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第三話 晴れ晴れのちのち曇、雨。
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開け放たれた縁側の先、シトシトと雨が降る。軒の長い昔ながらの家だから、窓を開けていても雨が降り込むことはない。
眺める窓の外。庭にあるのは、雨に濡れた物干し竿と、庭に植えた橘の木と、桜の木。
左近の桜、右近の橘。
ここに越してきた時、そう言って節子が植えることを所望した木。
桜は大きく根を張って、どうかすると家の基礎を壊すことがあるので、大きめの鉢に入れて、それから庭に植えた。木として大きくなれないかもしれないが、家を壊されたらたまらないので、あえてそうした。
その二つの木々も、物干し竿とともに雨に打たれる。花を散らせた桜は、芽吹いたばかりの新緑の葉を。橘は、ほころび始めた白い花を守るように茂る青葉を。滴り落ちる雨露が、葉に積もった汚れを洗い落とす。
時折、木々の合間から吹く風が、湿気を帯びて吾輩のヒゲを揺らす。こそばゆい。
ここを離れたらスッキリするかもしれないが、そうすると体の下にある座布団を棄てられそうで動くことができない。
先日も、吾輩が買い揃えた百科事典をなんのためらいもなく棄てた節子。呼び寄せた業者に二束三文にもならない、古紙回収に回した方がいいと言われても、「持っていってくれ。金を出してもいいから」とすがりついてでも回収を希望した。
そんなにアレは邪魔なものだったのか。
東京で暮らしていた時、少しでも文化的、教養のある生活が送りたくて買い求めたもの。わずかでも子供たちの知識の糧となれば、吾輩たちの知恵となれば。そう願ったのだが、結果はただの飾り、知的イミテーションとなっていた。
記載されている情報も古く、邪魔と言えば邪魔なのだが、だからといって「はい、棄てていいですよ」とは言い難い。読みはしなくても、そこに希望は詰め込んでいた。だから、紐で縛られ、業者にぞんざいに車に投げ込まれたのを見て、心にポッカリ穴が空いたような気になった。
残されたものを、残っている節子がどうしようが、それは節子の勝手かもしれないが、それでもやはり淋しいのは淋しいのだ。悲しいのは悲しいのだ。
だからだろうか。余計に、これだけはと、意固地になって座布団にしがみつく。このまま寝そべっていれば、「掃除の邪魔」と座布団ごと引きずられ、移動は余儀なくされるが、ゴミ袋にボスンはされなくてすむ。
「よっぽど気に入ったんやなあ、ミドリ」
なぜミドリなのか、理由は知らぬが節子は吾輩を「ミドリ」と呼ぶ。座布団を死守するように居座った吾輩を、節子は家猫、飼い猫として認めたようだ。朝な夕なに吾輩のための飯を用意し、ここで丸まっていても文句を言わない。
それは……まあ、雨にも濡れず、腹も減らずにすむのでありがたいのだが。
変わったな。
節子の生活。
今の節子の生活は、吾輩が知る日常とは全く違ったものになっていた。
京一朗が生きていた頃、家の中で節子を探すなら、真っ先に台所に向かっていた。それぐらい、節子はよく台所に立っていた。三度三度の食事の支度。後片付け。結婚当初からそうだったから、ずっと節子は料理好きな女だと思っていた。思っていたのに。
冷蔵庫の中には作り置きの惣菜がいくつも常備されていた。節子が漬けた梅干しは、京一朗のちょっとした朝の楽しみでもあった。
「出汁の違いなんて分からへんくせに」と節子は笑ったが、それでも京一朗は、節子の用意してくれた味噌汁を旨いと思って啜っていた。
節子のいる台所から漂うは、濃い出汁の匂いであって、チンっと無機質なレンジの音ではなかった。
それなのに。
今の節子は滅多に台所に立とうとしない。朝は市販のパンですませる。昼も夜もまた同じ。レトルトカレーのような簡単なものや、スーパーの惣菜パックが卓に並ぶ。
それが。
たまに台所に立ったとしても、サラサラと出汁の顆粒を鍋に入れる。鰹節や昆布を取り出すなどしない。余っていたという鰹節も煮干しも、すべて吾輩の腹の内に収まった。
変わった。
掃除や洗濯など、最低限のことはこなすが、それ以外の家事をしている様子はない。
では、代わりに何をしているのか。
余した時間、吾輩の近く、縁側に腰掛けて手の中の物をジッと見つめる節子。スマホだ。
京一朗が入院した時、緊急の連絡ができないと不便だからと、必要に迫られ持つこととなったスマホ。それを老眼鏡を上げ下げしながら、にらみつけるように見ている。
「スマホなんて、ようわからんもん、持つのは怖いわ」
京一朗の前では、そう言って困った顔をしていたのに。
何を見ているのか。見せてもらうことのない吾輩にはわからない。
時折ゆっくりと、ポチ、ポチ、ポチと画面を押しているから、節子なりに使いこなしているのだろう。
そして。
「ああ、斎藤さん? ご無沙汰してます、東です」
「ようわからんもん」と評したそれで、斎藤なる人物と連絡を取る。
「ええ、その件なんですけど。そうですか。やっぱり飛行機やないとあきませんか」
斎藤とは誰だ? 京一朗の知らない人物。それも、声が若い男。
漏れ聞こえた会話にピクリと耳が揺れた。
察するに、節子はこの人物と旅行の話を煮詰めているらしい。
男と旅行に行くのか? それも飛行機で往復するような距離を?
