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第五話 猫と祖母と孫娘。そして梅干し。
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「ねえ、おばあちゃん。おじいちゃんと上手く暮らしたコツってなんかあったの?」
夫婦仲良く暮らす知恵。
家に居候を始めた真奈美が問いかけた。
どうやら最近、真奈美は同じ大学生のカレシと同棲していたが上手くいかず、ケンカした勢いでこちらに飛び出してきたのだという。
大学生で同棲?
ケンカしたぐらいで学校を休んだ?
言いたいことは山程ある。だが、猫でしかない吾輩は、ピンッと耳だけ立てて、静かに寝そべる。
「そうやねえ。コツなんて特にないねえ」
縁側で、真奈美と向かい合い、竹串と梅を持った節子がその手を止めた。
うーんと思案した顔。
今、二人が行っているのは、梅干し作りの下ごしらえ。
今年、節子は梅干しを作らないでいたが、真奈美が「どうしてもばあちゃんの梅干しが食べたい」と駄々をこねた。市販の梅干しで満足しない孫娘のために、梅を買い求めてきた節子。薄く赤みの混じる黄色い梅をザルに広げ、竹串でヘタを取っている。
「強いて言うなら、“相手に期待せえへんこと”……かねえ」
「期待しない?」
真奈美のオウム返し。
なれた手つきの節子と違って、真奈美の手を動かす速度はとても遅い。どのぐらい竹串を刺したらいいのかわからず、ブスッと刺してみたり、ややおっかなびっくりヘタを取る。
「期待しとらんかったら、『なんでしてくれへんかったん』って落胆せえへん。逆にやってもろたら、『ありがたいなあ』って思える」
「へえ……」
「たとえばな、自分が出かけなならん時に、流しに洗い物が溜まっとる。そういう時、家にじいちゃんが残っとって、『洗っといてくれへんかなあ』なんて期待したらあかん。期待したら、帰ってきた時に洗い物がそのままやったら、『なんでしてくれへんかったん』って思うやろ? だから、そういう期待はせえへん。逆に洗ろてあったら、『うわ、やってくれたん? ありがとな』って思えるやん」
「なるほど。深いね」
真奈美が大きく頷いた。
そうか。あの時、食器を洗ってやったら、大げさなぐらい感謝してきたのは、そういう裏があったのか。
京一朗は滅多に台所に立たない男だったが、一度だけ、食器を洗ってやったことがあった。節子が町内の婦人会の会合に参加していた時、珍しく洗い桶に残されていた茶碗を片付けてやったのだ。今と違い、湿気の少ない時期だったので、茶碗にこびりついた米の痕が取れず、水に浸けてふやかしてあったのだと節子は言っていたが、京一朗が触れた時には、米の痕はスルンと水だけで落ちるぐらいに柔らかくなっていた。一緒に浸けられていた湯呑がほしくて、あくまでついでに洗っただけなのだが、それでも節子はくり返し感謝を述べてきた。
褒められて悪い気はしない。また機会があれば洗っておいてやろう。
そう思っていたんだが。そうか。京一朗は、家事を手伝うような男という認識はされず、食器など洗うはずがないと、期待されていなかったのか。
振りかけた尻尾が、ペタンと座布団の上にうなだれる。
「そっかあ、期待しないと、ムカつくことも減る……かなあ」
ハア~っと、真奈美が天井に向けて深く息を吐き出す。
「減る減る。十期待してたところに、やってもらえへんかって引き算して、八、七って減らしてくより、全く期待しとらんゼロから始めて、やってもらってあら嬉しで一、二と足し算していたほうが気分もええ。減らした七より、増やした二のほうがありがたく感じられる」
「そういうものなの?」
「そういうもんや」
節子が梅干しのヘタ取り作業に戻る。
「この梅干しかてそうや。絶対旨く漬かるって思うて作ったらあかん。旨くなったらええなあ、ぐらいに止めとく。そしたら、旨かった時に『やった!!』って思えるし、不味かった時に、『なんやこれ!!』と腹立たんですむ」
旨かったら儲けもの。それぐらい謙虚に考えていれば、感謝の念も生まれる。そういうことか。
「でもな。あんまり控えめにおるのも良うないで」
ヘタを取り終えた梅。それを布巾で拭きながら節子が言った。
「言いたいこと、思とることは、我慢せずに言わなあかん。黙っとっても伝わる、なんてのは夫婦でも親子でもありえへんからな」
「そうなの?」
真奈美が問いかける。
「こうして欲しい、私はこう思とるってことは、ちゃんと相手に伝えやな。でないと、相手の好きなように振り回されて苦労する」
