なら、この大友殿の子、葛野皇子がいる。帝、皇太弟、どちらの血筋からみても孫にあたる。大津、葛野。この後どちらが“日嗣の御子”となっても、双方不満に思わないのではないか。
それは憶測に過ぎない。いや、憶測ですらない。そうであったらいいという「願望」だ。
父帝の第一皇子。皇太弟の娘を妻とし、子を成した自分。
自ら望んだ地位ではない。そうなりたいと願った立場ではない。気づけば流されるように、抗うこともできないままここにいた。
* * * *
「おめでとう、大友。お前が太政大臣となれば、兄上もさぞ安心なさるであろう」
「叔父上」
にこやかに祝辞を述べながら近づいてくる叔父、大海人。大柄な体格に似合わず、破顔すれば、人懐こい印象を与える。
「兄上は最近体調を崩していらっしゃるようだからな。御子であるお前がお支え申し上げれば、きっと良くおなりであろう」
「どうでしょう。私はまだまだ若輩者ですので。父上の支えとなるのは、やはり叔父上でなければ」
「何を言うか。一児の父となった者がそんな弱腰でどうする」
しっかりしろ。
にこやかに、豪快にバンバンと背中を叩かれた。
「そういえば、十市と葛野は元気に暮らしておるか?」
「ええ、つつがなく。と言いたいところですが、葛野はいたずらが増えて、十市と手を焼いております。この間は、木冊書の綴紐をすべて切ってしまい……直すのに苦労いたしました」
「ハハッ、そうか。それは難儀だな。だが、男子のいたずらはそれぐらいでは済まぬぞ? 覚悟しておけ。うちなど、忍壁に薪にしてくべられたわ。灯り取りに必要だったと申してな。叱っても数日後にはケロリとして、次は泊瀬部のおしゃぶりにされたぞ」
「それはそれは。では子育ての技を伝授ただくためにも、一度私どもの宮へお越しください。きっと十市も喜びます」
「そうか? だが、葛野は儂を見ると泣くからのう」
困った、困った。叔父が野太い顎に手をやり思案する。
「それは……、叔父上が大柄なせいでしょう。葛野はいたずらっ子ではありますが、少し臆病なところもあるのです」
「ふむ。では、このように背を丸めて遊びに行くか?」
ほれほれ。
身を小さく足音を忍ばせる叔父。
四十を過ぎた男。帝の弟。そのような者が孫の機嫌を取るため道化る姿に苦笑するしかない。
ともに笑いあい、語り合う。
そこにあるのは、仲のいい叔父と甥。岳父と婿。
豪快で愉快な叔父と、叔父の激励を受ける年若い甥。
父帝の思惑で、政争の渦中にいる間柄とは思えない姿。
互いの胸中は隠したまま、仲良きことを演じ続ける。
四十而不惑 五十而知天命
(四十にして惑わず 五十にして天命を知る)
父の体調がおもわしくない今。自分が太政大臣を拝命したことで、この男の志は決まったのかもしれない。天命を知るために。
* * * *
「あ、叔父上!!」
「異母兄上」
朝堂を出たところでかかった二つの呼び声。
一つは幼く、もう一つは年若い。
「大津、川島」
「叔父上も今、お帰りですか?」
駆け寄ってきた大津が問う。
「そうだが、お前たちは?」
「オレたちは、文書博士の元から帰ってきたところなんです」
川島が答えた。
「『尚書』を習ってきたんです。周の寧王のところを」
周の寧王。またの名を周の文王。
暴君であった殷の紂王に忠義を尽くし仁政を敷いた。最期まで紂王に従い続けた尊王、忠義の人物とされる。紂王の治世を憂いたせいで幽閉されても、人質とされていた長男伯邑考が煮殺され、その死肉を入れた羹を食べさせられても、最期まで決起しなかった。後に息子の武王が立ち、殷の紂王は滅ぼされた。
息子の死肉を食させられた寧王の心境はどのようなものだったのか。そこまでされても決起しなかったのはなぜなのか。胸中は計り知れない。
「そうか。で、しっかり学んできたんだろうな」
