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巻の二十九、衝撃
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――コウ・セイランは、省試を受けていない。
「受験者の名簿にも、明日伝えられるだろう合格者の名簿にも。コウ・セイランという名はなかった」
聞きたくない。なのに、勝手に耳はウィンシャオ殿の言葉を拾う。
「試験中、私は、伯父上の手伝いで貢院にいたのだけど。それらしい姿は一度も見ていない」
そんな。
あの日彼は、荷物を抱えて省試を受けに行ったわ。
だから。
だから、わたしは必死に彼の無事を白虎廟で祈った。
彼が無事でありますように。彼が持てる力を存分に発揮できますようにって。
あれは。あれは、全部嘘だったっていうの?
「かわいそうに、リファ」
優雅に、茶器を卓に戻した異母姉。
「アナタ、あの男に騙されていたのよ」
「う、嘘……」
嘘。嘘よ、そんなの。
「貢院にいなかった。名簿にも名が載ってなかった。それが証拠じゃないの」
嫌。認めたくない。
「あの薄汚い男、相婿になったウィンシャオ殿があまりに立派だったから、とっさに進士だなんて、見え透いた嘘をついたのね。かわいそうに」
「進士だなんて。試験が始まれば、すぐにバレてしまうような嘘なのにな」
「そうですわよね。でも仕方ないですわ。そんなすぐに露見するような嘘でもつかなければいけないような、憐れな人みたいですから。相婿が礼部尚書の甥だったことが、運の尽きでしたわ」
「永遠に合否結果は出ない。まあ、そうなったら、次の省試を受けるとかなんとか、嘘を重ねるんだろうけどね」
「今日も、その言い訳を作るために、出かけておられるのかも。お可哀想」
「そう言ってやるなよ。ない頭を捻って、必死に考えてるんだろうからさ」
フフフ、クスクスと笑いあう異母姉夫婦。
お願い。やめて。
もう言わないで。
彼を悪く言わないで。
もうたくさん! もう聞きたくない!
「それにね。この屋敷は、あの男のものではないよ」
穏やかに、でも笑いを含んだ声で話すウィンシャオ殿。
「し、知ってるわ」
強張ったわたしの声。まるで虚勢を張ってるみたい。
「ふぅん。どう知ってるかは、疑問だけど」
虚勢はアッサリ見破られてる。
「この屋敷はね、筆頭侍中の、イ・ライシャン殿の持ってる住まいの一つなんだよ」
「筆頭……侍中?」
「そんな……、ここは……、彼は留守居役を任されてる……って」
侍中っていったら、あの皇帝陛下にお仕えする職の方のことよね? それも筆頭っていったら、特に身近で、お身まわりのお世話もするという。そういう人のお屋敷? 地方に赴任されてるどなたかのお屋敷じゃないの?
「騙されたのよ、可哀想に」
「侍中殿はお忙しいお方だからな。手の回らない屋敷の一つや二つ、あってもおかしくない。そこを浮浪者に目をつけられてしまったのだろう」
憐れむ異母姉に、頷くウィンシャオ殿。
(そんな……)
地面から、なにもかもが崩れていくような感覚。
彼が進士だってこと、嘘だったの?
省試を受けに行ったのも嘘? 居留守役を任されてるっていうのも嘘?
(彼のなにが本当なの?)
真実なんてあるの?
それともこれは、異母姉たちがわたしを嘲笑うために用意した嘘?