「おばあちゃん、おじいちゃんに振り回されたの?」
「大いに振り回してくれたわ、あの人は」
カラカラと節子が笑った。
「結婚したら、当然のように『東京で暮らせ!!』って言うたのに、定年した途端、今度は『故郷へ帰るぞ!!』やもん。方言、あっちやと目立つから標準語話せぇ言うたのに、こっちでは普通に話せやからねえ。あっちゃこっちゃ、いっぱい振り回されたわ」
そ、それは……。
東京で仕事してたのだから、そっちで暮らすのは当たり前。方言も東京だと節子が笑われるから直せと言っただけで。こっちに戻ってきたら、方言じゃないと周りから浮いてしまうことを心配してもとに戻せと言っただけで、振り回した自覚は……。
「おばあちゃんは、ここで暮らすことに反対だったの?」
「反対もなにも。せっかくあっちで友達も出来たし、あんたらも暮らしとるのに、いきなり『地元に帰るぞ!! お前も知り合いがおるからええやろ!! うれしいやろ!!』やでねえ。『地元に帰ろうと思とるんやけど、どうやろ』とか、相談も何もあらへんかったからねえ」
そ、それは……。
「せやから、真奈美はケンカしてもええから、ちゃんと言いたいことは相手に言わなあかんよ? 黙って振る舞わされて、後悔するのは自分やで」
「おばあちゃんは後悔してるの? おじいちゃんの言うように振り回されて」
耳がピクピクっと震えた。
「いんや。だから言うたやろ? 期待したらあかんって。じいちゃんに期待しとらんかったから、どうなろうとなんも思わへん。じいちゃんがこっちの思とること、理解してくれるなんて期待しとらんから、後悔なんてせえへん」
後悔するだけの期待をかけていない。
「見合いで結婚した夫婦なんてこんなもんやよ。好きで好きで結婚したわけやないから、相手のことをあんまよう知らへんままや。あたしもやけど、じいちゃんもこっちのこと、少しも知らへんかったと思うよ」
「例えば?」
「そうやねえ。そこの猫、“ミドリ”って名付けたんやけど、真奈美はその意味、理解できるか?」
「ミドリ? 黒猫なのに?」
真奈美の疑問を載せた視線が、吾輩の毛並みに注がれる。
「多分やけど、じいちゃんもアンタと一緒で首を傾げたと思うよ。黒猫なんやから“クロ”でええやないかって」
うむ。実際そう思っている。
クロがダメならチビ。ミケ。タマ。猫らしい名前ならいくらでもある。
なぜ吾輩を“ミドリ”に?
「真奈美は“ミドリゴ”、“ミドリノクロカミ”って言葉を知っとるか?」
「知らない」
「“ミドリゴ”はな、生まれたばかりの赤子のこと。“ミドリノクロカミ”は、つやつやとした美しい黒髪のこと。昔は、ミドリはグリーンって意味やのうて、若々しい、生まれたてのって意味があったんや。新緑、新芽のイメージなんやろな。古典なんかでよう使われる文句や」
「……へえ」
「そやから、この猫にも“ミドリ”って付けたんや。子猫やし、真っ黒でツヤツヤの毛並みやからな」
なるほど。
ミドリ=緑ではなかったのか。
「他にも白馬のことをアヲウマ、青い馬って言うたりとか。昔には、今とは違う色の名前があったんよ」
「それでミドリなんだ」
「そう。まあ、じいちゃんが生きとったら、『なんでクロにせんのや、気色悪い』って怒ってくるやろけどなあ」
い、いや、怒りはしない……と思う。そこまで狭量ではないぞ。多分。
「あの人は、なんでも自分は知っとる、お前は何も物を知らんみたいな態度を取ってくるけど、こっちからしてみりゃ、アンタのほうが物知らんやろって笑いたくなったわ」
「おばあちゃん、本読むの好きだもんね」
「せや。あの人みたいな、テレビで大河ドラマなんか観て、歴史を知っとるみたいな人は、『浅いな』思て見とった。一生懸命うんちくを傾けてくるけどな。『それ間違うとるで』って何度言いかかったことか。言うたら拗ねるから我慢しとったけどな」
そ、そうなのか。京一朗の語り、節子は笑いをこらえて聞いていたのか。
まるで、釈迦に説法、講師に論語、河童に水練。穴があったら入りたい。
「せやから、真奈美。好きな人と一緒におりたかったら、相手に期待せず、けど自分のことを知ってもらうためにもちゃんと話しをすること。そんでもって、相手のことも理解する。相手をよう知らんまま、知った気でおったら、じいちゃんみたいに恥をかくことになるで」
夫婦仲良く暮らす知恵。
家に居候を始めた真奈美が問いかけた。
どうやら最近、真奈美は同じ大学生のカレシと同棲していたが上手くいかず、ケンカした勢いでこちらに飛び出してきたのだという。
大学生で同棲?