「それがね叔父上、川島ったら何度も間違えるんですよ。殷の湯王と周の武王と、こんがらがっちゃって」
「だって、似てるだろ」
川島が反論した。
「似てるからって、まぜこぜにしちゃダメだろ。殷の湯王が倒したのが夏の桀王、周の武王が殷の紂王。寧王は湯王と同じように仁政を敷いたけど、決起したのは息子の武王のほうだよ」
「よく知ってるな、大津」
大津が美豆良髪を揺らし、ヘヘンと幼い胸を反らした。褒められることがうれしいらしい。
「川島も大津を見習ってしっかり学んでくれよ。お前もあと数年したら、政に参与することになるんだからな」
げ。
異母弟が顔をしかめた。
今年十四になるこの異母弟は、努力すること、煩わしいことが苦手なようだ。兄として贔屓目で見ても、どこか凡庸で、ほどほどに生きている感がある。
いつかは、自分と同じ運命であるのに。
父帝の体調がおもわしくないのは本当だ。父があと何年治世を続けられるかわからないが、いつか、あの叔父と決着をつける時が来る。叔父は寧王たらず。周の武王となるだろう。
その時になれば、父の第三皇子でもある川島は自分の側に立って戦うことになる。
そして、この幼い甥、大津は果たしてどちらに着くことになるのだろうか。仲良く学ぶ川島と決別し、叔父側に着くのだろうか。それとも、大事に育ててくれた祖父の恩を忘れず、こちら側に着くのだろうか。
「――叔父上?」
「ああ、すまない」
考えることをやめる。考えたところでどうしようもない、詮無きことだ。
父はまだ生きている。存命中に何か起こることはあるまい。
「ねえ、叔父上。もしよかったら、これから叔父上の宮に伺ってもよろしいですか?」
「別に構わないが――どうした?」
この子が遊びに来たいと言い出すのは少し珍しい。
「いえ、ちょっと……」
チラリと向けられた視線。その先にあったのは宮と宮をつなぐ回廊。回廊には悠然と舎人を引き連れて歩く叔父の姿。こちらに気づくことなくそのまま角を曲がっていった。
(ああ、あちらに行きたかったのか)
本当は自分にではなく、滅多に会えない父親の元に駆け寄りたかったのだろう。『尚書』を学んだことも、本当は父親に褒めてもらいたかったのだろう。先程の、自分と会話していた時の叔父なら、きっと「よくやった」「頑張ってるな」とこの子の頭を撫でただろう。
だが、あの回廊にいた叔父は違う。
にこやかで豪快、快活な男ではない。心に一物抱く男。
豪快に笑った口は固く閉ざされ、目尻は緩むことなく、険しく先を見つめている。冷厳で険相。厳然たる姿。近寄りがたい雰囲気を漂わせている。
叔父にこの子は見えていない。目の前にいたとしても見ようとしない。叔父にとって、この子は我が子であって、我が子ではない。父帝が名を付け大事にする、敵の手駒。近づくことなど許さない。
幼いながら、それを無意識に感じ取ったのだろう。だからこうしてこちらに駆け寄ってきた。
「いいよ。十市も葛野もきっと喜ぶ」
叔父の代わりに甥の頭を撫でてやる。それだけで、嬉しそうに破顔する幼子に胸が締め付けられる。
自分とは違う。生まれた時から政争の具とされてきた幼い命。
「川島も来い。俺のところで、しっかり学び直させてやる」
「え、いや、それは……」
「ハハッ、冗談だ。だが、お前も来い。賑やかなほうが、きっと十市も喜ぶ。やんちゃすぎる葛野の相手をしてやってくれ」
「うええ、オレは子守ですかぁ異母兄上~」
「ちょうどいい使い所だろ」
自分が笑うと、つられて大津と川島も笑う。
賑やかに。楽しく。呑気に。朗らかに。
ふざけあって、今を楽しめばいい。
それが、明日にでも崩れ去ってしまう、もろく淡い時の上であっても。
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