わからない。
信じたくない。信じたい。
わたしを嘲笑う異母姉を。わたしを愛してくれる彼を。
すべてを拒絶したくて。頭を抱えて、その場にしゃがみこむ。
「――可哀想に。リファ」
卓を離れ、ウィンシャオ殿がわたしに近づいてくる。
「戻っていらっしゃい、リファ」
異母姉も近寄ってくる。
「アナタは家で暮らしている方が幸せなの。そんな嘘つき男なんて捨てて、家に帰ってらっしゃい」
ひんやりした異母姉の指が、わたしの手に触れる。
「お父様には、わたくしがとりなして差し上げますわ。これまでと同じように、家に置いてやってくださいと。わたくしの言うことなら、お父様もお聞き入れくださいますわ。アナタには、あの家の奥で縫い物をして暮らすのが似合ってるのよ」
「そうだな。家に戻れ、リファ」
ウィンシャオ殿の手が、髪をまとめた簪にかかる。
「こんなものをつけて、夫婦の義理立てする必要はない」
「やめっ――!」
わたしが止めるまもなく。簪が抜けたことで、シュルっとほどけた髪。丸めた背中一面に髪が崩れ落ちる。
「キミは、あんな男に相応しくない。抱かれるなら、私に抱かれろ」
得意げに簪を持ったウィンシャオ殿。
……なにを、言ってるの?
「アナタ!」
異母姉が金切り声を上げる。
「いいじゃないか。もともと、リファは私の婚約者だったんだ。お前と結婚したから、妻にはできないが、妾にすることはできる」
「返してっ!」
簪を返して! それは、わたしの大切なもの!
彼がわたしを愛してくれた証! それだけは嘘じゃないの!
わたしにとって、命と同じぐらい大切なもの!
「リファ。私の妾となれば、こんなものよりもっと豪華な簪を贈ってやろう」
バキッ。
取り戻せない簪が、ウィンシャオ殿の手のなかで、嫌な音を立てた。
「あ……、あ……」
息ができない。
簪が。わたしの簪が。
彼が贈ってくれた簪が。
「妾として、私に仕えよ」
息もできない、砕かれ、地面に落ちた簪だけを見て、まばたきすら忘れたわたしの眼前に、ウィンシャオ殿が近づいてくる。
嫌。嫌。やめて。嫌。
(誰か、助けて――)
――ザシュッ!
空を唸り、すぐ横の地面に鋭く突き立ったもの。
「そこまでだ!」
同時に降り注いだ声。
「――ヒィッ!」
一瞬で顔を青ざめさせたウィンシャオ殿が飛び退く。
(――剣?)
突き立っていたのは剣。それもよく磨かれた刀身と、豪奢だけど実用に耐える立派な柄を持った剣。舞い上がった土埃のなかからその姿が現れる。
(こんなものが、どこから?)
「それ以上、余の妃に懸想すること、相許さん!」
余? 妃?
「セイラン……さん?」
空を見上げて呟く。
白く輝く日を背に、大きな白い虎に跨ったセイランさんが宙に浮かんでる。
朝、出かけた時とは違う衣装。
恰幅よく見える、いくつも重ねられた衣。黒色の上衣に赤色の裳。袞衣。中央に配された巻龍の刺繍。玄衣纁裳。頭上には、いくつもの玉を糸で連ねた旒がぶら下がった冕冠。その姿はまさしく――。
「こっ、皇帝……。まさか……」
そばで、転んだまま同じように見上げてるウィンシャオ殿が呟く。
わたしも同じように、ポカンとその姿を見上げる。
彼が? どうして?
どうなってるの?