ケンカしたぐらいで学校を休んだ?
言いたいことは山程ある。だが、猫でしかない吾輩は、ピンッと耳だけ立てて、静かに寝そべる。
「そうやねえ。コツなんて特にないねえ」
縁側で、真奈美と向かい合い、竹串と梅を持った節子がその手を止めた。
うーんと思案した顔。
今、二人が行っているのは、梅干し作りの下ごしらえ。
今年、節子は梅干しを作らないでいたが、真奈美が「どうしてもばあちゃんの梅干しが食べたい」と駄々をこねた。市販の梅干しで満足しない孫娘のために、梅を買い求めてきた節子。薄く赤みの混じる黄色い梅をザルに広げ、竹串でヘタを取っている。
「強いて言うなら、“相手に期待せえへんこと”……かねえ」
「期待しない?」
真奈美のオウム返し。
なれた手つきの節子と違って、真奈美の手を動かす速度はとても遅い。どのぐらい竹串を刺したらいいのかわからず、ブスッと刺してみたり、ややおっかなびっくりヘタを取る。
「期待しとらんかったら、『なんでしてくれへんかったん』って落胆せえへん。逆にやってもろたら、『ありがたいなあ』って思える」
「へえ……」
「たとえばな、自分が出かけなならん時に、流しに洗い物が溜まっとる。そういう時、家にじいちゃんが残っとって、『洗っといてくれへんかなあ』なんて期待したらあかん。期待したら、帰ってきた時に洗い物がそのままやったら、『なんでしてくれへんかったん』って思うやろ? だから、そういう期待はせえへん。逆に洗ろてあったら、『うわ、やってくれたん? ありがとな』って思えるやん」
「なるほど。深いね」
真奈美が大きく頷いた。
そうか。あの時、食器を洗ってやったら、大げさなぐらい感謝してきたのは、そういう裏があったのか。
京一朗は滅多に台所に立たない男だったが、一度だけ、食器を洗ってやったことがあった。節子が町内の婦人会の会合に参加していた時、珍しく洗い桶に残されていた茶碗を片付けてやったのだ。今と違い、湿気の少ない時期だったので、茶碗にこびりついた米の痕が取れず、水に浸けてふやかしてあったのだと節子は言っていたが、京一朗が触れた時には、米の痕はスルンと水だけで落ちるぐらいに柔らかくなっていた。一緒に浸けられていた湯呑がほしくて、あくまでついでに洗っただけなのだが、それでも節子はくり返し感謝を述べてきた。
褒められて悪い気はしない。また機会があれば洗っておいてやろう。
そう思っていたんだが。そうか。京一朗は、家事を手伝うような男という認識はされず、食器など洗うはずがないと、期待されていなかったのか。
振りかけた尻尾が、ペタンと座布団の上にうなだれる。
「そっかあ、期待しないと、ムカつくことも減る……かなあ」
ハア~っと、真奈美が天井に向けて深く息を吐き出す。
「減る減る。十期待してたところに、やってもらえへんかって引き算して、八、七って減らしてくより、全く期待しとらんゼロから始めて、やってもらってあら嬉しで一、二と足し算していたほうが気分もええ。減らした七より、増やした二のほうがありがたく感じられる」
「そういうものなの?」
「そういうもんや」
節子が梅干しのヘタ取り作業に戻る。
「この梅干しかてそうや。絶対旨く漬かるって思うて作ったらあかん。旨くなったらええなあ、ぐらいに止めとく。そしたら、旨かった時に『やった!!』って思えるし、不味かった時に、『なんやこれ!!』と腹立たんですむ」
旨かったら儲けもの。それぐらい謙虚に考えていれば、感謝の念も生まれる。そういうことか。
「でもな。あんまり控えめにおるのも良うないで」
ヘタを取り終えた梅。それを布巾で拭きながら節子が言った。
「言いたいこと、思とることは、我慢せずに言わなあかん。黙っとっても伝わる、なんてのは夫婦でも親子でもありえへんからな」
「そうなの?」
真奈美が問いかける。
「こうして欲しい、私はこう思とるってことは、ちゃんと相手に伝えやな。でないと、相手の好きなように振り回されて苦労する」
「おばあちゃん、おじいちゃんに振り回されたの?」
「大いに振り回してくれたわ、あの人は」
カラカラと節子が笑った。