なんでもないフリをして目を閉じたのに、耳だけがピクピク揺れ続ける。
行くな――とは言えない。
節子の夫である京一朗は死んだ。寡婦となった節子が誰とつき合おうが、どこへ行こうがそれは節子の自由だ。不貞だなんだと責める資格は吾輩にはない。
だけど。
淋しいじゃないか。
夫が亡くなった途端、夫のものを次々に捨て、違う男と旅行になど行かれてしまったら。
好いて夫婦になったわけじゃない。流されるように、それが当たり前だと思って結婚した。けれど、子を設けて、孫まで生まれた。それなりに、それなりにいい夫婦になれたと思っていたのは吾輩、京一朗だけだったのか。
いつまでも京一朗を偲んでサメザメと泣いて欲しいわけではないが、そうもサッサと捨てられると、すべてが虚しくなってくる。
吾輩はなんのために、ここに生まれ変わってきたのだ?
吾輩はなんのために、ここを訪れたのだ?
「――ミドリ」
電話を終えた節子が言った。
「アンタのことはお隣さんに頼んどくから。ええ子で留守番しとるんやで」
しわがれた手が吾輩の背中を撫でる。
何度も何度も吾輩の毛筋に沿って動く手。なのに、吾輩の心は逆にささくれ立って行く。猫にも逆鱗なる鱗があるのだろうか。全身を覆うそれを、節子の手が撫でつけているような感覚。――不快。
「高知の土産って言うたら、やっぱり鰹かねえ」
知らぬ。
フギッと軽く唸り、座布団からタンスの上へと跳躍する。
「なんや。連れて行けへんこと、怒っとるんか?」
しょうがない猫や。
節子が笑う。
――チガウ。
モノ言えぬ獣の吾輩は、何も答えずジッと座布団だけを見下ろした。
眺める窓の外。庭にあるのは、雨に濡れた物干し竿と、庭に植えた橘の木と、桜の木。
左近の桜、右近の橘。
ここに越してきた時、そう言って節子が植えることを所望した木。
桜は大きく根を張って、どうかすると家の基礎を壊すことがあるので、大きめの鉢に入れて、それから庭に植えた。木として大きくなれないかもしれないが、家を壊されたらたまらないので、あえてそうした。
その二つの木々も、物干し竿とともに雨に打たれる。花を散らせた桜は、芽吹いたばかりの新緑の葉を。橘は、ほころび始めた白い花を守るように茂る青葉を。滴り落ちる雨露が、葉に積もった汚れを洗い落とす。
時折、木々の合間から吹く風が、湿気を帯びて吾輩のヒゲを揺らす。こそばゆい。
ここを離れたらスッキリするかもしれないが、そうすると体の下にある座布団を棄てられそうで動くことができない。
先日も、吾輩が買い揃えた百科事典をなんのためらいもなく棄てた節子。呼び寄せた業者に二束三文にもならない、古紙回収に回した方がいいと言われても、「持っていってくれ。金を出してもいいから」とすがりついてでも回収を希望した。
そんなにアレは邪魔なものだったのか。
東京で暮らしていた時、少しでも文化的、教養のある生活が送りたくて買い求めたもの。わずかでも子供たちの知識の糧となれば、吾輩たちの知恵となれば。そう願ったのだが、結果はただの飾り、知的イミテーションとなっていた。
記載されている情報も古く、邪魔と言えば邪魔なのだが、だからといって「はい、棄てていいですよ」とは言い難い。読みはしなくても、そこに希望は詰め込んでいた。だから、紐で縛られ、業者にぞんざいに車に投げ込まれたのを見て、心にポッカリ穴が空いたような気になった。
残されたものを、残っている節子がどうしようが、それは節子の勝手かもしれないが、それでもやはり淋しいのは淋しいのだ。悲しいのは悲しいのだ。
だからだろうか。余計に、これだけはと、意固地になって座布団にしがみつく。このまま寝そべっていれば、「掃除の邪魔」と座布団ごと引きずられ、移動は余儀なくされるが、ゴミ袋にボスンはされなくてすむ。
「よっぽど気に入ったんやなあ、ミドリ」
なぜミドリなのか、理由は知らぬが節子は吾輩を「ミドリ」と呼ぶ。座布団を死守するように居座った吾輩を、節子は家猫、飼い猫として認めたようだ。朝な夕なに吾輩のための飯を用意し、ここで丸まっていても文句を言わない。
それは……まあ、雨にも濡れず、腹も減らずにすむのでありがたいのだが。