「――リファ!」
白い虎からヒラリと降りた彼が駆け寄ってくる。
「怪我はっ!? 無事かっ!?」
「――だい、じょうぶ、です」
答える自分の声が、どこか遠くから響いているような感覚。
だけど。
「間に合って、よかった」
絞り出されたような彼の声。わたしを抱きしめる彼の腕の強さに、感情が戻ってくる。
「うっ……、あっ……」
泣きたいのに、まだ声がうまくでてこない。
「かん、ざしがっ……」
「簪?」
わたしの視線を追いかけるように、彼も地面に落ちた簪を見る。柄がベッキリ圧し折られた無惨な簪。
「うぁあっ! ああああっ!」
せきを切ったように、涙と感情が溢れた。
「簪がっ! ごめっ、ごめんなさ、いっ!」
「いい。キミが無事ならそれでいい」
「うぁああああんっ!」
赤子のように泣きじゃくるわたしを、腕のなかに抱きとめる彼。
「辛かったな」
「うあぁぁっ、あああぁんっ! セッ、セイラッ、ンッ! セイランッ!」
止まらない。涙もなにもかも、止められない。
見たこともない豪奢な袍だけど。容赦なく引っ掴んで泣きじゃくった。彼も、「リファ」と何度も名を呼んで抱きしめ続けてくれた。
「―ーうっ、嘘だっ!」
どれぐらいの時間が過ぎたのだろうか。
声を発したのはウィンシャオ殿だった。そばには、助け起こすように寄り添う異母姉。
「お前が皇帝だなんて! 嘘だ! 嘘に決まってる!」
地面に尻もちついて、情けなく後ずさりしながら。口から泡を飛ばしながら、こっちを指さしてくる。
「礼部尚書、チャンの甥、ウィンシャオだったか」
少しだけわたしを抱く力を緩めながら、セイランさんがウィンシャオ殿に問う。
「おぬしは、なにを見て、なにを嘘だと言い張る?」
「そっ、それはっ!」
一瞬、ウィンシャオ殿が怯む。けど。
「お前は、自分を〝省試受験のため地方から上がってきた貧乏進士〟だと名乗ってたではないか!」
「――〝貧乏〟とは言ってないがな」
勢いづいたウィンシャオ殿を、セイランさんが鼻で笑う。
確かに。
初めて名乗った時、彼は自らを〝貧乏〟とは言ってない。貧乏は、彼の服装から想像したウィンシャオ殿たちがくっつけたものだろう。
「進士のくせに、省試にいなかった! 名簿にも貴様の名は載ってなかったぞ!」
「当然だ。余は進士ではないからな。だが、試験はちゃんと受けたぞ」
「――え?」
目茶苦茶な指摘をしたウィンシャオ殿が、キョトンとした顔になる。
「偽りではあるが、進士と名乗る以上、試験は受けた。さすがに余が合格するわけにはいかんからな。貢院以外の場所で、コッソリ受けさせてもらった」
「受けた……のか?」
ウィンシャオ殿の声が震える。
「ああ。なんだまだ知貢挙の二人から聞いていないのか。余の結果は、会元としてもおかしくないものだったと言われたがな。まあ、忖度も入ってるかも知れないが」
「かっ、会元っ!」
会元は、省試で一位の成績だった者の名称。その会元になるだけの実力があるの?
彼が皇帝陛下なのだとしたら、とんでもなく明晰な皇帝ってことになる。
「まあそもそもお主のような官僚でもない、ただの礼部尚書の甥ごときが、省試の結果を知っているあたり、許されざることなんだがな」
結果は発表まで秘される。
それをウィンシャオ殿が知っているということは。彼の伯父が情報を漏らしたということ。なにかしらの処断が伯父にも下る可能性がある。
「嘘だ。そんな。嘘だ。デタラメだ。嘘、嘘に決まってる……」
両手で頭を抱え、ブツブツ呟くウィンシャオ殿。
「そうだ! 貴様が皇帝だと言うなら、白虎はどうした! 白虎は!」
反論をひらめいたのか、ウィンシャオ殿が饒舌になった。
「貴様がどれだけ衣装をこらそうと、妖術に長けていようと、本物の白虎は連れてこれまい!」
セイランさんの衣装は偽物。空から現れたのも妖術。
ウィンシャオ殿が、そういうふうに結論づけたらしい。
この西芳国の皇帝なら、白虎を引き連れているはず。白虎は、皇帝を扶け、守る神獣だから。
「――妖術、ね。次から次へと、よくも思いつくものだな」
セイランさんが呆れる。
でも、たしかにウィンシャオ殿に言い分も、一理……半理ぐらいはある。
セイランさんが現れたときにまたがっていた、あの白い虎。
見回してみるけど、白い虎はどこにもいない。爪痕すら残っていない。
いるのは、彼の従者のハクエイだけ。――ハクエイ? 彼はどこからここに来たのかしら?