「結婚したら、当然のように『東京で暮らせ!!』って言うたのに、定年した途端、今度は『故郷へ帰るぞ!!』やもん。方言、あっちやと目立つから標準語話せぇ言うたのに、こっちでは普通に話せやからねえ。あっちゃこっちゃ、いっぱい振り回されたわ」
そ、それは……。
東京で仕事してたのだから、そっちで暮らすのは当たり前。方言も東京だと節子が笑われるから直せと言っただけで。こっちに戻ってきたら、方言じゃないと周りから浮いてしまうことを心配してもとに戻せと言っただけで、振り回した自覚は……。
「おばあちゃんは、ここで暮らすことに反対だったの?」
「反対もなにも。せっかくあっちで友達も出来たし、あんたらも暮らしとるのに、いきなり『地元に帰るぞ!! お前も知り合いがおるからええやろ!! うれしいやろ!!』やでねえ。『地元に帰ろうと思とるんやけど、どうやろ』とか、相談も何もあらへんかったからねえ」
そ、それは……。
「せやから、真奈美はケンカしてもええから、ちゃんと言いたいことは相手に言わなあかんよ? 黙って振る舞わされて、後悔するのは自分やで」
「おばあちゃんは後悔してるの? おじいちゃんの言うように振り回されて」
耳がピクピクっと震えた。
「いんや。だから言うたやろ? 期待したらあかんって。じいちゃんに期待しとらんかったから、どうなろうとなんも思わへん。じいちゃんがこっちの思とること、理解してくれるなんて期待しとらんから、後悔なんてせえへん」
後悔するだけの期待をかけていない。
「見合いで結婚した夫婦なんてこんなもんやよ。好きで好きで結婚したわけやないから、相手のことをあんまよう知らへんままや。あたしもやけど、じいちゃんもこっちのこと、少しも知らへんかったと思うよ」
「例えば?」
「そうやねえ。そこの猫、“ミドリ”って名付けたんやけど、真奈美はその意味、理解できるか?」
「ミドリ? 黒猫なのに?」
真奈美の疑問を載せた視線が、吾輩の毛並みに注がれる。
「多分やけど、じいちゃんもアンタと一緒で首を傾げたと思うよ。黒猫なんやから“クロ”でええやないかって」
うむ。実際そう思っている。
クロがダメならチビ。ミケ。タマ。猫らしい名前ならいくらでもある。
なぜ吾輩を“ミドリ”に?
「真奈美は“ミドリゴ”、“ミドリノクロカミ”って言葉を知っとるか?」
「知らない」
「“ミドリゴ”はな、生まれたばかりの赤子のこと。“ミドリノクロカミ”は、つやつやとした美しい黒髪のこと。昔は、ミドリはグリーンって意味やのうて、若々しい、生まれたてのって意味があったんや。新緑、新芽のイメージなんやろな。古典なんかでよう使われる文句や」
「……へえ」
「そやから、この猫にも“ミドリ”って付けたんや。子猫やし、真っ黒でツヤツヤの毛並みやからな」
なるほど。
ミドリ=緑ではなかったのか。
「他にも白馬のことをアヲウマ、青い馬って言うたりとか。昔には、今とは違う色の名前があったんよ」
「それでミドリなんだ」
「そう。まあ、じいちゃんが生きとったら、『なんでクロにせんのや、気色悪い』って怒ってくるやろけどなあ」
い、いや、怒りはしない……と思う。そこまで狭量ではないぞ。多分。
「あの人は、なんでも自分は知っとる、お前は何も物を知らんみたいな態度を取ってくるけど、こっちからしてみりゃ、アンタのほうが物知らんやろって笑いたくなったわ」
「おばあちゃん、本読むの好きだもんね」
「せや。あの人みたいな、テレビで大河ドラマなんか観て、歴史を知っとるみたいな人は、『浅いな』思て見とった。一生懸命うんちくを傾けてくるけどな。『それ間違うとるで』って何度言いかかったことか。言うたら拗ねるから我慢しとったけどな」
そ、そうなのか。京一朗の語り、節子は笑いをこらえて聞いていたのか。
まるで、釈迦に説法、講師に論語、河童に水練。穴があったら入りたい。
「せやから、真奈美。好きな人と一緒におりたかったら、相手に期待せず、けど自分のことを知ってもらうためにもちゃんと話しをすること。そんでもって、相手のことも理解する。相手をよう知らんまま、知った気でおったら、じいちゃんみたいに恥をかくことになるで」
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