変わったな。
節子の生活。
今の節子の生活は、吾輩が知る日常とは全く違ったものになっていた。
京一朗が生きていた頃、家の中で節子を探すなら、真っ先に台所に向かっていた。それぐらい、節子はよく台所に立っていた。三度三度の食事の支度。後片付け。結婚当初からそうだったから、ずっと節子は料理好きな女だと思っていた。思っていたのに。
冷蔵庫の中には作り置きの惣菜がいくつも常備されていた。節子が漬けた梅干しは、京一朗のちょっとした朝の楽しみでもあった。
「出汁の違いなんて分からへんくせに」と節子は笑ったが、それでも京一朗は、節子の用意してくれた味噌汁を旨いと思って啜っていた。
節子のいる台所から漂うは、濃い出汁の匂いであって、チンっと無機質なレンジの音ではなかった。
それなのに。
今の節子は滅多に台所に立とうとしない。朝は市販のパンですませる。昼も夜もまた同じ。レトルトカレーのような簡単なものや、スーパーの惣菜パックが卓に並ぶ。
それが。
たまに台所に立ったとしても、サラサラと出汁の顆粒を鍋に入れる。鰹節や昆布を取り出すなどしない。余っていたという鰹節も煮干しも、すべて吾輩の腹の内に収まった。
変わった。
掃除や洗濯など、最低限のことはこなすが、それ以外の家事をしている様子はない。
では、代わりに何をしているのか。
余した時間、吾輩の近く、縁側に腰掛けて手の中の物をジッと見つめる節子。スマホだ。
京一朗が入院した時、緊急の連絡ができないと不便だからと、必要に迫られ持つこととなったスマホ。それを老眼鏡を上げ下げしながら、にらみつけるように見ている。
「スマホなんて、ようわからんもん、持つのは怖いわ」
京一朗の前では、そう言って困った顔をしていたのに。
何を見ているのか。見せてもらうことのない吾輩にはわからない。
時折ゆっくりと、ポチ、ポチ、ポチと画面を押しているから、節子なりに使いこなしているのだろう。
そして。
「ああ、斎藤さん? ご無沙汰してます、東です」
「ようわからんもん」と評したそれで、斎藤なる人物と連絡を取る。
「ええ、その件なんですけど。そうですか。やっぱり飛行機やないとあきませんか」
斎藤とは誰だ? 京一朗の知らない人物。それも、声が若い男。
漏れ聞こえた会話にピクリと耳が揺れた。
察するに、節子はこの人物と旅行の話を煮詰めているらしい。
男と旅行に行くのか? それも飛行機で往復するような距離を?
なんでもないフリをして目を閉じたのに、耳だけがピクピク揺れ続ける。
行くな――とは言えない。
節子の夫である京一朗は死んだ。寡婦となった節子が誰とつき合おうが、どこへ行こうがそれは節子の自由だ。不貞だなんだと責める資格は吾輩にはない。
だけど。
淋しいじゃないか。
夫が亡くなった途端、夫のものを次々に捨て、違う男と旅行になど行かれてしまったら。
好いて夫婦になったわけじゃない。流されるように、それが当たり前だと思って結婚した。けれど、子を設けて、孫まで生まれた。それなりに、それなりにいい夫婦になれたと思っていたのは吾輩、京一朗だけだったのか。
いつまでも京一朗を偲んでサメザメと泣いて欲しいわけではないが、そうもサッサと捨てられると、すべてが虚しくなってくる。
吾輩はなんのために、ここに生まれ変わってきたのだ?
吾輩はなんのために、ここを訪れたのだ?
「――ミドリ」
電話を終えた節子が言った。
「アンタのことはお隣さんに頼んどくから。ええ子で留守番しとるんやで」
しわがれた手が吾輩の背中を撫でる。
何度も何度も吾輩の毛筋に沿って動く手。なのに、吾輩の心は逆にささくれ立って行く。猫にも逆鱗なる鱗があるのだろうか。全身を覆うそれを、節子の手が撫でつけているような感覚。――不快。
「高知の土産って言うたら、やっぱり鰹かねえ」
知らぬ。
フギッと軽く唸り、座布団からタンスの上へと跳躍する。
「なんや。連れて行けへんこと、怒っとるんか?」
しょうがない猫や。
節子が笑う。
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