「――うるせえニイちゃんだなあ」
そのハクエイがノンビリと、でも嫌そうに近づいてくる。
「さっき見たのに、まだ信じられねえってか」
「あっ、あれは妖術っ! 目くらましだっ!」
「ふぅん。じゃあ、次は、目ん玉かっぽじって、よぉく見とけ」
目ん玉かっぽじったら、見えないわよ。目ん玉は「よぉく見開いて」おくものよ。
そんなツッコミを言えないまま。
「――ヨッ! コレデイイカ? 人ノ子ヨ」
クルッと軽業師のように、宙返りしたハクエイ。その足が再び地面を捉えるより早く、そこに白い虎が立っていた。地面を捉えたのは、太く大きな白い、獣の脚。
「あ、わ、わ……」
震えるウィンシャオ殿。寄り添ってた異母姉も、腰を抜かしたようにしゃがみ込む。
少し離れた所にいる、スーメイたちは、驚きながらも、地面にひれ伏し始めた。
「コレデモ、疑ウノカ?」
大きな虎が、わざと圧倒するように、ウィンシャオ殿に顔を近づける。
馬よりも大きなおおきな虎。白く神々しい毛並みに、黒く引き締まった模様。
それは紛れもなく、この西芳国の神獣、白虎。
「ウワ。ニイチャン、漏ラスナヨ。庭ガ汚レテ、オイラガ叱ラレルジャネエカ」
喋る虎が、いつものように、口の端を歪める笑い方をした。
「受験者の名簿にも、明日伝えられるだろう合格者の名簿にも。コウ・セイランという名はなかった」
聞きたくない。なのに、勝手に耳はウィンシャオ殿の言葉を拾う。
「試験中、私は、伯父上の手伝いで貢院にいたのだけど。それらしい姿は一度も見ていない」
そんな。
あの日彼は、荷物を抱えて省試を受けに行ったわ。
だから。
だから、わたしは必死に彼の無事を白虎廟で祈った。
彼が無事でありますように。彼が持てる力を存分に発揮できますようにって。
あれは。あれは、全部嘘だったっていうの?
「かわいそうに、リファ」
優雅に、茶器を卓に戻した異母姉。
「アナタ、あの男に騙されていたのよ」
「う、嘘……」
嘘。嘘よ、そんなの。
「貢院にいなかった。名簿にも名が載ってなかった。それが証拠じゃないの」
嫌。認めたくない。
「あの薄汚い男、相婿になったウィンシャオ殿があまりに立派だったから、とっさに進士だなんて、見え透いた嘘をついたのね。かわいそうに」
「進士だなんて。試験が始まれば、すぐにバレてしまうような嘘なのにな」
「そうですわよね。でも仕方ないですわ。そんなすぐに露見するような嘘でもつかなければいけないような、憐れな人みたいですから。相婿が礼部尚書の甥だったことが、運の尽きでしたわ」
「永遠に合否結果は出ない。まあ、そうなったら、次の省試を受けるとかなんとか、嘘を重ねるんだろうけどね」
「今日も、その言い訳を作るために、出かけておられるのかも。お可哀想」
「そう言ってやるなよ。ない頭を捻って、必死に考えてるんだろうからさ」
フフフ、クスクスと笑いあう異母姉夫婦。
お願い。やめて。
もう言わないで。
彼を悪く言わないで。
もうたくさん! もう聞きたくない!
