君はまだ、本当の自分を知らない

小説練習家

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残酷な提案

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 研究所の自動ドアは、相変わらず無機質な音を立てて開いた。白い。何度来ても、この白さには慣れない。

 受付を通され、奥の会議室へ案内される。机の向こうに座っていたのは、あの日と同じ男だった。

「……報告に来ました」

声が、思ったよりも冷静だった。

「彼がファイルを読みました」

男の表情は、わずかにだけ動いた。

「そうですか」

それだけ。それだけなのに、胸の奥がざわつく。

「症状は?」

「まだ明確ではありません。でも……欠損が、始まっています」

沈黙。

男は指先でタブレットを操作しながら、淡々と言った。

「予測どおりですね」

予測。

分かっていたこと。でも、分かっているのと、起きるのは違う。

「これからは研究所で保護観察します」

「え?」

「被験体──拓真さんを、こちらで管理します」

心臓が跳ねた。

「それは、どういう……」

「記憶が完全に消失するまでの経過を、正確に観察する必要があります。貴重なデータです」

データ。その言葉が、耳鳴りみたいに響く。

「だめです」

思わず、声が出た。男がゆっくりと顔を上げた。

「彼は、実験材料じゃない」

「契約時に同意されています」

「それは、私が──」

 言葉が詰まる。私が選んだ。私が望んだ。私が、署名した。それでも。

「最後まで、一緒にいたいんです」

机に、両手をつく。震えが止まらない。

「彼が全部忘れる、その瞬間まで」

男は、しばらく無言だった。やがて、小さく息を吐く。

「……条件があります」

私は顔を上げた。

「あなたが、記録を取ること」

「記録?」

「彼が何を忘れたか。どの順番で欠落したか。言動の変化。感情の揺れ。すべて」

冷たい声。

「それをノートに詳細に記す。そして、記憶が完全消失した時点で、そのノートを研究所へ提出する」

提出。寄付。彼の崩れていく記憶を、差し出す。

「それが条件です」

「……もし、断ったら?」

「その時点で、我々が強制的に保護します」

 逃げ場はない。選択肢も、ない。私は、目を閉じた。彼が笑っていた日々を思い出す。

「前から知ってる感じしない?」って、照れた顔。

あれも、消える。全部、消える。それを、私が、記録する。

「……分かりました」

声が、かすれた。

「書きます。一つ残らず」

男は小さくうなずく。

「では、本日から観察を開始します」

 紙のノートが差し出された。真っ白な表紙。まだ、何も書かれていない。

 これから、彼の“失われていくもの”で埋まる。私はそれを、両手で受け取った。重い。何も書かれていないのに、重い。

「後悔は?」

男が、不意に聞いた。私は少しだけ考えて、首を振る。

「……後悔する記憶も、いつかなくなりますから」

言ってから、胸が痛んだ。

研究所を出ると、外は夕暮れだった。スマホが震える。

拓真から。

『今日、何時に帰る?』

その文字を見た瞬間、涙が落ちた。まだ、私を覚えている。でも、少しずつ消えていく。

私は、ノートを開いた。

一ページ目に、書く。

──

一日目。

まだ、私の名前を呼べる。
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