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第13話 文字。

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 「とんでもないことになったわ、アッシュ」

 いつもの夜。アッシュを抱きながら今日あったことを報告する。

 「若様がね、私に文字を教えてくださることになったのよ。それも、ご自身みずからよ。こんなこと、普通ありえないわ」

 どれだけ酔狂な主人であっても、メイドに文字を教えようなどと言い出す者はいないだろう。
 教育に興味がある。
 そうクラウドは言っていたが、それにしても、一メイドに対して、かなりの厚遇なのではないのか。

 「ほんと変わってるわ、このお屋敷」

 家族で働くことが許された使用人。メイドに文字を教えようとする主人。
 とても家庭的。そして優しい。

 「でもね。文字を習うの、嫌じゃないのよ」

 むしろ、うれしいと思っている。文字を知れば、この先の、自分の未来も変わってくるかもしれない。万が一、ここを離れることになってしまっても、文字を知って入れば、紹介状に書かれた自分のことも読むことが出来る。
 それに。

 「アッシュ、アナタの名前も書けるわね」

 誰かに残したいわけじゃない。けれど、どこか紙の端にでも、自分と、この不思議な猫のことを書きとめておけたなら。
 きっとそれは、リーナの宝物になるに違いない。

 「ねえ、アッシュ。私、がんばって文字を覚えてくるね」

 言いながら、アッシュの背中を撫でる。
 少し眠そうにアッシュがあくびをして、いつものように顔をリーナの胸にすり寄せた。

*     *     *     *

 「失礼します」

 軽くノックをしてから、クラウドのいるであろう書斎ライブラリーの扉を開ける。
 ここへ来いと言われていたが、本当に来てよかったのだろうか。昨日の今日で、もしかしたらクラウドの気分が変わっていて、「やっぱりそんな気はなくなった。遊んでないで仕事しろ」と怒られたらどうしよう。気まぐれで教えようと言っただけで、どうかするとその約束すら忘れているなんてことは……。

 「何をしている。早く来い」

 少し苛立ったような声に、あわてて扉の内側に身を滑り込ませた。どうやら杞憂に終わったらしい。

 「時間がない。手早く進めるぞ」

 「あ、はい。よろしくお願いいたしますっ!!」

 クラウドの手招きに応じ、どっしりとした執務机に近づく。

 「まずは、基本となる文字を覚えるのだが……、おい、何をしている?」

 その問いかけに、リーナはきょとんとする。クラウドの持つ紙を、近くから見ているだけなのだけど。

 「その位置からじゃあ見えないだろうが。ここへ来い」

 「きゃっ……‼」

 グイっと腕を引っ張られて、クラウドの腕に抱きかかえられるような格好になってしまった。

 「あっ、あのっ……」

 中途半端な体勢。苦しくないわけではないが、それより、このクラウドとの距離が気になる。

 「ほら、ちゃんと見ろ。これが文字だ。大文字小文字あわせて52文字ある」

 戸惑うリーナにたいして、クラウドはさほどのことと思っていないようだった。紙に書かれた文字を、リーナを抱えたまま説明を始めた。

 「すべてを覚えたからといって、すぐに文章が読み書きできるわけではないが、知らなければ何も始まらないからな」

 立ち上がったクラウドの代わりに椅子に座らされる。

 「これを見本に書いて練習しろ。書きながら発音も教えてやる」

 後ろに回ったクラウドの声が、リーナの耳朶に響く。
 その低い声にリーナは落ち着かないのだが、クラウドは全くといっていいほど気にかけていないようだった。純粋に、リーナを教育の対象としてしか見ていない。

 (私だって……)

 変な意識をしていることを知られるのは恥ずかしい。
 今のこの状態は、あくまで文字を教える側と教わる側。それ以上ではないのだから、よけいなことは考えないようにしなくては。

 「書いてみろ」

 言われて、ペンを持たされる。ペンもロクに持ったことがないから、あてずっぽうで持ったら、指の一本一本まで持ち方を矯正された。
 ペン先をインク瓶に浸す。ペンなんて使ったことがないからボタボタにインクをつけてしまい、これまたクラウドに直された。
 目の前に置かれた紙へ、文字を書いていく。手本は、先ほどクラウドが見せてくれたもの。流麗な、それでいてしっかりとした文字。クラウドの書いたものなのだろう。それを真似るように、ゆっくりと書いていくがーー

 (これが文字……なの?)

 不安でしかない。自分が書いているものは「文字」として成立しているのだろうか。クラウドの書いた手本に近づけようと必死に書くが、どう見ても同じものにならない。
 クラウドの堂々とした文字。自分のヨタヨタとミミズののたくったような筆跡。とてもじゃないけど、同じものを書いてるようには思えない。

 (これで、いいの……かな)

 不安がつのる。心臓が無駄にバクバクして心が落ち着かない。
 怒られたらどうしよう。ガッカリされたらどうしよう。

 「大丈夫だ。ちゃんと書けてるぞ」

 リーナの心の内を察したかのようにクラウドが言った。

 「最初っから上手く書けるヤツなんていない。少なくとも、文字を覚え始めた頃の俺よりは上手だ」

 「あ、ありがとうございます」

 褒められたことなんてないから、どう答えたらいいのかわからなくて、さらにうつむくしかなくなる。

 「文字なんて書き続けていけばいつかは慣れる。そう焦るな」

 「は、はい」

 「ああ、だがそこはもう少し丁寧にはねたほうがいい。書き順が違う。横線は後から書くんだ」

 褒めたかと思えば、指導も入る。
 リーナの右肩越しにクラウドが文字を覗き込む。その視線が文字を書く自分の右手に集中しているのかと思うと、手が止まってしまいそうになる。
 慣れない文字。近くから感じる視線。
 リーナの肩は、異様なまでに硬く緊張していた。
 こんな近くに、それも異性に顔を寄せられたのは初めてだ。何度も「これは文字を覚えるためだから」と自分に言い聞かせようとするけれど、なかなか上手くいかない。
 心臓が高鳴る。腕が震える。
 使用人の分際で、主人をそんな風に意識するのは間違っている。おこがましい。それはわかっている。わかっているのだけれど……。

 「しばらくそのまま練習していろ。書き終えたら声をかけてくれ」

 言ってスイッとクラウドが身を離した。執務机を離れ、ソファに腰掛けると、そこでゆっくりと本を開き、視線を落とした。
 本当に、クラウドはリーナのことをなんとも思っていないのだろう。無知なメイドに文字を教えただけ。その何でもない行動に、リーナの気持ちも少しづつ落ち着いてくる。

 (今は、文字を覚えることだけに集中しなくては)

 軽く深呼吸をくり返して、再び文字を書くことに専念する。
 時折、クラウドが本から目を離し、リーナを見る。
 文字に夢中になったリーナはそれに気づかず、そしてクラウドは再び本へと興味を移す。
 温かな陽射しが差しこむ書斎ライブラリー
 リーナのペンが立てるカリカリという音と、時折クラウドのページをめくる音だけが、部屋のなかに響いていた。
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