「それにね。この屋敷は、あの男のものではないよ」
穏やかに、でも笑いを含んだ声で話すウィンシャオ殿。
「し、知ってるわ」
強張ったわたしの声。まるで虚勢を張ってるみたい。
「ふぅん。どう知ってるかは、疑問だけど」
虚勢はアッサリ見破られてる。
「この屋敷はね、筆頭侍中の、イ・ライシャン殿の持ってる住まいの一つなんだよ」
「筆頭……侍中?」
「そんな……、ここは……、彼は留守居役を任されてる……って」
侍中っていったら、あの皇帝陛下にお仕えする職の方のことよね? それも筆頭っていったら、特に身近で、お身まわりのお世話もするという。そういう人のお屋敷? 地方に赴任されてるどなたかのお屋敷じゃないの?
「騙されたのよ、可哀想に」
「侍中殿はお忙しいお方だからな。手の回らない屋敷の一つや二つ、あってもおかしくない。そこを浮浪者に目をつけられてしまったのだろう」
憐れむ異母姉に、頷くウィンシャオ殿。
(そんな……)
地面から、なにもかもが崩れていくような感覚。
彼が進士だってこと、嘘だったの?
省試を受けに行ったのも嘘? 居留守役を任されてるっていうのも嘘?
(彼のなにが本当なの?)
真実なんてあるの?
それともこれは、異母姉たちがわたしを嘲笑うために用意した嘘?
わからない。
信じたくない。信じたい。
わたしを嘲笑う異母姉を。わたしを愛してくれる彼を。
すべてを拒絶したくて。頭を抱えて、その場にしゃがみこむ。
「――可哀想に。リファ」
卓を離れ、ウィンシャオ殿がわたしに近づいてくる。
「戻っていらっしゃい、リファ」
異母姉も近寄ってくる。
「アナタは家で暮らしている方が幸せなの。そんな嘘つき男なんて捨てて、家に帰ってらっしゃい」
ひんやりした異母姉の指が、わたしの手に触れる。
「お父様には、わたくしがとりなして差し上げますわ。これまでと同じように、家に置いてやってくださいと。わたくしの言うことなら、お父様もお聞き入れくださいますわ。アナタには、あの家の奥で縫い物をして暮らすのが似合ってるのよ」
「そうだな。家に戻れ、リファ」
ウィンシャオ殿の手が、髪をまとめた簪にかかる。
「こんなものをつけて、夫婦の義理立てする必要はない」
「やめっ――!」
わたしが止めるまもなく。簪が抜けたことで、シュルっとほどけた髪。丸めた背中一面に髪が崩れ落ちる。
「キミは、あんな男に相応しくない。抱かれるなら、私に抱かれろ」
得意げに簪を持ったウィンシャオ殿。
……なにを、言ってるの?
「アナタ!」
異母姉が金切り声を上げる。
「いいじゃないか。もともと、リファは私の婚約者だったんだ。お前と結婚したから、妻にはできないが、妾にすることはできる」
「返してっ!」
簪を返して! それは、わたしの大切なもの!
彼がわたしを愛してくれた証! それだけは嘘じゃないの!
わたしにとって、命と同じぐらい大切なもの!
「リファ。私の妾となれば、こんなものよりもっと豪華な簪を贈ってやろう」
バキッ。
取り戻せない簪が、ウィンシャオ殿の手のなかで、嫌な音を立てた。
「あ……、あ……」
息ができない。
簪が。わたしの簪が。
彼が贈ってくれた簪が。
「妾として、私に仕えよ」
息もできない、砕かれ、地面に落ちた簪だけを見て、まばたきすら忘れたわたしの眼前に、ウィンシャオ殿が近づいてくる。
嫌。嫌。やめて。嫌。
(誰か、助けて――)
――ザシュッ!
空を唸り、すぐ横の地面に鋭く突き立ったもの。
「そこまでだ!」
同時に降り注いだ声。
「――ヒィッ!」
一瞬で顔を青ざめさせたウィンシャオ殿が飛び退く。
(――剣?)
突き立っていたのは剣。それもよく磨かれた刀身と、豪奢だけど実用に耐える立派な柄を持った剣。舞い上がった土埃のなかからその姿が現れる。
(こんなものが、どこから?)
