君はまだ、本当の自分を知らない

小説練習家

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終わりの始まり

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 耳鳴りがした。さっきまで普通に存在していた部屋が、急に、遠くなる。

「……一度死んでる?」

聞き返した声は、自分のものじゃないみたいに軽かった。

緋依は、視線を逸らさなかった。いや、逸らせなかった、が正しい。

「横断歩道で、事故に遭ったの。私は……それを、目の前で見てた」

 胸の奥で、何かが鈍く鳴った。知らない映像が、勝手に脳裏に浮かぼうとする。でも、どれも輪郭が曖昧で、掴もうとすると崩れる。

「即死だったって、医師に言われた」

「……嘘だろ」

反射的に言った。

「だって、俺は――」

ここにいる。話してる。考えてる。

緋依は、小さく首を振った。

「あなたは……"今のあなた"は、ね」

その言い方が、決定的に嫌だった。

「研究所が、あなたのクローンを作ったの。事故の前に記録されていた記憶を使って」

 頭が、理解を拒否しているのがわかる。なのに、感情だけが先に理解してしまう。

「……待って」

喉が、ひりついた。

「じゃあ、このファイルに書いてあることは――」

「全部、本当」

即答だった。

 逃げ道を、最初から塞ぐみたいに。沈黙が落ちる。秒針の音が、やけに大きい。

「……欠点が、あるの」

緋依が、そう前置きした瞬間。嫌な予感が、背中を撫でた。

「クローンはね……」

言葉を選んでいるのが、痛いほど伝わってくる。

「自分がクローンだって、はっきり認識した瞬間から、記憶が、欠け始める」

……は?

「最初は、些細なもの。昨日の出来事とか、会話の一部とか。でも、進行は止まらない」

彼女の声が、少しずつ震え出す。

「最終的には……」

言葉が、一瞬、途切れた。

「人格ごと、消える」

世界が、一段階、静かになった。音が、遠い。

「……じゃあ」

ゆっくり、言葉を繋ぐ。

「俺が今、これを読んで」

ファイルを指で叩く。

「"自分はクローンだ"って理解した時点で、もう、だめってこと?」

僕は、解いてはいけない謎を、解いてしまった。緋依は、唇を噛んだ。

その反応が答えだった。

「だから……」

彼女は、一歩、後ずさった。

「研究所は、ずっと隠してきた。あなた自身にも、私にも、"言わないでほしい"って」

喉の奥から、笑いが漏れそうになる。

「最悪だな」

自分の声が、やけに冷静で怖い。

「知ったら消えるって。じゃあ、知るなって?何も考えず、普通の人間のフリして生きろって?」

 緋依は、何も言えなかった。その沈黙が、一番残酷だった。頭の奥が、じんわり熱くなる。

忘れていく?

消えていく?

じゃあ、今までの違和感はなんだ。彼女が時々見せる、罪悪感みたいな目は。知らないはずの好みを、知っていた理由は。

「……全部」

声が、掠れる。

「全部、俺を騙すためだったのか?」

「違う!」

即座に否定された。涙声だった。

「生きてほしかっただけ。形が歪でも、あなたに"存在して"ほしかった」

 その言葉で、胸が、きつく締め付けられる。優しさなのか、残酷なのか。もう、わからない。

けれど、一つだけ分かることがある。もう、始まっている。

 記憶の欠損。消失。何かを思い出そうとして、掴めない感覚が、さっきからずっとある。

「……なあ、緋依」

視線を上げる。

「俺が俺じゃなくなる前にさ、一つだけ、教えて」

彼女は、泣きそうな顔でうなずいた。

「本物の俺は」

 喉が鳴る。

「……幸せだった?」

一瞬。彼女の表情が、はっきりと崩れた。

「……うん」

声が、震えていた。でも確かだった。

「すごく」

その一言で、胸の奥が、少しだけ温かくなった。

それが、最後まで残る記憶になるかもしれない、なんてことを思いながら。
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