君はまだ、本当の自分を知らない

小説練習家

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何度でも恋をする

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 白い廊下は、やけに長く感じた。腕の中のノートは、もう私のものではない。

 受付を通り、奥の部屋へ案内される。机の向こうには、あの研究員が居た。私はノートを差し出した。

「観察記録です」

 彼は無言で受け取り、ページをめくる。滲んだ部分にも、破れた角にも、何も触れない。すべてを淡々と読み流していく。

やがて、閉じた。

「記憶は完全に消失しましたね」

「……はい」

「自己認識、他者認識、情動接続。すべてゼロ」

ゼロ。

数字にすると、あまりにも簡単だ。

「契約に基づき、被験体は本日より研究所で管理します」

胸がきゅっと縮む。

「管理……?」

「再学習過程の観察、および長期的データ取得のためです」

淡々とした声。感情はない。

「彼はもう、元の人格を取り戻すことはありません」

視線が、まっすぐこちらに向く。

「現在の状態は、人格を持たないクローンと同等です」

言葉が、刃物みたいに落ちてくる。

「今後、新しい記憶は定着しません。
名前を覚えることもありません。
関係性を理解することもありません」

一つずつ、確定させるように告げる。

「生きてはいます。しかし、それ以上ではない」

部屋が静まり返る。時計の秒針だけが動いている。
研究員は続ける。

「それでも、あなたは、共に過ごしますか?」

息が詰まる。

「彼はあなたを覚えません。あなたの名前も、声も、存在も。毎日、初対面です。毎日、説明が必要です。そして翌日には、すべて消えます」

声は冷静だ。残酷なくらい、正確。

「それでも?」

私は、少しだけ目を閉じた。

星のオムライス。万年筆。

名前を書けなくなった日。

「どなたですか」と言われた朝。

全部、私の中にある。彼の中には、ない。でも。ゆっくりと目を開ける。

「一緒に過ごします」

声は震えていなかった。研究員の目がわずかに動く。

「理由を聞いても?」

少しだけ考える。

「彼が覚えていなくても」

言葉を選ぶ。

「私が覚えているから」

静かな部屋に、言葉が落ちる。

「彼は人格がなくなったんじゃない。私の中に、ちゃんといる」

研究員は数秒、沈黙する。

「非合理的です」

「はい」

「苦痛が伴います」

「はい」

「報酬はありません」

「知ってます」

それでも。

「一緒にいます」

はっきり言う。

「毎日、はじめましてでもいい。毎日、自己紹介します。毎日、好きになります」

研究員はノートを机に置く。

「……あなたの意思を確認しました。ただし、責任はすべてあなたに帰属します」

「構いません」

「将来的に精神的崩壊が生じても、当研究所は関与しません」

少しだけ笑う。

「もう、とっくに壊れてます」

初めて、研究員の表情がわずかに揺れた。

「被験体をお連れします」

 扉が開く。彼が入ってくる。まっさらな目。私を見る。少し、首を傾げる。

「……どなたですか」

胸の奥が静かに痛む。でも、今度は泣かない。私は一歩前に出て、笑う。

「はじめまして」

ゆっくりと言う。

「私は、緋依」

少しだけ、間を置いて。

「あなたの隣にいる人です」

彼は、穏やかに頷く。

「よろしくお願いします」

知らない人の声。でも、生きている。私は、その隣に立つ。研究所の白い壁が、やけに遠く見えた。

「帰ろう」

そう言うと、彼は首を傾げる。

「どこへですか」

私は微笑む。

「あなたの帰る場所」

彼は少し考えてから、

「……はい」

と答えた。それでいい。今日も、はじめまして。そして。また、恋をする。
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