「それ以上、余の妃に懸想すること、相許さん!」
余? 妃?
「セイラン……さん?」
空を見上げて呟く。
白く輝く日を背に、大きな白い虎に跨ったセイランさんが宙に浮かんでる。
朝、出かけた時とは違う衣装。
恰幅よく見える、いくつも重ねられた衣。黒色の上衣に赤色の裳。袞衣。中央に配された巻龍の刺繍。玄衣纁裳。頭上には、いくつもの玉を糸で連ねた旒がぶら下がった冕冠。その姿はまさしく――。
「こっ、皇帝……。まさか……」
そばで、転んだまま同じように見上げてるウィンシャオ殿が呟く。
わたしも同じように、ポカンとその姿を見上げる。
彼が? どうして?
どうなってるの?
「――リファ!」
白い虎からヒラリと降りた彼が駆け寄ってくる。
「怪我はっ!? 無事かっ!?」
「――だい、じょうぶ、です」
答える自分の声が、どこか遠くから響いているような感覚。
だけど。
「間に合って、よかった」
絞り出されたような彼の声。わたしを抱きしめる彼の腕の強さに、感情が戻ってくる。
「うっ……、あっ……」
泣きたいのに、まだ声がうまくでてこない。
「かん、ざしがっ……」
「簪?」
わたしの視線を追いかけるように、彼も地面に落ちた簪を見る。柄がベッキリ圧し折られた無惨な簪。
「うぁあっ! ああああっ!」
せきを切ったように、涙と感情が溢れた。
「簪がっ! ごめっ、ごめんなさ、いっ!」
「いい。キミが無事ならそれでいい」
「うぁああああんっ!」
赤子のように泣きじゃくるわたしを、腕のなかに抱きとめる彼。
「辛かったな」
「うあぁぁっ、あああぁんっ! セッ、セイラッ、ンッ! セイランッ!」
止まらない。涙もなにもかも、止められない。
見たこともない豪奢な袍だけど。容赦なく引っ掴んで泣きじゃくった。彼も、「リファ」と何度も名を呼んで抱きしめ続けてくれた。
「―ーうっ、嘘だっ!」
どれぐらいの時間が過ぎたのだろうか。
声を発したのはウィンシャオ殿だった。そばには、助け起こすように寄り添う異母姉。
「お前が皇帝だなんて! 嘘だ! 嘘に決まってる!」
地面に尻もちついて、情けなく後ずさりしながら。口から泡を飛ばしながら、こっちを指さしてくる。
「礼部尚書、チャンの甥、ウィンシャオだったか」
少しだけわたしを抱く力を緩めながら、セイランさんがウィンシャオ殿に問う。
「おぬしは、なにを見て、なにを嘘だと言い張る?」
「そっ、それはっ!」
一瞬、ウィンシャオ殿が怯む。けど。
「お前は、自分を〝省試受験のため地方から上がってきた貧乏進士〟だと名乗ってたではないか!」
「――〝貧乏〟とは言ってないがな」
勢いづいたウィンシャオ殿を、セイランさんが鼻で笑う。
確かに。
初めて名乗った時、彼は自らを〝貧乏〟とは言ってない。貧乏は、彼の服装から想像したウィンシャオ殿たちがくっつけたものだろう。
「進士のくせに、省試にいなかった! 名簿にも貴様の名は載ってなかったぞ!」
「当然だ。余は進士ではないからな。だが、試験はちゃんと受けたぞ」
「――え?」
目茶苦茶な指摘をしたウィンシャオ殿が、キョトンとした顔になる。
「偽りではあるが、進士と名乗る以上、試験は受けた。さすがに余が合格するわけにはいかんからな。貢院以外の場所で、コッソリ受けさせてもらった」
「受けた……のか?」
ウィンシャオ殿の声が震える。
「ああ。なんだまだ知貢挙の二人から聞いていないのか。余の結果は、会元としてもおかしくないものだったと言われたがな。まあ、忖度も入ってるかも知れないが」
「かっ、会元っ!」
会元は、省試で一位の成績だった者の名称。その会元になるだけの実力があるの?
