特派の狸

こま

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呼び捨て

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皇国歴一九六〇年 初秋

「もっと力を抜いて! 体がぶれてる!」
 無知な教え子に叱咤が飛ぶ。巡の主導で俺は数日なんとか流の正拳突きだの前蹴りだのを繰り返していた。他の先輩は飽きたのか、お互いに組手をしたり、本を読んだり、それについても笠置は何も言わなかった。
「好きにやれ。わからないことは聞け」
 そんな指示が出ていた。どうにでも解釈できるし、だからこそみんな自分に必要だと思うことをしているのだろう。では彼女にはこれが必要なのだろうか。
「あと百本!」
 巡は自身の描く理想というものから外れることを嫌った。腕の僅かな上下の位置や体重のかけ方、視線や呼吸にまで教科書通りを望んだ。当然のことながら、それは難しい。ましてや素人である。
「ずれた! 十本追加!」
 ヒステリックに叫んで、先輩方すらを震えさせた。炎のような吐息を押さえ込み、正しさのみを追求した巡の公式に自分を押し込むと、ようやく止めと声がかかった。
「次はまた蹴りをしますから休憩がてら柔軟しましょう」
 筋肉や関節の悲鳴が喉にそのまま伝達されても彼女は手を弛めない。二度骨が外れ、笠置がはめた。
 同じことを数時間、一日、一週間。厳しさを増す教官とともに延々と。終わりのない登山のようだった。
「まあ、さまにはなりましたね」
 軍隊式なのか巡式なのかは不明だし、聞きもしなかった。最終日目前、たった一度そう褒められたことがたまらなく嬉しかった。
「さまになったか! よかった……ありがとな、巡」
「い、いや、別に。下の下がちょっとましになったくらいですけど」
「それでもいい。ホント助かった」
「……まだ訓練時間内ですから、ほら、続けてください」
 気を引き締めろと尚更熱のこもった指導だったが、自画自賛になるが、よくやったと思う。走り込みと筋トレも平行してやっていたためか、寮の風呂場の鏡には見違えるほどの自分がいたのだ。それでも同年代の学生には及ばなかったが、なんとなく自信になった。
「整列!」
 笠置の号令もこれで最後だ。今日の午後六時、俺は特派に戻る。延長なんかない。戻ると決めた。
「本日を持って朝日は去るが、こいつ、どれ程使えるようになった?」
 その問いかけに首をすくませる。自分の評価というもにはどんなものでもこそばゆいのだ。
「巡、お前が一番熱心だったが、どうだ」
「……到底使い物にはなりません」
 背に伝わる冷たい汗。これは、正気を保っていられないぞ、正直。ショックだし、彼女に無駄な時間を過ごさせたことがなにより苛立つ。思えばあれは不出来な俺のやる気を少しでも盛り上げようとした方便なのだ。
 ああ、真実にどんな顔をして会えばいい。一ヶ月を不意にしたと、歴史と数学をかじっただけだと報告するのか。
「ふむ、そうか。じゃあ一列に並べ。一人づつかかっていけ」
 初日のような訓練だ。巡は最後尾に並んだ。
「お願いします」
 初手は……大澤だ。歳のわりに体がでかく、力がある。四角い顔は日に焼けて黒い。
「お願いします」
 緊張はしていない。痺れもしない。ただ熱かった。眼を見て、習ったことをすればいいのだ。
 彼にあるのは闘志は半分、あとは、なんだろう、余裕だろうか。笑みさえ浮かべている。おお、突っ込んできた。
 拳を固めて、加減をして突き出す。の、前に避けないと。容赦のない中段蹴りだ。
 ここか。視線の交わったまま、彼の頬から乾いた音が響いて、倒れた。いや、倒したのだ。俺が、この手で。
「そこまで。次」
 笠置は着々と促していく。体は驚くほど軽やかに動いた。今まで散々なほどやられていたのにもかかわらず、背中も膝もつかない。火照る体の衝動をリミッターのついた挙動によって振り回し、向かってくるもの全てを倒しきった。ただ一人、彼女を残して。
「最後は巡か……始め」
 目と目が合うと、すぐに彼女は動いた。視線を切り、横に回られた。それからは一方的だった。善戦などではなく彼女の言う「使い物にならない」という評価の証拠提出だった。身長もリーチも優位なのに、彼女の攻撃はよく当たる。目眩と覚醒をいったりきたりして、膝をついた。昏倒し、しかし強烈な張り手が頬を焼き、
「本当に天使を殺したんですか」
 声なき声、憮然として彼女は眼で語っていた。
 必死になって手を伸ばした。弾かれ、蹴られ、それでも食い下がった。
 どうやっても彼女に勝てないのか。
 どうやって俺は勝ってきたのだ。
 どうやって戦場を生きたのだ。
 連綿とした経験の、細く揺れる蜘蛛の糸。手繰り寄せ、手足に直結させると、じわりと腕が痛んだ。天使の牙が抉った丸い傷痕、そこからじわりとしみだす血液。
 ああ、これだ。この痺れが、この熱さが、精神を研ぎ澄ませてくれる。しかしこの病的な戦闘心理は思考をクリアにもしたし、逆に靄もかけた。あること以外はぼやけているのだ。無音の世界で、熱さも痺れもわからない。
 次に何をすべきか、それしか残っていないのだ。
 ここは戦場で、あれは天使か。彼女は、いや、やつは天使だ。
「そこまで!」
