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第5話
(11)
しおりを挟む賢吾の言葉は、危険な罠だと思った。再び和彦と三田村が手でも握り合っていたら、待ちかねていたように非情な罰を与えてくるのだ。
ヤクザにとって、組長というのは絶対の存在だ。かつて三田村は、飼い主に逆らうことはしないと言っていた。三田村にとっての飼い主とは、もちろん賢吾で、三田村はその賢吾の従順な飼い犬だ。
賢吾は、飼い犬の忠誠心を試しているのかもしれない。
書斎にこもってずっとパソコンに向き合い、必要な書類を作成していたが、気を抜くとすぐに、賢吾から言われた言葉を思い返していた。
賢吾が言っていたヤクザらしい駆け引きなどわからないし、わかりたいとも思わない和彦だが、狡い駆け引きなら、すでにやっている。
〈後始末〉という便利な言葉を使って、三田村の愛撫を堪能した。しかも、挑発したうえで。
持て余すほど立派なイタリア製のイスに両膝を抱えて座り直し、膝の上にあごをのせる。この数日、三田村に代わって、長嶺組の別の組員が様子をうかがいにくるが、インターホン越しに言葉を交わすだけだ。気が紛れるどころか、鬱屈が溜まる一方だ。
賢く、したたかになると決めた和彦だが、自分はただ、狡猾に、多淫になっているだけなのではないかと思えてくる。
仕事を再開する気にもなれず、コーヒーを入れてこようと書斎を出る。このとき何げなく時計を見たが、そろそろ夕方だ。
窓に歩み寄り、まだ明るい外の景色を眺める。いつもなら、夕食を何にするか考える時間だが、わざわざ外に食事に行く気にもなれず、宅配でピザでも頼もうかと思う。千尋と買い物に出かけた先で不審な男に絡まれてから、なぜか和彦まで、たとえ近所であろうが、同行者なしで出かけるなと言われているのだ。
そして、こんなときに、側に三田村はいない。
ガラスに額を押し当てた和彦が、重いため息をつこうとしたとき、突然、携帯電話の着信音が鳴り響いた。リビングでずっと充電器に繋いだままだったのだ。
携帯電話を取り上げると、画面には中嶋の名が表示されていた。
「もしもし……」
『ああ、よかった。これで出なかったら、諦めようかと思ったんですよ。先生を誘うの』
どういうことかと尋ねると、中嶋はこの一時間ほどの間に、数回電話をくれていたらしい。和彦は書斎に閉じこもっていたため、まったく気づかなかった。
「君の熱意はわかったが、それで何に誘ってくれるつもりなんだ」
『先生、メシは食いましたか?』
「……まだだ。味気なく、ピザでも頼もうかと思っていたところだ」
『だったら、俺たちと食いませんか。しかも、花火つき。もちろん、美味い酒もありますよ』
人と話す気分でもなかったのだが、中嶋の誘いに心惹かれるものがあった。
「花火……」
『俺が馴染みにしている店の近くで、今日、花火大会があるんですよ。それで店を貸し切りにして、楽しく飲み食いしながら、花火を観ることにしたんです。集まるのは、この間先生と一緒に飲んだような連中ばかりなんで――ものすごく気楽ですよ」
中嶋は、和彦の誘い方を実によく心得ていた。先日、初めて中嶋と飲んだときに、スポーツジムを紹介してもらったのだが、その場には、数人の男たちも同席していた。一般人ではないが、ヤクザともいえない、そういう中間の位置にいる男たちだ。ときどき中嶋に頼まれて、さまざまな仕事を請け負っているのだという。
和彦の前では剣呑とした雰囲気や話題を避けてくれていたのか、そう危険な印象は受けなかった。だが明らかに、普通ではない業界に身を置いている人間たちの匂いはプンプンしていた。
善良な一般人でなくなった和彦にとって、中嶋や、その仲間の男たちと飲んで話すのは、砕けた雰囲気もあり楽だった。中嶋も、そんな和彦の様子が見ていてわかったらしい。
若くして出世するためには、抜け目のなさは必須だと、中嶋と接しているとよくわかる。
「……花火は魅力的だ……」
『綺麗ですよ。俺は毎年観てるんですけどね、今年は派手に楽しもうと思ってたんです』
「どうして?」
『俺が総和会に招き入れられたのは、今年の初めなんです。記念の年ですよ』
なるほど、と和彦は口中で呟く。中嶋の言いたいことは、なんとなくわかる気がした。おそらく、ただお祭り騒ぎをするためだけに、花火を観る集まりを催したわけではないことも。
「野心家の君らしく、何かいろいろと考えていそうだな」
『過大評価ですね、先生。俺を野心家なんて。――ただ、誰にでも、息抜きの場が必要だと思っているだけです。俺は、それを提供するだけ。〈交流〉は大事ですよ』
中嶋も、和彦がこんな話を信用するとは思っていないだろう。口調には、どこかおどけたような響きが混じっている。和彦は小さく笑みをこぼして返事をした。
「これから行くよ。メモするから、場所を教えてくれ」
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