彼が皇帝陛下なのだとしたら、とんでもなく明晰な皇帝ってことになる。
「まあそもそもお主のような官僚でもない、ただの礼部尚書の甥ごときが、省試の結果を知っているあたり、許されざることなんだがな」
結果は発表まで秘される。
それをウィンシャオ殿が知っているということは。彼の伯父が情報を漏らしたということ。なにかしらの処断が伯父にも下る可能性がある。
「嘘だ。そんな。嘘だ。デタラメだ。嘘、嘘に決まってる……」
両手で頭を抱え、ブツブツ呟くウィンシャオ殿。
「そうだ! 貴様が皇帝だと言うなら、白虎はどうした! 白虎は!」
反論をひらめいたのか、ウィンシャオ殿が饒舌になった。
「貴様がどれだけ衣装をこらそうと、妖術に長けていようと、本物の白虎は連れてこれまい!」
セイランさんの衣装は偽物。空から現れたのも妖術。
ウィンシャオ殿が、そういうふうに結論づけたらしい。
この西芳国の皇帝なら、白虎を引き連れているはず。白虎は、皇帝を扶け、守る神獣だから。
「――妖術、ね。次から次へと、よくも思いつくものだな」
セイランさんが呆れる。
でも、たしかにウィンシャオ殿に言い分も、一理……半理ぐらいはある。
セイランさんが現れたときにまたがっていた、あの白い虎。
見回してみるけど、白い虎はどこにもいない。爪痕すら残っていない。
いるのは、彼の従者のハクエイだけ。――ハクエイ? 彼はどこからここに来たのかしら?
「――うるせえニイちゃんだなあ」
そのハクエイがノンビリと、でも嫌そうに近づいてくる。
「さっき見たのに、まだ信じられねえってか」
「あっ、あれは妖術っ! 目くらましだっ!」
「ふぅん。じゃあ、次は、目ん玉かっぽじって、よぉく見とけ」
目ん玉かっぽじったら、見えないわよ。目ん玉は「よぉく見開いて」おくものよ。
そんなツッコミを言えないまま。
「――ヨッ! コレデイイカ? 人ノ子ヨ」
クルッと軽業師のように、宙返りしたハクエイ。その足が再び地面を捉えるより早く、そこに白い虎が立っていた。地面を捉えたのは、太く大きな白い、獣の脚。
「あ、わ、わ……」
震えるウィンシャオ殿。寄り添ってた異母姉も、腰を抜かしたようにしゃがみ込む。
少し離れた所にいる、スーメイたちは、驚きながらも、地面にひれ伏し始めた。
「コレデモ、疑ウノカ?」
大きな虎が、わざと圧倒するように、ウィンシャオ殿に顔を近づける。
馬よりも大きなおおきな虎。白く神々しい毛並みに、黒く引き締まった模様。
それは紛れもなく、この西芳国の神獣、白虎。
「ウワ。ニイチャン、漏ラスナヨ。庭ガ汚レテ、オイラガ叱ラレルジャネエカ」
喋る虎が、いつものように、口の端を歪める笑い方をした。
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彼女よりも一つ年上のハルフォードは、見た目は儚げな美少年だが中身はポヤポヤした性格の生活力皆無な研究バカな青年で、アメリアは彼の身の回りの世話を焼くことが多かった。
そんな彼が、「こんな魔道具を作ってみた!」と報告してきた。
しかも独断でその魔道具の性能を第三王女とその護衛騎士で試すと言い出したのだ。
王族への不敬行為になるとアメリアが止めるも、ハルフォードはアメリアにも協力してもらい決行に踏みきってしまう。
そんな彼が開発した画期的な魔道具は、身につけたピアスから相手の心の声が聞こえるという物だった。
★全5話の作品です★
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