 色でいえば赤。得たいの知れない空気の動き、誰かが、俺に何かしようとしている。
 音は聞こえない。しかし体は動いた。振り抜いた拳は真綿のような柔らかい掌に包まれた。ああ、天使め、俺をどうしようというのだ。
 腕をとられ、立ったまま間接を極められた。抜け出そうとするとバランスを崩し、あっさりと倒される。のしかかられ、肩が軋む。
「殺しは禁止だ、馬鹿」
「き、教官、あの」
「下がれ巡。この馬鹿、見境ないぞ」
 邪魔をしないでくれ、俺はすべきをする。邪魔しないでくれ。
「おい、聞こえるか。頭を冷やせよ」
 ボコン。肩が外れたのだと、その内側に鳴った音と激痛でわかった。
「痛っ」
「朝日ぃ、ここがどこだかわかるか」
 誰だ、ああ、笠置か。ここがどこかだって?
「……運動場です」
「そうだな。じゃああいつは?」
 ここにいるのは、気絶した先輩たちと背中にいるあんた、それと。
「巡さん、やっぱ強いっす」
 彼女に闘志はなく、その代わりに、なんだろう、不思議なものでも見たような、興奮と怯えがあった。
 笠置は俺の背から腰を上げた。わずかに傷を歪め笑っていた。
「これか、やつらを殺したのは」
 かろうじて聞こえたのはそれだけで、すぐに先輩たちを保健室に運ぶよう指示された。最終日だというのに訓練はそれっきりだった。
「巡さん」
 俺は迎えに来るはずの真実を校門で待っていた。巡がそれに付き添っていた。笠置に「見張っていろ」と言いつけられたらしい。
「敬称はいりません。あなたは歳上ですし、一等兵ですけど、軍人です」
 私はまだ学生ですから。彼女の強気さはそういった軍人と学生という格差の中で生まれた俺への負けん気から起こっているらしい。
「じゃあ俺も呼び捨てでいいよ。田舎じゃ敬語なんて、あんまり使わなかったし」
 彼女が学生ならば、俺だって少し前まではそうだった。配属も決まらず、どっち付かずの期間もあったのだから、すると巡の方がよほどまともな経歴だ。
 そんな彼女に敬われる資格、本当に敬っているかどうかは別としても、敬語なんて意味のないものだ。
「そんなわけにもいきません。あなたは一応上官になりますし、招かれた客でもありますから」
 一応、か。こんな半端者だ、それは正しい。
「招かれたって俺が? 笠置さんがそう言ったのか?」
「ええ。凄い新人が来る、と」
 さそがっかりしただろう。舐められていたのはそういう現実とのギャップのせいだっったのかもしれない。
「朝日さんは新設された部隊から来たんですよね」
「そうだけど……」
「どんな部隊なんですか」
「それは」
 しまった。真実からの命令を忘れていた。新入隊員を探さなくてはいけなかったんだ。笠置に頼んで……駄目だ、自分でやれと言われるのがオチだ。
「それは?」
 窓際部隊などとは口が裂けても言えない。巡は初めて見る明るい表情でいるのだから。
「若くて勢いのある隊長が率いている。やること全てが新しいからやっかみも多くて悪い噂も出たりしたけど、いいところだよ」
 非常に曖昧だが、嘘はない。嘘はないから許してくれ。
「なんだかいいですね。自分たちだけの居場所って感じで」
「お前にだってあるだろ」
「いえ、私は」
 彼女の凛々しさのある切れ長の目が、まだ熱を含む風にそよぐ髪が、白い肌が、細いが訓練の跡のある指が、薄い眉が、首が、肩が、どんよりと陰り背後にある不穏な環境をありありと滲ませた。
「お前……」
「よう、なに話してんだ」
 笠置はしらけてしまった俺たちの救世主だった。もうすぐ真実がくる。俺の任務は終わっていないまま。
 遠くの土煙、無言のまま巡をうかがうと、もう雲はなく、強い彼女がいるだけだった。相変わらずの荒っぽい運転で、そのくせうまくドリフトなんかしてみせた。
「真実」
「よう。なんだ誠、あんまり変化がないな。笠置さん、どうなってんの?」
「馬鹿。一ヶ月じゃこんなものだ」
 この騒々しさ。俺は懐かしい友人に再会したような、抱擁こそしないが、それに似た感情でいた。
「呼び捨てか……」
 巡がそんなことを呟いていた。したかったらすればいいのに。
「ようし! 帰ろうぜ、早く乗れ。ハネさん一人じゃ掃除が大変だからさ」
「お前も手伝えよ」
 笠置からは訓練を絶やすなと念を押された。
「笠置さん、ありがとうございました」
「また来い」
 苦笑いを返すと彼女も片目で笑った。
 トラックは動き出す。巡は直立を崩さず見送っている。
「あ、おい! 巡!」
 窓から上体だけ出して叫んだ。任務とか命令とかは頭になかった。
「うちに来い! 狸によ!」
「え? 狸?」
 真実は意図的にか、うんとスピードをあげた。彼女は運転が好きで、故意の暴走をする。
「あれが新人?」
「その予定」
 やつは来る。いや、来てほしい。人間は信じたいことを信じるらしいが、その通りだと思う。
「んで、どうだったよ。笠置さんは厳しかっただろう?」
「あ、そうだ! なんで延長なんかしてくれたんだ。おかげで苦労どころじゃない、ホントに大変だったんだ」
 喉で笑う彼女、文句を言う俺に、
「これで立派な軍人だ。害獣二匹だ。武器に金に欲しいもんは山ほどある。張り切っていこう」
 急加速でシートに背中を預けた。轍の先、まだ彼女はいるだろうか。
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